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仙台鉄道は敗戦後の1948年度では130.3万人、1949年度125.1万人の乗客があった。それが1950年度60.7万人、翌年度45.5万人、1954年度には34.2万人まで落ち込んでいる。
その理由は台風や集中豪雨で、特に1949年8月4日の被害が致命的だった。当時2,900万円の負債の上に、1,400万円の復旧費用が捻出できず、1950年11月15日申請、1951年2月19日許可で北仙台―加美中新田間40.5kmを休止。
同年4月7日付で蒸気機関車8両(B71〜5、B81、C101、C103)、気動車1両(キハ1)、客車7両(ハ2、3、10、ハフ5、7〜9)、貨車有蓋6両、無蓋16両、計38両の廃車を届出。米だけでなく、沿線産出の亜炭(低質の石炭)などを、1949年度2万トン輸送していたから貨車も規模の割に多いほうだった。
中新田町が国鉄駅と遠く離れていたため、羽越西線中新田―加美中新田間3.4kmのみが、通勤・通学者のために残存し、1日14往復(片道10分)を続けた。
主力はキハ3で、ラッシュ以外ほぼ独り舞台の活躍である。途中停留場すらなく、ひたすら農地ばかり。
ラッシュ時はDB701(協三工業製=増備届の1952年5月13日には稼動していた筈。設計認可は1953年3月18日)の出番で、それこそありったけ(と行っても僅かだが)を曳く。
国鉄連絡の中新田(のち西古川)の配線は文字通りの1本突込みで、キハ単行ならともかく、機関車牽引列車はどうするのかと思うが、駅の手前に機回り線があり、推進で戻って機関車を付け替える。
短縮時に撤去したのであろうが、留置線も何も残っていなかった。
退校時の高校生を満載したキハ3は、加美中新田駅に入る前の無人踏み切りで一旦停止し、車掌が下車して歩行誘導したのに驚いた。少し前バスと接触事故があって以来だそうだが。
下駄履きも何人かいるが、小生とて、同志社の4年間(何回授業を受けたかは別にして)は、ほとんど下駄ばきであった。乙訓のご老公も東北電車歴訪の旅に、まっさらの下駄で出かけている。
加美中新田―北仙台間の休止は何度も期間を延長したが、結局は1956年3月14日廃止許可。1959年10月15日残存区間の廃止が許可。翌1960年5月1日廃止が実施された。1959年度の乗客は57.7万人と、短い割には回復していたのだが。
前回キハ3の戦後動車復帰(協三工業施工)に際し、心皿間延長と記したのは小生の記憶違い(歳のせい)で、元来4,870mm(16フィート)で変化はない。
台車はダイヤモンド型だが、ホイルベースが1,016から1,180mmに、車輪径も457から560mmになっており、台車は新製であろう。
戦後では他に遠州奥山銭両、鞆鉄道キハ3しかなかったチェーン2軸連動であった。
また戦後台風で壊滅した鉄道は多く、東北地方では1948年のアイオン台風で山田線、小本線が寸断。急きょ釜石西線を1067mmに改軌して釜石へ連絡し、国鉄最後の762mm軽便線が消滅した。
仙北鉄道築館線も1947、48年カスリン、アイオン台風被害が復旧できず、道床を専用自動車道化してバス・トラックが走ったのが周知である。
仙台鉄道の写真は、ほぼ全部3.4kmに短縮後で、蒸機牽引写真はほぼ見た事がない。
小生の写真は前回分が1955年3月28日、今回分が1958年9月1日である。
水害直後の残存車輌は、ピク誌151、152号、鉄道ファン誌205号に当時仙台遊学中の瀬古龍雄氏撮影写真がある。ピク誌762号には中川浩一氏の、短縮後の列車写真があり、後尾の無蓋車に高校生が大勢乗っている。
実は小生仙台鉄道北仙台でのコッペル機汽笛だけは記憶がある。親父が転勤族のため、1943年仙台市立東ニ番町国民学校初等科に入学した「小国民」だったからである。そのすぐ後名古屋に転勤、家族のみ福井に疎開、敗戦後は京都・山科に住み、C53からD62までの汽笛を聞いて育ったが。
【仙台キハ3(2).jpg : 108.2KB】
【仙台ラッシュ時の列車.jpg : 133.2KB】
【ラッシュ時の列車2.jpg : 227.4KB】
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