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【491】三八豪雪 あれこれ話その4
 乙訓の長老  - 06/2/8(水) 14:21 -
  
三八豪雪 あれこれ話 その4
2人は9時前に着いた。なんでも試運転を兼ねた救援列車に便乗して来た様で、直ぐに会社が使っている料理旅館「福岡館」へ案内した。道々きけば武生駅構内で電関の脱線があり、以遠不通となったとの事。ここで引き返せたのかどうかは聞き漏らしたのか、覚えが無い。2人は国道8号に出て、見付けたのがトナミ運輸武生営業所。老人の勤務先の救援隊だと名乗り上げ白菜1ケ進呈の上、金沢までトラックの荷台で15時間揺られてきた由。
なぜ吹雪の中を強行突破して来たのか、それは倶利伽羅で生鮮野菜、つまり青物が食いたいと言った事による。2人はそこで白菜、葱、キャベツ等を担いで来てくれたのである。
昼休みに「福岡館」に出向いてみると、2人は居ない。置手紙があり、「富山から高山線経由で帰る。」とだけ記されてあった。この日から生活列車のみ運転再開となり11時過ぎに駅で汽笛がしていたので、それで東へ向かったようだ。青物は3つに分けさせてもらった。
29日まで小降りだったが、30日から再び吹雪くが前よりましだ。生活列車に加え貨物列車も復活である。西で滞留していた物が弾かれた様に次々とD51先頭にやってきた。この時、珍しい蒸機を見ている。D50だ。この機はサン・ロク・トオ 以来、高岡〜富山間での城端線からの通勤通学列車の乗り入れ牽引や東富山の入換機でしか見られなかった。この頃、城端線や氷見線の通勤通学列車は見事なオハ31系編成であった。
月変わりと共に吹雪く事も無くなり、雪下ろしや町内の除雪が急ピッチで進んだ。越後の長岡では感電死が伝えられた。雪下ろしで、道路は6Mを超える積雪となり電線が雪の下になったからである。国道8号は開通したとはいえ、敦賀・武生間で雪崩の事もあり通行規制が厳しく不通同様であった。北陸トンネル開通の効用は大きく、鉄道の存在は見直されたのである。
2月2日(土)仕入先商社から「すき焼」をするから来ないかと、誘いがあった。勿論、大乗りである。その後は麻雀付なのだ。深夜、表道路からホイッスルが聞こえた。加越能鉄道高岡市内線の除雪であった。除雪が済めばデハ5010型が繰り返し走行した。
翌日、伏木へのルートが確保されたので行ってみた。氷見線伏木駅にはレ、レムが多数留置されていた。駅助役に聞けば、時化のため漁師が操業できず積む物がないと言う。瞬時に「こいつだ」と思った。西からD51,50で急送品は送られて来るが、北国からは出荷できない状態にあった。理由は操車機能のマヒ、貨物の積み下ろしや配送の不能にあった。そのため貨車の空車不足となり、福岡駅では車扱いの申し込みは受付してもらえなかった。。そこで老人は駅へ「伏木駅には空車がある。あれを廻して貰えば一件落着となるではないか」と交渉した。
2日後、冷蔵車が3両回送されて来た。提案者優先でレ、レム各1両が確保できた。10トン15トンで計算して申し込んだら、7トン、10トンにせよとの返事。何ゆえかと問えば、「先にお客さんが乗っている」と言う。お客さんとは、屋根上の雪の事であった。こうした事が一週間ばかり続いたが、日ごろトナミ運輸を愛用していたのにも係わらず、製品出荷を助けてくれたのは鉄道であった。

「立山」が走り出し、やっと正常ダイヤにもどった。「白鳥、黒部、北陸」が走り出したのは2月17日からだったと思う。以後、荒れることなく3月を迎えた。
その3月20日、フェーン現象で急激な気温上昇となった。この頃、後番から夜勤の当番をしており午後5時頃出勤としていた。下宿を出て100M程歩いて、前方の屋根越しに黒煙が上がるのが見えた。工場の方向である。下駄を掴んで走った。火は工場の窓から吹き出ていた。電柱に登り開閉器のロープを引いた。後は消防にまかすのみである。鎮火後、工務室に入って棚上の老人の大切なもの物をみたら、それは火と水で原型を留めていなかった。一年半かけて武生−黒部間、出張の合間に訪ねた信越、東海地区などのローカル鉄の車庫訪問記録とネガフィルムで、すべて灰塵となってしまったのである。
工場炎上の後は復旧、新工場の用地買収、工場建設(レイアウト)に追われカメラを持つ事はなかった。保険屋の現場検証後にカメラ持込が許され、その残りフィルムで撮影したのが雪融けの福岡駅(P8、P9)の姿である。踏切番と仲良しだったから、こんなシーンが撮影出来たのだろう。
貴重な体験をした福岡町を離れ大阪へ転勤となったのは新工場起工式の後で、送別会をしてくれた9月15日(日)夜、「つるぎ」とした。「つるぎ」は富山〜金沢間普通で最終列車であった。この日、琴平参宮電鉄の最終日でもあった。善通寺の義兄からの便りで気懸かりであったが、行けなかったのは、会社人間と化していたからだろう。
豪雪の事はさる事ながら、野菜を担いで来てくれた2人の友情は終生、忘れることはない。
重沢君、湯口君、ありがとう。

《下請け編集者注:その1で「大人」の読み方を“たいじん”としるし“おとな”と読むのではない旨を書いたところ作者から厳重抗議を頂いた。改めて“たいじん”と読む》


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