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11月11日付で須磨の大人から〔679〕なるドスを突きつけられ、老人はオタオタしている。幸い弘津君の強烈な援護射撃により、大人が須磨海岸で松の枝ぶりを探すことなくホッとしている。1953年3月といえば同中2年の期末試験で悪戦苦闘していたことであろう。この頃、母の体調悪化のため家事手伝いで電車どころではなかった。
さて、ドスをどの様にかわすか一計を講じてみた。思いついたのは佐竹先輩の「買収国電」とピク誌28号と老人の呆ける前の記憶である。以下、綴ってみる。
まずセミボだが、20、21ともに1953年3月に富山港線での役割を終え松任工場に収容された。2両は1951年にTc化されたとか。(レイルロード社・高間氏の調査)
20は静岡鉄道に払い下げされクハ7となり、静鉄の戦前製300型(路面乗降型で前面が丸い)とMTc編成となった。新静岡で1959年に撮った記憶があるから、そのうちフィルムの虫干しなどしてみよう。大人も静鉄には頻繁に行っていたから、心当たりがある筈である。21は1954年電化された岳南鉄道に払い下げられた。現番号のままクハ21を名乗った。1962年に終点・岳南江尾まで行った時、休車となっていた。フィルムは「三八豪雪」で焼失した。
デ101、200は買収により「ハ」が付けられた。改番後はモハ1900と?である。吉川文夫氏の調査ではナヤ16872に1952年に改造されたとか。共に元伊奈電の木造国電型として知られている。モハ1900は僚友1901と共に1955、54年に北陸鉄道に払い下げられ、モハ851,852となり浅野川線に入線した。1961年訪問の時は予備車扱いで、七ッ屋車庫であくびをしていた。伊奈電の後輩、41500のなれの果て、加南線からトコロテンや玉の輿入れ等があった結果である。
モハ2020は旧南武のモハ505、可部線を経て1960年頃の転入。この頃から買収国電の掃き溜めの坩堝と富山港線はなる。モハ1310は旧宇部鉄道モハ21、1954年にモハ23→モハ1302と共にやってきた。昇圧まで使用された。モハ2326は旧宮城電鉄モハ807。宮城800型の中で唯一、故郷を離れ宇部、可部と流転の果て、富山が安住の地となり昇圧まで居座った。まさにはきだめの「鶴」であった。記憶では増結車として重宝されていたようだ。 (つづく)
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