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【1551】続・大西顧問を偲ぶ
 乙訓の老人  - 08/8/26(火) 16:31 -
  
【1547】で長岡京駅下り方の遺物が紹介された。上り方の方を掲載する。京都から国道171号を高槻方面へ、名神高速を挟んでしばし、馬場の信号を右折直進、三菱電機京都工場正門前の前方に馬場6連が見える。下り方から水路+歩道で1連目、2、3連目は府道。4〜6連目はH建設工業が車庫兼資材置き場に使用中。中に入って見上げると腰部分は石造、アーチ部分が煉瓦造りとなっている。下津林がこうだったかは思い出せない。2箇所としたが、思い違いなしかどうか?である。下り方は這いつくばらねば潜れず、上り方は腰をかがめて潜って歩けた。写真を撮ったが、馬場のものと共にフィルムごと顧問に渡したので何もない。
さて馬場の方だが避溢となっているが、老人宅の裏を流れる小畑川の旧流路であるのは間違いないが、この6連が完成したころ既に小畑川は現在の流路になっていたという。ではなんのための6連かといえば、もともと小畑川は東へ流れ菱川(自動車免許試験場前の川)に合流していたが、一文橋辺りで堤防が切れるので流路を犬川の方に切り替えた。ところが鉄道建設の話が出た頃に大出水があり、上植野地区一帯が水漬きとなった。そこで一たび大出水となると、旧流路へも水が流れるように交渉、あの6連橋が出来たのだとか。
上植野地区は豪農が多く、政治力があったようだ。鎌倉時代に有料橋のはしりと言われる一文橋を村でつくり、流されるや貯めた一文銭で橋を造り、田圃が水漬きにならぬよう煉瓦アーチの避水(溢に非ず)きょうを造らせたり、明治の先人が努力した賜物を、小畑川改修工事が完了した1978年に上植野区事務所で、当時の絵図、書類と共に古老から聞き取る事が出来た。因みに老人宅の小字・切の口は、大出水の時に堤防を切り、田圃の方へ水を流さないようにした地点であったとか。

添付画像
【馬場の6連きょう.JPG : 134.8KB】

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【南方3連.JPG : 149.5KB】

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【府道部分の2連.jpg : 145.7KB】

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【北方3連は?.JPG : 148.2KB】

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【アーチ部分はレンガ.JPG : 149.8KB】
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・名前 : 馬場の6連きょう.JPG
・サイズ : 134.8KB

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