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▼田野城 喬さん:
ご愛読、ありがとうございます。私の不確実な記述を、思い出とともに補足していただきました。
オムロンのところは、現状を再確認してからと思いながら、記憶だけで書いてしまいました。石積みの擁壁はまだ残っているのですね。粟嶋堂は以前に行って、堂前の煉瓦敷きがなくなっているのは確認しているのですが、まだ裏手に残っているのですか。これが旧線時代の廃棄煉瓦とすれば、大発見だと思います。貴重な情報、ありがとうございました。
地図も3点掲載されていますが、とくに興味を引いたのは、真ん中の地図、大正11年のものです。旧線から現在線に移ったのが大正3年ですからその直後に編集されたことになります。駅前広場を見ると中央を点線が東西に横切っています。この点線は地番を区切るための線だと想像され、おそらく旧線の北端とも一致するのではと思います。その根拠として、その線をそのまま西へ延長してみると、ちょうど問題の国鉄バス裏の石垣のある場所へ行き着きます。
ご質問の猪熊通が線路と交差する北側の煉瓦土台の家、列車からもよく見えます。おそらく大雨でガード下が浸水したときに、家屋が浸水するのを避けるために、あのような土台になったと思いますが、京都ではまず見られない非常に珍しい工法だと思います。煉瓦が鉄道廃材からの転用かどうかとのご質問ですが、これはよく分かりませんが、鉄道廃材ではないような気がします。
鉄道廃材の転用は、公共施設かそれに近い施設に限られ、民間の家屋には及んでいないのではと推察されるのと、明治期の煉瓦は現在に比べてサイズが小さかったそうです。電車から見る限り、現在のサイズのようにも見えます。
このシリーズ、もう少し持ちネタがありますので、次回もお楽しみください。
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