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乙訓老人の誘い水に手もなく乗って、熱海駅前保存の7号機関車の講釈を。
1895年7月13日(10日が一般的だが13日が正しい由)小田原-熱海間約16哩を開業した豆相人車鉄道だが、時間表通りでも4時間5分を要した。1899年以降動力化が試みられたが、レールが9ポンド(4.5kg/m)と究極の貧弱さで、ある機関車はレールもろとも地面にめり込んだと、雨宮敬次郎口述『過去六十年事蹟』にある。
機械師真島磯五郎が作った「石油機関車」はまずまずの成績で、喜んだ雨宮敬次郎が懐中時計を与えた話が有名である。これらがすべて石油発動車=内燃機関車とされ続けてきたのは、小熊米雄「熱海の軽便鉄道を回顧する」鉄道ファン10号の有名な記事に原因するが、小熊自身がそう信じ込んでいた。
明治の新聞が「オイルエンジン」を誤訳したたのが根源?と思われるが、小熊に限らず、臼井茂信も石油発動機としている(「国鉄狭軌軽便線7」鉄道ファン268号)。正しくはすべて石油燃焼の蒸気機関車であった。
最後に横浜のフレザー商会扱いでボールドウイン最小のB型屋根つきトラムロコを購入。これは優れもので、会社は線路を610から762mm軌間、レールも16ポンド(8kg)に改修した。この工事が舞台になったのが芥川龍之介「トロッコ」で、「へっつい」の起こりもこの小説である。なお豆相人車鉄道は1905年熱海鉄道に改称している。
蒸気動力での再開業は1907年。機関車は国内鉄工所が上記ボールドウイン機をベルペア火室とも模造した。池貝、石川島、越中島各鉄工所、それに雨宮鉄工場である。たった1両だけ輸入し、後は全部国内で模造とは、まさに「ある程度能力のある発展途上国」の行動ではあった。後年我国最初の交流電化に際し、国鉄の見本機関車発注に、ヨーロッパのメーカーからマネするための1両だけなら売れないと断られている。
やっとこれで話は本題に入るが、この「へっつい」機関車は熱海鉄道→大日本軌道小田原支社の7号機(越中島鉄工所1907年製)なのである。それがなぜ鷹取工場にあったのか。
勾配連続の御殿場経由東海道本線改良のため丹那随道掘削に着手した国鉄は、1920年小田原開業でこの軌道を85万円で買収、随道資材運搬に使用する一方、熱海軌道組合に貸下げ、旅客輸送は続けられていた。
1922年12月21日国鉄新線が真鶴まで開通し、軌道組合営業も当然真鶴−熱海に縮小継続したが、翌年9月1日の関東大震災で復旧不可能に。車両は国鉄財産だから発電所建設など各地に散ったが、たまたま7号機が鷹取工場技能者養成所の標本機として唯一残存したのであった。
それも向かって左側の中身が見えるように切開されていた。[1275]総本家・青信号特派員氏の八瀬・新世紀京都博展示でもそれが分かる。しかしこの機関車と八瀬、ないし京都との関連は小生には理解の限度を越える。
結局は本来納まって然るべき熱海駅前に展示されたのは喜ばしい。切開部も修復されている。なお添付の豆相ボールドウィン機写真は鉄道時報1905年3月11日号「豆相人車鉄道の軽便機関車試運転の成績」から。右側が煙室、左端が運転台。この機関車はのち改軌かつ通常のタイプに改装されて他に転進している。
なお小生が始めて7号機関車を撮ったのは1955年7月16日―浪人1年目で、山科3時52分発の111レ(東京−門司・勿論各停)で兵庫へ。ここで和田岬線の木製客車とB50、D50(高架線に貨車や川崎製車両を押し上げるためD50がいた)を撮り、それから鷹取工場へ。さらに高砂工場にまで足を伸ばした。なお1960年5月20日にDRFCで鷹取工場見学会を催し、そのときにも撮影している。
それから半世紀以上。鷹取工場は跡形もなく、公園、ラグビー場、スーパー、住宅地になっている。鷹取のヤードは鉄道コンテナ基地になり、時折川崎製の新製電車が甲種輸送を待っている。その目と鼻の西寄り(阪神並みの近距離)に須磨海浜公園駅がつい最近開業し、無料自転車置き場を設置して、タダでさえガラ空きの山陽電車の客を無慈悲に奪っている。
【鷹養7号機a.jpg : 475.0KB】
【鷹養7号機b.jpg : 510.8KB】
【豆相ボールドウイン機.jpg : 160.2KB】
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