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須磨の大人よりまたしてもあいくちを突きつけられた。しかも老人の領域で元新兵以下に引き摺られてか、詳細不明なるが寸暇を惜しんで酒を食らっていたとは!
最初に一つ、長尾線は当時600Vであった。瓦町〜高松築港間は異電圧単線並列であった。600V区間は志度線、長尾線共用だが、ラッシュ時は志度線が優先で、長尾線はほとんどが瓦町折り返しであった。現在は逆転で、志度線はぶち切られてしまった。
半世紀前のこととなるとあやふやな覚えしかないかも。
先ず大型単車。志度線の前身、四国水力の1形がプロトタイプ。台車は富岩鉄道デ10と異なるブリルのラジアル台車であった。過去形としたのは、この時はラジアル機構を殺していた。戦後も残っていたものは簡易鋼体化の車体更新を行い、志度線と長尾線で走らせていた。鶴君が1961年3月に行った時は1,2号の2両が、長尾線で平木折り返しやトレィラーで走っていた筈。ステップレスとしたのは、高松市内線が戦災で全滅したため、鉄道線型とした。他の車両は大人の説明通りだが、元山陽は簡易鋼体化された後の姿。
さて、探検隊は1954(昭和29)年、洛北高校1年の夏休みには2度目の一人旅の地を四国とした。姉が善通寺で所帯をもったからである。高松琴平電鉄での探検目標は事前に立てていた。それはTMS38号で紹介された、電車に化けたワフ25000に乗ること。
8月初旬のある日、京都21時発四国連絡宇野行きオハ35で出発、高松着は5時過ぎ。関西汽船や加藤汽船の到着風景を横目に高松築港駅に向かう。駅は仮駅で現駅より南寄り、今もある踏み切りの北側に2両連結用の木造ホームが2本。ややあって鋼製の琴平行きと木造の志度行きがやってきた。単線並列となっており、駅員に尋ねたら電圧が違うとのこと。学割の切符は高知行きとなっている。徹夜で汽車の旅を楽しんだこともあり、睡魔が襲ってきたので善通寺へ向かうことにした。
翌日、琴参電車で先ず琴平神社へ。そして昨日仕入れた情報に従い瓦町駅へ。居るぞ目的のワフ改造の電車(P31)が。そして明治の電車の残骸(P32)が。出入りする電車も素晴らしい。それよりワフは動けそうにない。こいつは問題だ、仏生山車庫へ行くことにした。
車庫を訪ねたら、向井哲一郎工場長が応対してくださった。前(1953)年、買収国電である元宮城電鉄300形3両を購入し、制御車2000形としたのでワフを廃車にしたとのこと。ワフは11000形となり、瓦町に1130,1140号、残る1110、1120、1150、1160号が仏生山に役目を終え安置(P33)されていた。その中で1120号の車内に入れさせてもらったが、車掌室が運転台となり貨物室には木のベンチが客用扉を中心に4列、裸電球のソケットが4個ぶら下がっていた。多客時には1000,3000形の前後につなげて運転したとのこと。この当時の最大運転速度は時速65km。沿線のカーブに差し掛かると、ワフ50の速度制限表が立てられていた。向井工場長とは、その後6年間もお付き合いが出来た。
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【変32.JPG : 104.5KB】
【変33.JPG : 63.8KB】
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