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【1065】カミングデー クローバー会集会速報
 管理者  - 07/11/5(月) 23:57 -
  
11月4日(日)“同志社創立132周年記念Reunion 2007年ホームカミングデー”において、我が同志社大学鉄道同好会クローバー会集会が、現役生も参加して今出川キャンバス至誠館33番教室で開催されました。

 クローバー会50周年記念事業として 貸切列車による宿泊総会、写真展、模型運展会等が役員各氏より発表されました。

特に来年9月6日〜7日は、気動車2両を貸切ってのDRFCクローバー会号が走行しますので、集会にご参加できなかった会員皆様方もふるってのご参加をお願いします。
詳細は、只今JR西日本と調整中ですので、経過はまた後日ホームページにて公開させていただきます。

沖中会長より現役生へ、代々受け継がれた宝物の授与が行われ、その後会員秘蔵の戦前の愛宕山ケーブル、京都市電、N電、叡電、成昆鉄道など懐かしの未公開フィルム多数が上映され、瞬く間に閉会。

夕刻からは、場所を河原町三条に移して、懇親会開催となりました。
懐かしのお顔をとくとご覧下さい。

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【クローバー会総会.jpg : 119.4KB】

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【現役生への引継ぎ宝物.jpg : 97.2KB】

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【至誠館前記念写真.jpg : 0.5MB】

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【1064】おじん2人+1人ヨーロッパ軽便 その20-2
 湯口 徹  - 07/11/5(月) 14:22 -
  
TTA=Tramway Touristique de I'Aisne その2

この軌道乗車料金はErezee−Forge間大人7ユーロ、Dochampsまでだと10ユーロと高い。それも往復のみで片道の運賃設定はない。両折り返し地とも何もないところで、乗客は誰かに車で迎えに来てもらわない限りどうしょうもないからである。

1列車マキシマム70人、貸切は区間により300/450ユーロとある。

折り返し点では後続のDCを客車につなぎ、今まで先頭だったDCを切り離して、今度はそれが後続単行で2列車続行運転で戻る。先のHAN鍾乳洞アクセス軌道と同じ運行方式で、よく知らないがベルギー独特の運行か。あるいはスチームトラム時代からこの運行方法を続けていたのかもしれない。

途中に車輌基地がある。左端にあるキャストアイアンの標識がいい。これは各停留場や、立入禁止用にも建っている。

さして広からぬ車庫には未整備の車輌がぎっしり。恐らくは各地のメーターゲージ軌道から集めたものかと思う。綺麗に復元された無蓋貨車もいるが、これらの客車等も少しずつ修理復元していくのだろうか。

この軌道のホームページアドレスをいれておくのでご覧いただきたい。スチームトラムも見られる。http://www.tta.be/

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【途中の折り返し点で.jpg : 196.5KB】

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【車庫と独特の標識.jpg : 199.8KB】

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【TTA車庫3.jpg : 196.0KB】
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【1063】元琴急1型→名鉄180型
 藤本哲男  - 07/11/1(木) 23:22 -
  
以前掲示板で話題になった、琴平急行電鉄モハ1型→名鉄モ180型について、名鉄時代に撮影した写真をプリントしたところ、モ181とモ182は台車が交換されていることがわかりました。
琴平急行電鉄モハ1型について再度お浚いしますと、昭和19年1月営業休止後6両全車名鉄に譲渡され、同社のモ181〜モ186となりました。台車は日車D−12を履いており、車体は小さいながら堂々たるスタイルでした。その後、昭和41年にラストのモ186が予備品の捻出のため電装解除され、ク2161となっております。昭和45年10月4日及び昭和48年1月21日に撮影した写真を見ますと、昭和45年年美濃町線新岐阜乗入れ時に作られたモ600型に取られてしまい、モ181の台車はブリル27MBC系、モ182の台車はBW系の台車に振替えられておりました。(連接車モ401の写真はオマケです)
写真、上から順に
【モ181+モ182 昭和48年1月21日 美濃北方】
【ク2151 昭和45年10月4日 黒野】
【モ401+ク2151 昭和48年1月21日 黒野】

