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【879】沖縄の電車(その3)
 乙訓の老人  - 07/5/21(月) 18:00 -
  
今日5月21日昼前、ジャーナルとピクを買った。元祖青信号・掲示板での特派員報告のかけらすらも両誌には掲載されていない。すごいぞ! 特派員の諸君。

先に琴参電車あれこれ(その2)で、沖縄の電車と関連があるとしたことを綴るとしよう。
琴参の初代社長は才賀藤吉である。沖縄電軌も同一人物である。才賀については、以前ピク誌で紹介されたように思うが、和久田氏は「人物と事件でつづる私鉄百年史」で次のように記しておられる。“才賀は1870年大阪生れ、一介の小僧からスタートしてやがて電気の技術を習得し、日本最初の京都電気鉄道の工事を担当して以後はみずからこの業界に乗り出した。そして才賀電気商会を設立して精力的に全国を歩き廻り、地元の資本家と組んで各地に電機会社や鉄道会社を発起した。”
これは特許を得たのに資金調達が出来ない発起者に取り入り、資金供与と共に建設工事や車両調達を才賀電気商会が請け負うという手法を取ったのであろう。才賀の事業は、現在ならベンチャービジネスと言えるものであろうが、しっかりした金融機関のバックアップがなかったようだ。そのため自転車操業を重ね、1914年倒産するという事態を招いた。
「琴参電鉄60年史」にはこのような記述がある。
1913(大正2)年3月28日 沖縄電気軌道と車台貸借契約締結
1914(大正3)年10月1日 沖縄電気鉄道と車台売買契約締結
車台とはトラック(台車)のことである。建設工事がままならない才賀は、琴参用に購入したトラックを沖縄へ貸すことにより、当座の資金繰りとしたのではないかと勘ぐってみたい。倒産月日がわからないが、琴参での事業進捗がみられず、止む無く売却して手を引いたのではないだろうか。こんぴらさんに向け走る筈の台車が沖縄で役目をはたすとは、数奇な運命を背負うことになったものだ。

付録

和久田氏の記述によれば、才賀が手がけた鉄道は先の2社以外は次の通りである。
磐城軌道 開業1914年、廃止1937年、
信濃鉄道 開業1915年、電化1925年、国鉄買収1937年、現JR大糸線、
成宗電軌 開業1910年、廃止1944年、
立山軽便 開業1913年、合併1931年、現富地鉄立山線、
美濃電軌 開業1911年、合併1930年、現名鉄名古屋本線、
岩村電軌 開業1906年、廃止1935年、
三河鉄道 開業1914年、電化1925年、合併1927年、現名鉄三河線、
伊勢鉄道 開業1915年、電化1927年、合併1936年、現近鉄名古屋線、
松阪軽便 開業1912年、電化1927年、合併1944年、廃止1964年、
防石鉄道 開業1919年、廃止1964年、
鞍手軽便 開業1915年、廃止1954年、
宮崎軽便 開業1913年、廃止1964年、
これでみる限り全てローカル鉄道ばかりである。この中で本線格に昇進したのは伊勢鉄道のみで、美濃電軌は新岐阜〜笠松口間が名古屋本線となり残存している。立山軽便の五百石(現立山町)〜立山(現岩峅寺)間は改軌され、富地鉄立山線の一部となっている。
才賀は相撲取りと間違えられるほどの肥満体で、祇園の帝王といわれた遊蕩オッサンだったとか。頓死と言われているが、実は腹上死だったとする人もいる。
引用なし
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【879】沖縄の電車(その3) 乙訓の老人 07/5/21(月) 18:00

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