|
まとめて責務を果たすことにしよう。
【728】先ず荷電だが、高松電軌(1067mmゲージ・現長尾線)のもので、琴電合併後に標準軌へ改軌された。戦後の混乱期には人を乗せたと伝えられている。2枚目は1000形。3000形とは台車が異なる。3枚目は志度線の50形。ガソリンカー並みの簡易連結器があり、戦前は栗林公園以東の鉄道線で簡易総括制御器(機構は忘れた)による重連運転をやった。戦後は志度線、長尾線でラッシュ時には重連となった。
【729】に移り、最初の2枚は5000形。貫通扉が車掌台の方への片引き。このため運転手は扉開放で運転、かぶりつきの探検隊にはとても涼しかった。
次の2枚は1000形重連と1000形+2000形。大人撮影半年後の姿を御目に掛ける。先頭がクハ2000形、買収国電の成れの果て。台車は改軌されている。クローバ会写真展では長尾線74号の溢れている高校生が紹介されたが、琴平線の方もこの有様。(P34、35)義兄に聞いた1963年頃の話だが、着膨れで4連では収まらなくなり仏生山からの増結を1両増やし5連としたところ、太田だったか三条で押し込まれた学生がポロリと反対側の扉から落ちた事が報道され、当局から大目玉を喰らい慌ててドアーエンジン工事に着手したという。幸い両駅は単線区間の片側ホームで、落下者が若者だけに事なきを得たとか。
次の6枚、上段はステップレスとした時のままの未改造車、当局の指導により鉄道線では扉を設けなさいとなり、6両が簡易鋼体化と共に改造された。この時、改番があったが、4,5は改造なしで旧番号のまま今橋車庫の裏に放置されていた。
下段、鋼体のみの2両。帝国車両に発注するも金がなく、電装品は勿論、台車その他が調達不能となり、帝車で雨ざらしとなっていた由。1955年夏の訪問の時はなく、1956年は行けずで、大人訪問の1957年3月迄の間に運び込まれたようである。その後、1958年から艤装に着手、台車はTR11を今橋車庫で改軌、電装品は国電の中古品(CS4とMT7やったと思う)、MG(新品)等かき集め仏生山工場で車体内装工事と共に仕上げた。1960年春訪問の時は夏には走ると聞かされた。客用扉間5窓分は対向クロスシートで、「こんぴら2号」と名付けられた。竣工届を当局に提出したら、片原町上手のカーブ(堀端へ向かう方向)でこの車同士がすれちがうと、規則より10mm限界よりはみ出すと当局お達しがあり、運転まかりならぬとされた。カーブでの線路移動工事は巨額の費用と日時を要するので、窓に保護棒を付けることで「堪忍してください」となり、とりあえず1960年10月の金毘羅大祭に間に合わせた。2両1編成しかないのに、当局は意地の悪いことをしたものだ。1961年春、「こんぴら2号」を追い掛ける筈が果たせず、改造後しか写真を撮っていない。幸い鶴君がキャッチしているのでお目に掛ける。(P36)
さて、大人から次は何が出てくるか、楽しみにしている。
【変34.JPG : 92.4KB】
【変35.JPG : 122.3KB】
【変36.JPG : 96.4KB】
|
|
|