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【モ181.jpg : 35.2KB】

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【1062】続・山陰本線の思い出
 乙訓の老人  - 07/11/1(木) 22:45 -
  
その後、戦時中は山陰本線に乗ることはなかった。
ちょっと脱線しよう。1943年の夏、兄との二人旅があった。深夜に岡山で乗り換え、ホームのベンチで貨物列車(しか来ない)を見ていたとき、目の前にEF10が停まり目を見張った。兄の説明では、関門トンネルの開通による増強用だろうと言う。初めて見た電気機関車だった。呉線を前にして、窓、日除け(木製ガラリ)を閉めるよう車掌に言われた。瀬戸内には軍艦がアグラをかいていたからである。戦時少年である兄は軍艦、軍用機が好きで、ガラリの隙間から見ようとするのだが、よく見えない。そこでガラリを少し上げて、弟に説明してくれた。いちばんデッカイのが「陸奥」だったのは覚えているが、まさか燃料がなくアグラをかいていたとは二人とも知らなかった。このルートの旅はいつもスハ32で、岩国から省営バスに乗り、母の故郷、六日市へ行った。
富山県福岡町から大阪へ転勤になったのは1963年9月、転勤理由のひとつに、四国、中国地区に代理店網を展開することになり、その先鋒役となるためであった。学生時代は旅行が趣味と上司に言ったのが功を奏したようである。「しめた! これで山陰へ行けるぞ」とほくそ笑んだ。1964年春、下関を除き地区代理店網ができた。上司はさっそく当時珍しかったヒルマン車で代理店めぐりをやろうと言った。コースは、国道2号で小郡へ、9号で鳥取へ、さらに津山に立ち寄り、岡山から2号で戻るものだった。
国道から列車を見るなんて富山時代の金沢〜富山間しか経験がない。小郡からは山間部を除き国鉄と並行している。何度もD60の雄姿を見ることができた。3日目、松江に入ったとき、上司に大阪から電話が入った。急用ができたから今日中に大阪へ帰れとのことだった。地区代理店の社長は当地の有力者であり、米子鉄道管理局へ案内してやると言っている。上司は「沖さん、連れて行ってもらえ、残るお店は汽車で挨拶に行っておいで」と言ってくれた。しめた、これで自由になれて電車が見られるぞ!
米鉄局へ行く途中、社長に「むかし米子にも電車が走っていたそうですね」と切り出したら、「そんなことよく知っているね」。「母が六日市生まれで、満鉄に勤務していた父が病で帰国した後、皆生温泉で療養したときに駅前から市電に乗ったと言っていました」と言うと、驚いたようであった。このときすでにPIC誌55号で西鉄北方線313〜317の5両が元米子電車のものだと谷口良忠さんの紹介で知っていた。1953年9月の九州一周旅行の最終日夕方、雨の小倉駅前で電車を眺めていたが、米子からの4輪単車は意識せずだった。この年は、双子台風が四国沖にアグラをかき、雨の中で周遊券を消化しただけであった。
さて、須磨の大人に応援を求めたら、即317号の在りし日の姿を送ってくれた。また最新電動客車明細表及型式図集では図とともに次のように紹介されている。
W2,138×L8,072×H3,215(屋根迄)mm、電動機容量30hp×2、手用制動、自重9.0t、乗車定員40人、台車・日車ブリル型、車体製造・梅鉢鉄工所、大正15(1926)年購入。なお最近では、JTBキャンブックス『日本の路面電車III』でも紹介されている。写真の収集には見るべきものがあり、関心のある方はぜひご覧になると良いと思う。

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【1061】若桜鉄道C12167
 米っ子便り No.5  - 07/10/31(水) 21:34 -
  
10月21日、待ちに待った若狭鉄道のC12167のイベントに行って参りました。

米子から鳥取までは、キハ126系”快速とっとりライナー“が走っていますが、評判のキハ187系“特急スーパーまつかぜ”の走りっぷりを味わってみないといけません。運賃に匹敵する特急券を買っての費用対効果は満足できるものかどうか体験してみました。

