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盆休みは久し振りに現場仕事でウロウロした。その間、VISTA関連で介護師士3号に助けられた。大文字はテレビの前、酷暑でぼんやりする間なく地蔵盆、盆明けの現場と玉座の仕事で、もうあかんわと白旗を上げようとしたら昨夜来の雷雨でやっと人心地をえた。
その間、光明丹が話題となり、楽しい読者となっていた。先ず「鉛」だが富山在勤中、4鉛化チタンなるものを塩ビと顔料の安定剤と使っていた。「鉛」と知り取扱いに細心の注意を払うように配合班長に話し、瓦斯マスクとゴム長手袋を購入、必ず着用するように指示したことが思い出される。昨年秋、富山時代の連中と旧交を温める機会があり、5歳上の元配合班長のことが気になり尋ねたら、定年を前にして癌で早死したと聞かされた。T加太会会員さん、関係あるのですか?
辰砂なる単語が出てきた。常温で唯一の液体金属元素・Hg(水銀)の原料である。
水銀は辰砂を焼いて作る。老人の父母の眠る郷には水銀鉱山があった。宇陀鉱山といった。小高い丘の中腹に穴倉があり、辰砂をトロッコで運び出しリフトを使い空き地へ送り焼結していた。小学校の頃、それを見に行き叔父に話したら、「水銀は毒だから行くな」と注意された。ところが伊勢湾台風(1959年)で茶粥の里である親父の出生地が水害に見舞われた時、東北旅行から帰京するや災害復旧で3週間ばかり応援に行ったが、泥まみれになった道路に辰砂の鉱砕を撒いた。湯気が上がっていたのをおぼえている。その後、宇陀病なる病名は聞かない。精錬技術が優れていたのか、無機であったから影響なかったのか、これもT加太会会員の出番か。宇陀鉱山から東に一山越えると「丹生村」があった。
耶馬台国の卑弥呼は辰砂を塗りたくっていたとか。湖南の美女は辰砂の液に沈められていた。「鉛」「丹」は薬効と長持ちのため古くから人間生活に機能していたのだろう。電車の世界では主に鋼製屋根の錆止め塗料として用いられたが、だが貴重な「丹」を塗料原料としていたとは考えられず、なにか代替品が使われていたのだろう。思い出すのは南海電車の屋根。阪神、阪急、デイ100、嵐電、叡電なども比較的遅くまで鉛丹ペイントだったなぁ。
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