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宇宙遊泳に出掛けた琴参電車は、どうやら銀河系を飛び出したらしく、最新の電脳といえどもキャッチできない。沖縄に戻すより、多度津港に着岸させる方が良さそうである。
さて、多度津への延長は大成功であった。この頃の一日あたりの乗客数等を60年史から拾ってみると下記の表のようになる。
多度津港に繋がる桟橋通りに延長開業出来たのは、1925年2月26日である。この年はすぐに延長効果が実を結んでいないが、翌年から乗客数の伸びは目を見張るものがある。1928年3月には地方鉄道法により丸亀〜坂出間の延長開業を果たしているが、これについては後述するとしよう。
多度津延長による大当たりについて60年史では、次のように伝えている。
「多度津線開通当時は変電所設備が充分でなかったため、500人位の団体を輸送する時は多度津から琴平まで半日がかりの大仕事であった。普通なら30分そこそこの運転時分のところだが、当時40人乗りの小型車であったので、一杯詰め込んでもせいぜい100人位が関の山であった。その満員にふくれ上がった電車が5分間隔で次々発車するため、変電所のブレーカーがもちこたえられず作動し、その度に全線が停電となり一休み。修理が終わって変電所でスイッチをいれると、停まっていた全部の電車が一斉に動き出すので、またブレーカーがとぶ、こんな状況が繰り返された。」
当時の運転時分は丸亀〜琴平間は56分、多度津〜琴平間は38分、共に16分間隔であるから単純計算すれば、両線上に12両のデハヨ型が存在する。これに特発臨時を3両加え15両とすると変電所にどれだけ負荷がかかるのだろうか。専門家の達也さんに聞いてみたい。因みに開業時は200kwの回転変流器1基だった由。
掲載の図は20年位前に、1960年4月の善通寺車庫を訪問した時に、形式図を筆写したものを基に作図したものである。写真と比べると窓下寸法が足りないようだ。もう少し腰高にする必要がありそうだ。模型化する愛読者はご注意されたい。
【琴平電車3のコピー.jpg : 142.1KB】
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