結果、早いこと早いこと!!! 米子駅を出るやいなや、即120km/hで連続走行。カーブも振り子とあって減速なしの走行です。鈍行のキハ47が70〜90km/hで走行しているのとは雲泥の差有りです。これは快感でした。投資価値ありありです。

鳥取駅到着後は、接続時間も十分ありましたので、グルメ党の私としては、帰りに購入予定のお酒のあて探索のために駅前の海鮮市場に向かいました。まあ、米子も境港があるので、同じような食材だろうと思っていましたが、白魚の刺身を発見。関西では、早春の頃に紀ノ川の生きた白魚が出回りだしますが、ここでは、この時期でも近くの湖山池で採れるとか、早速チェックです。

鳥取駅に戻り、今度は駅弁のチェック。やっぱりカニ寿司と思いきや、2005年6月12日にTBS系列で放送された「日本列島 駅弁88ヶ所」で日本一の駅弁に選ばれた”いかすみ弁当”を勧められました。これは初めてとあって試食がてらに購入し、若桜への車中で食しました。

結果、こればボツです。イカスミパスタと同様に見た目が違っているだけで、味等ありません。森駅で食べる熱々のイカ飯が懐かしくなりました。イカはやはり獲りたての透き通ったイカソーメンか、もしくは阪神百貨店名物のイカ焼き、イカ入りお好み焼きが一番です。冷めて固まったイカなど美味しいとは思えません。

と、ブツブツ言いながら若桜駅に到着です。
10月14日の埼玉とは違ってこちらはローカル。鉄男、鉄子ちゃんは、ごく少数で殆どが地元住民、元美男美女や家族連れが大多数でした。

駅前では、テントを張って地元の野菜等の即売会、手打ちそばもあり、名前も知らない演歌歌手の営業公演、そしてミニSLの乗車会等々で盛り上がっていました。

本題です。この日は、3回のSL走行が行われました。
8月8日に搬送されてからまだ2ケ月と言うのに見事に磨きあげられ黒光したC12167が、駅から離れたかって開通を目指した八鹿方面にいました。

そこから転車台まで新たにひかれた約100mの真新しい線路上に汽笛を上げて発車しました。煙もわずかながら出ています。実際に石炭を焚いたそうです。

結構なスピードで転車台に向かいここで停車。両方から人力で、1周させました。勿論、両方各1人では無理で、参加者を募って一緒に転車台を回す楽しい参加型イベントです。
給水塔横にも新たに設置された線路があり、転車台から再度発車して、ここに留め置きされて一般展示開始です。運転台の中まで見て触って自由です。久しぶりに走れるSLに乗れる事ができました。

運転台内部も綺麗にお化粧直しが出来ていて、見事です。関係者のご苦労を感じました。
我社の国鉄OBの話では、線路設置、またC12の静態→動態改造には、数多くの国鉄OBのボランティア活動があったそうです。

また、前回こんな奇想天外な静態保存から走行への発想と申し上げましたが、私の勉強不足で、前例がありました。群馬県川場村のホテルSLにおいて今年2月23日にD51561が大改修を終えて、走行しておりました。
詳しくは、下記のアドレスをクリックして下さい。
http://www5.kannet.ne.jp/~hotel-sl/

と、言うことで若桜鉄道のC12167の走行は、D51561に次いでになります。
ボイラー圧力:14.0kg/cm2; が性能ですが、ここでは川場村のD51と同様の2.0kg/cm2; です。これで動くのか不思議でした。
改修作業には、ホテルSLから経験をした方をお招きして、ご教授をしていただいたそうです。今後の走行の予定は、まだ決まってはいませんが、若桜町で開催される何らかのイベントの際には再走行が行われるそうです。皆様も訪れてみて下さい。

