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清水先輩と和田先輩の書込みを楽しく拝見させていただいております。その中で【130】森ノ宮練兵場のところで一部勘違いなさっておられるのではないかと思いまして書込みをさせていただきました。(本当に重箱の隅をつつくような話で申し訳ございません)「城東線の70系からもよく見えていましたが・・・・」のところで、私も最初は、阪和線の70系が城東線に乗入れ「関空直行」や「紀州路快速」に使用されいたのだなあと思っておりました。とある日、その頃はたして関空は存在したのだろうかと疑問を持ち、もしかして72系と勘違いされておられるのではないかと思いました。70系は、3扉セミクロスでグリーンとオレンジのツートンカラーで阪和線の直行や快速(特急、急行の時代は私は知りませんので)で、茶色で京都、西明石間を走り、たまに河瀬行の臨時電車で走っていたあの電車です。4扉で3段窓の電車でしたら72系であります。私も昭和45年から50年まで京都、大阪間、その後、52年までは鴻池新田までを国鉄で通勤しておりましたので、仕事で遅くなり快速電車の運転終了後等は72系の普通電車によくお世話になりました。3段窓と2段窓の隙間から、雨風が容赦なく入り、車内照明は、20ワットの蛍光灯が16灯しかついておらず、また座席の下の暖房も少なく冬は最悪でした。全金の920番台や車体更新車は、窓がサッシでしたので、隙間風や雨水は改善されましが、蛍光灯や暖房は同じで、内装の薄緑色のアルミデコラが余計に寒々とした印象を与えておりました。それでも、103に置換えが決定し、櫛の歯が欠けるがごとく運用から離脱する車輌が出始めると、カメラ持参で通勤し、よく大阪駅等で撮影したものです。また、茶坊主と言われていた、70系は、阪和線、横須賀線に転属して、一旦ゼロになりましが、何を勘違いしたのか、昭和42年頃、横須賀線からクハ76が2両、モハ70が4両(だったと思います)転属してきて、クハは茶坊主の再来となり、おまけにそのうちの1両は全金車(クハ76305)で、前代未聞の全金茶坊主が誕生しました。この時、トイレが使用可能であったのかどうか、未だに気になっております。モハの方はスカ色のまま使用されました。しかし、それもほんの束の間で、1年も経たない内に中央西線に転属してしまいました。以上、和田先輩、清水先輩の勘違いの訂正と、少し昔の思い出でした。
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