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[822]総本家特派員氏の投稿を見た途端、辛抱たまらずすぐ反応=反射神経抜群なのか、単なるこらえ性が足らんだけか。おまけに余程ヒマなのか。余命幾許もないから、少しでも世のため人のための公共精神発露か。またまた53年前の記憶を搾り出す羽目になったが、昨日食べた献立よりはよく覚えている。
淀川右岸、左岸(蛇足だが右・左は上流から下流を見た方向である)にいずれも建設省の工事用恒久軌道が敷設され、長らく使われていた。
左岸は枚方に基地があり、軌間1067mm、旧内務省(戦後建設省)のいわゆる1100系Cタンク機が何両か働いていたが、老人は遂に京阪を下車して見に行くことはなかった。最終的に河川敷はゴルフ場になっている。
右岸はドコービルから始まった軌間600mm軌道だが、何と複線で、道路とは平面交差だが皆瀬川に敷設され阪急、国鉄とは当然ながら立体交差していた。斜面を削り採取した砕石を水辺まで忙しく運搬していたのである。
ここの蒸機はかわいい国産Bタンク、それも戦時中のもので、長らくメーカーが不明だったが、はるか後年日本牽引車製造=森製作所が戦時中強制的に高田機工と合併さされて製造した機関車であったことが判明。(名取紀之『森製作所の機関車たち』参照)
老人が尋ねたのは1954年の5月と記憶する。残念なことに蒸機は前年度で運行を止めており、それでも奥に1両いるというので、ディーゼル機関車牽引の列車に乗車。トロッコは乗り心地が悪いからと機関車に乗せてもらったが、キャブが狭いのに恐れ入った。
奥の基地には確かに1両が、小屋の中に残されていた。正面しか撮れなかったが、キャブ端面の窓はコッペルもどき、煙室扉下部等は雨宮もどきである。さすがの臼井茂信氏もこの写真だけではメーカーを即答できなかったのが懐かしく想い出される。この時期零細業者が何やかやと産業用粗製蒸機を乱造しており、中には1両だけのメーカーもあったのである。
この時は既に国産ディーゼル機関車が主役だったが、ただ真っ黒くてやたら小さいのに、何とも精悍な鉄の塊のようなガソリン機関車も1両健在だった。これもはるか後年、老人よりずっと若い内燃機関車マニヤにホイットカムだと教えてもらった。
ホイットカム以外の写真は故大橋一央(弁太郎)氏1940〜51年の撮影である。
【水無瀬の蒸機.jpg : 135.5KB】
【日本牽引車製造機.jpg : 125.0KB】
【ホイットコム機.jpg : 109.1KB】
【淀川1100系機.jpg : 175.4KB】
【淀川1100系機2.jpg : 225.9KB】
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