しかし心配なのは若桜鉄道そのものの存続です。先日鳥取県の人口は、60万人を割ったと報道されました。若桜鉄道の沿線人口は約24.000人です。若桜町では昭和40年から平成17年までの人口減少率は、何と41%の極めて高い数値となっています。高齢化も59%増と進み、逆に幼年人口は50%減と典型的な高齢者社会の過疎地となっています。

沿線人口が激減する中、鉄道利用者が増加するわけがありません。年間利用者は約56万人で、その内の約40万人が通学者となっています。全国的な少子化が進む中、幼年人口が減少すると、通学者も減り、確実に鉄道利用者も減少してくる構図が出来上がっています。

近くを走る智頭鉄道は、開業以来より予想を上回る大盛況で、全国で黒字第3セクター4社の内の1社ですが、このようにJR特急が走行する短縮路線でないと慢性的な赤字は解消できません。赤字32社に共通する問題点です。

若桜鉄道では、SL投入による見学者の誘致、インターネットによる物品、記念切符の販売等の鉄道収入以外でも頑張っておられますが、生き残りには、地方自治体だけでなく国からの資金。税制面等の多くの支援が必要不可欠です。

北海道の旭川動物園が入場者激変から一転して全国的にも注目され今ではツアーの1つとなるほど有名となった例もあります。何かのヒントでと努力で奇跡も起きます。

それまでの間、若狭鉄道を支援する会の皆様方には、諦める事なく埼玉よりも多くの来場者を集めるぐらいの大きな目標を持って頑張っていただきたいと祈って帰路しました。

(追記)帰路途中では鳥取駅前の海鮮市場に寄って“白魚の刺身”と熱々の“揚げ”を購入してビールと地酒で、車中を堪能しました。次回は、紅葉の木次線トロッコ列車に乗車予定です。

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【1060】おじん2人+1人ヨーロッパ軽便 その20-1
 湯口 徹  - 07/10/31(水) 21:22 -
  
TTA=Tramway Touristique de l'Aisne その1

先回までの鍾乳洞アクセス軌道から北東に直線距離で約35km、ベルギー国鉄ローカル線からも7〜8km程外れた文字通りのドド田舎、Erezeeなる村から略称TTAというメーターゲージの軌道が出ている。よくもこんなマイナーな田舎軌道を見つけ出すと感心せざるを得ないが、ひとえに我らが先達たるウメムラツーリストのお陰である。

元々はスチームトラム牽引で、線も前後に伸びていたようだが、現在はかろうじて25万分1ドライブマップに出ているErezeeから、地図にもないDochamps までの、保存軌道というべきものである。

パンフからは1885〜1960年まで営業していたようで、現在はボランティアの手で4〜10月の間、それも本年は4月が7〜9、14、15、22、29日のみ、5月は1、6、13、17、20、27、28日、6月3、17日のみ。7月10、12、14、15、17、19、21、22、24、26、28、29、31日のみという具合。我々は7月17日に立ち寄ったから、旅程を組んだウメムラツーリストは凄いと今更ながら感心する。

この日の運行はErezee 発14、15、16時、帰着14時52分、15時52分、17時30分の3往復。最終列車のみ所要時分が長いのは、前の2往復が手前のForge-a-L'Aplezで折り返すのに対し、奥まで行くから。

昼過ぎErezee に到着し、先ずはロケハン。沿線にはかなり裕福そうな村落が点在するだけで、およそ鉄道等との連絡がない孤立した軌道である。ドイツのValkan Express のようにバスで乗りつける団体客もない。沿線に複数ある大規模なオートキャンプ場滞在者が暇つぶし?に乗るのが唯一の客と見た。

現在の起点であるPont d'Erezee は車でないと到達も難しいところだが、びっくりするくらい立派な駅舎?がある。恐らくは保存メンバーのクラブハウスを兼ねていると思われる。つまりは相当に裕福な保存クラブなのであろう。

