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シーニーゲ・プラッテ鉄道 その3
京阪特急本が売れに売れ、手が空いた乙訓老人が猛烈に勢いを盛り返した。あっけにとられてこっちはいささか出遅れたが、気を取り直して懲りずにヨーロッパ軽便を続ける。
シーニーゲ・プラッテの頂上駅は、天候急変で下山客があふれていた。前回[793]の5コマ目、5号蒸機が押し上げてきた客車は古い木製の窓の無いタイプで、窓上にキャンバスが巻き上げてあるのが分かろう。天候悪化でそれを下ろしたので、景色は一切見えなくなった。
電気機関車は3種ほどあるが、いずれもコンパクトで好ましい。三重交通にいた50型電機はGE製で雰囲気はまったく違うとはいえ、何やら共通点もありそうだ。
そのコントロ−ラーをご覧いただきたい。床に対し傾いて立っている。これは急勾配での運転手に対する配慮である。
パンタを下ろして急坂を下がる写真を出せ、と某氏から注文が。分かり難いが縦写真は架線とパンタが離れている。
我々は途中で下車し、次の列車に乗換えることに。小さな駅だが駅員が居り、同じ建物の中でスナックもある。天候不良を招いた原因は御神酒の上げようが足らなかったためにほぼ間違いないとあって、次の列車までの間に神に対する義務とサービスを履行した。バーテン?はたった一人の駅員が兼務していた。
効果はてきめんで、下山時は天候が回復していた。蛇足だがこの小駅の男性用トイレ(小)は、ステンレスの幅広樋が勾配を付して壁を走っており、各人己にふさわしい高さを選んで用が足せる―懸命に背伸びをする必要の無い珍しい構造だった。
話は遡るが、オーストリアから寝台夜行でスイス入りし、チューリッヒから迂回しながらアッペンツェールに向かうとき、我々はバックパックをチッキ便でアッペンツェールに送った。チッキ(何語か知らない。日本語かも)とは、かつて我国国鉄でも全国ネットで行っていた荷物の託送システムで、連帯運輸しておれば私鉄やバス、船でも扱っていた。
駅の出札口の隣に必ず手小荷物窓口があり、乗客が乗車券を示して荷物を託送するのが手荷物、荷物だけ送るのを小荷物と云った。手荷物客車はそのために連結していたのである。日本でそれがなくなったのは、年中行事の長期スト等乗客無視で信用をなくして顧客が国鉄を見限ったのと、駅員不在駅が増えたからで、宅配便が取って代わって久しいが、スイスでは健在である。
これが仮にイタリアだったら、いくら重くとも荷物は自分で持って移動する。果たして指定の時間に、あるいはちゃんと着く保障に乏しいからである。ところがそこがスイスで、驚くほど正確に、最短時間で荷物が着くのである。我々は寄り道しながらアッペンツェールで荷物を受け取った。
旅程の最後にもチューリッヒで受け取れるよう、荷物をチッキで送った。この間最小限のデイパックだけで撮影行ができる。タグの裏側には着駅名、名前、住所、電話番号を自分で記入する。このタグはチューリッヒ中央駅で朝6時40分受付を示している。
【SPB19.jpg : 98.5KB】
【SPB18.jpg : 71.0KB】
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【チッキのタグ.jpg : 70.0KB】
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