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【726】で「半ぼけ老人」とお呼びになった御仁がおられる。老人は「ぼけかけ」であるのは間違いないが、まだ「半ぼけ」までは到っていないと自覚しておったから、無闇やたらと落ち込んで、昼間から酒を飲まにゃならん仕儀に立ち到った。誰だ、それ自体が「半ぼけ」の証拠だと抜かした奴は。
とはいえ撮影日や場所を記さなかったのは、確かに「ぼけかけ」には違いないと、早速自省したのが余人と根本的に違う謙虚なところである。かくして老人は淋しく老い込み、呆けて、余命幾許もなくなっていくのであろうから、あわてて追記をする。
撮影は全て1952年3月9日。一筆書きの連続乗車券で岐阜、名古屋、関西線、奈良線で一旦京都に戻り、栄養を補給し、京都発21時00分、247レで宇野着3時13分、4時05分の連絡線で高松着5時20分であったと記憶する。
夜が明けるのを高松駅で待って瓦町へ。その1【726】でご覧いただいた単車の1はまだ現役である。55、84、21、71が瓦町の留置線での撮影。
3は今橋車庫で撮影。といっても、このあたりは線路や始発駅の変更等で全く姿を変えているから、どなたか新旧の路線図でも描いてくださらんか。大体が電車にあんまり興味を持たぬボケかけ老人には難儀じゃて。
その2【728】の31荷電も今橋車庫で。半鋼ボギー電車は当然仏生山。Yゲルの堀端52は瓦町−片原町間。
その3【729】の510は仏生山。21+71は瓦町−片原町。オープンデッキの残る5、4は今橋車庫。手当たり次第にスキャンしたため、こんなめちゃめちゃ配列になった。これもボケの表れか。悲しいのう。
仏生山での電車右側にチラリと写っているのは、高琴名物の2軸クハである。之を見せないとは、との非難の声が巷にあふれると老人は困惑し、余計寿命を縮めるから、改めて添付しておく。
誰が見たって国鉄のワフ23000だが、高松琴平は1435mm軌間である。国鉄非動力車両はかつての広軌論争以来、原則長軸を採用している。これは軸箱守を支える縦梁間隔が広く、車輪と車軸が接する部分(ホイールフイット)を外側にずらせば簡単に1435mm化するのである。
貨車を代用客車として使うのはそう珍しいことではなく、大量の軍隊輸送は有蓋車が当たり前だったし、敗戦直後は無蓋車も動員された。私鉄で有蓋貨車を客車化したのは熊延鉄道が有名だが、高松琴平ではクハにした。1両は足回りをブリル台車に交換している。
せっかく写真が3コマ添付できるので、まとめてと予定していた戦前・先輩の写真を2枚もお目にかける。撮影は小生よりさらに17年早い1940年4月11日、撮影者は若林美雄氏。場所は高松桟橋で、画面左に国鉄客車が覗いている。
この路面電車がステップを切り取り、高床化して(その1、2)でご覧いただいた52や55の姿になったんじゃぞ。写真はほかにもあるから、次回をお待ちあれ。
乙訓老人よ! いつまでも黙っとると、おまはんもボケてまいまっせ!
【高松琴平クハ1110.jpg : 138.9KB】
【高松琴平クハ1130.jpg : 113.5KB】
【四国水力電気.jpg : 150.4KB】
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