時間が迫ると三々五々客が車で乗りつけてくるが、皆の衆到ってのんびりしたもの。駅舎内ではボランティアがパンフや記念グッズを売っている。やがて空車で到着した列車は鍾乳洞アクセス軌道と同じ2軸DCで、やはりオープンの客車を2輌牽引。続行列車はDC単行で、記号番号はAR123と93。133なる車輌もあって現在の可動車は3輌らしい。

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【1058】ホームカミングデーのご案内
 管理人Jr  - 07/10/29(月) 2:10 -
  
11月4日(日曜)今出川キャンパスにて行われる同志社ホームカミングデーにてクローバー会集会が行われます。
私事により連絡が遅れましたが、懇親会の申し込み期限が31日となっております。参加希望の方は至急申し込みをお願い致します。
詳しくはこちらをご覧ください。
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【1057】神戸でこんな作品展
 総本家・青信号特派員  - 07/10/28(日) 20:14 -
  
乙訓の老人宅に介護に行ったところ、懇意にしている方の作品展の案内状を渡された。神戸の鈴木さんで、ずっと神戸市電の絵を描き続け、作品集出版や個展開催を重ねてこられた。機会があればぜひ行ってあげてほしいとのことであった。

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【1056】おじん2人+1人ヨーロッパ軽便 その19-3
 湯口 徹  - 07/10/26(金) 13:21 -
  
GROTTES de HAN その3

先回入れたパンフレットのイラストは距離がよく分からないので、今回は周囲を含めやや正確な図を。赤線がこのメーターゲージ現在の軌道で、左上ループが1989年以降の村の起点。赤点線は1968年洞窟入口変更による軌道廃線ルート。

旧線は山の上まで伸び、スチームトラムには結構過酷な勾配線だったと思われる。鍾乳洞は白い部分に展開している。

画面中央あたりに車輌基地があり、洞窟出口もその付近でレストランや素朴なテイクアウトがある。客はここで放り出され、飯を食うなり、草地で遊ぶなり、村には勝手に歩いて帰れという、日本なら客が怒りそうな仕組み。

なお鍾乳洞案内が独・仏語と書いたが、終点洞窟入口駅の車輌右側に檜皮葺き?のような回廊が見える。オランダ語、フランス語(しかない)での案内希望者は、それぞれ柱の右、左に並ぶ。小生にはチンプンカンプンだからどっちでも同じだが。

さらに村まで約2キロと先回書いたが、この図でなら1キロか若干遠いかぐらいしかない。近くて遠いは田舎の道で、実際より遠く感じたらしい。

現在のDC車輌は木骨鉄皮車がAR89、90、半鋼車がTRA145、159、168、266の都合6輌。内2輌=2個列車が各客車3輌牽引で働き、2個列車は村のループで次発として待機中。乗客次第で続行列車がDC1輌の場合もある。

輌数の割りに番号が飛ぶのは、複数の軌道に通し番号で納入されたためかと思われ、次回以後紹介するTTAも同様である。メーカーも複数あるようだ。

車体実長8,600×実幅2,320×ラジェーター含まぬ屋根高3,060ミリ。例えば日車最初のボギーガソリンカー芸備鉄道キハ1、2が8,800×2,200×3,337ミリだから、このDCは軽便、2軸車ながら結構大柄なのが分かる。日本の内燃動車が小さすぎたというべきか。

窓幅も1,250ミリあり、扉は妻側に引き、車体は若干前後が絞られ、加えて正面中央の運転手窓上面が少し引っ込んでいるのがアクセントになり、全体としての格好良さを醸し出している。ホイルベースは3,750ミリだがシンメトリーでなく、動軸を少し妻側に寄せているのは、動輪上重量を稼ぐ意図での偏心であろう。

また以前紹介したルクセンブルグのFond-de-Grasで9月15日火災があり、車輌が何輌か焼失した由。修復済車輌は庫内に収められ、焼失は屋外らしいのは不幸中の幸いか。火の気などあるはずもないから、ホームレスが失火したのかもしれない。

日本では廃止後の井笠鉄道で保管されていた車輌が大量に、しかも放火で焼失した事例がある。

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【1055】山陰本線の思い出
 乙訓の老人  - 07/10/21(日) 22:10 -
  
