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栗原にいた丸山のボギー車の成れの果ては、初めて写真見ました。
単端を2個足してみたいな、それは西大寺に実例がありましたね。
結局2台に分かれて、ドクちゃんベトちゃん、別々の人になって
人生を送ったような。あと中央に機関室の例は、赤穂から駿遠線に
転じた車両に例がありました。
それにしても、朝鮮戦争時の米軍払い下げ物資のシュラフが元遺体
搬送用の行には恐れ入りました。戦中派にはとても頭があがりません。
戦争体験者の話を聞いていると全員がPTSD級の経験をしているわけ
ですから、炉辺で読むハードボイルドとは違います。
そこまでしての鉄道行脚、それを今読んでいる者は果報です。
雑談脱線、淀川をめぐる鉄路で思い出しました。在部中のこと、
阪急水無瀬付近に立つ「桜井駅跡」の看板に某先輩から「おい
この辺りに廃線でもあったのけ」と質問され、言葉に窮した私は
「青葉繁れる桜井の〜」と正成正行父子の講談調で名場面の話を
しかかりましたが、最早戦後、全くぴんときてませんでした。
『太平記』など読まされて育ったのは私くらい。でも1年後輩の
米司君が入部した時に名前の高徳に気付き「おっ、忠臣児島高徳
だね」と言うとすごく喜んでくれました。
某右寄り新聞に自衛艦「ちはや」の船員が楠公ゆかりの「千早赤坂
城」に参ったという珍ニュースが出ています。
記者は自衛艦の名前は半島や河川、山岳、天候や城の名前に
由来と書いていますが、旧海軍以来の伝統でしょう。
楠正成は河内の土豪、南北朝期に活躍し今で言うゲリラのボスで
後醍醐に呼応した面白い人物ですが、母はこういうレジスタンス
な人物が好きだったのでしょう。
淀川のドコービルから話が“脱線”してしまいましたが古代から
行く川の水は絶えず歴史を産み育て、ここまでお話が楽しめると
いうのも上方関西の大学に通って良かったなと思う美点でしょう。
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