20日午後のクローバー会幹事会をすませ、21日は掃除、洗濯を済ませ「玉手箱」の整理に潜り込んだ。DRFCの物品を預かって以来、整理が出来ていない。米子のパンフは目下、宇宙遊泳をしているようで出てこない。

1942年冬、母の故郷に向け山陰本線の夜行で出発した。「茶粥」の項で記した中国道・六日市ICの降りた地である。この時の前も、その次も山陽本線・呉線経由であった。益田経由、山口線に乗るためだとその後思った。それは祖母が津和野の病院に入院しており、その見舞いであった。
夜明けで、ふと目覚めた駅は雪に覆われていた。「べんとうー、べんとうー」の売り子の声で、母は曇った窓を開け一包み買ってくれたが、ふかし薩摩芋であった。広い駅で機関区もあり、きっと米子であったのであろう。冷えた芋は喉に詰まり、水筒の番茶で腹へ押し込んだことを今も覚えている。ガチャンと走り出してしばらくして、停まった駅の左窓から京都では見たこともない、小さな電車が停まっていた。この時、荒島駅から出ていた廣瀬鉄道だとは、知る由もない。
雪明かりの中の駅でしばらく待合室で、乗り継ぎの列車を待った。茶色の電車が見られたから、出雲今市だったのであろう。こんな旅で、法勝寺鉄道ことなどまったく知らずであった。(つづく)
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【1054】米子電車軌道
 湯口 徹  - 07/10/21(日) 8:55 -
  
米子駅前−皆生温泉間7.8kmの米子電車軌道は大正12年7月26日特許、地方鉄道軌道一覧のように大正14年3月31日、15年1月28日、昭和3年1月28日と3回に分け開業。加茂町−角盤町は最初に開通した1哩47鎖が灘町線、後の0.74kmを中央線と称した。

帝国鉄道年鑑によれば昭和元(大正15)年度資本金40(内払込済17万9,900)万円、開業線建設費(この時点中央線はない)51万6,499円、他事業興行費1,411円、諸借入金30万1,709円、旅客人員44万5,071人、旅客運賃4万3,377円。営業収入4万5,304円に対し支出3万3,050円で、この時点1万2,254円の益金だが配当はゼロ。

借金は減らず、昭和9年7月現在で37万4,067円、7.8%=年間2万9,289円と収入の半分を利息支払にとられ青息吐息。この時点資本金40万円は変わらず、払込は35万8,250円であった。(鉄道省監督局「各府県別に見たる鉄道軌道の借入金額及其の利率一覧」による)

廃止は昭和14年12月3日=たった15年の生命だった。大正14年度現在電動車2輌80人、昭和5年度現在6輌240人だから各車40人乗りであろう。車輌紹介やその後の消息は乙訓老人の責務であり、遅滞なく義務を果されたい。

半年ばかり前のヤフーオークションに皆生温泉だったかの電車終点での絵葉書が出ていた。米っ子氏よ、ご当地郷土史家団体あるいは市史編纂室などに当たって見ては如何?

この市内電車は当然「軌道」だが、別途地方鉄道法による福米村−境町(1067mm軌間、16.475km)「鉄道免許」を昭和3年12月27日取得していた。この会社は12月が好きらしい。建設費予算額は65万円で、恐らく工事施行認可申請にも到らなかったと思われる。

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【1053】第一の故郷、米子。
 74年度生 佐々木秀隆 E-MAIL  - 07/10/19(金) 23:33 -
  
母の出身、米子に里帰りして生まれた私。そんな訳で小学校のころは、毎年のように帰っていた。今でも叔父と叔母が健在で、私にとっては「第一の故郷」。米子に山陰に思い入れが生じてしまうのは昔も今も変わらない。

日の丸自動車(地元では「法勝寺線」と呼んでいた)は1回だけ見た事がある。昭和38年、小学2年の時、貸し切りバスで町内のレクリェーションで大山に登った帰り途、バスは溝口へ降りて米子市内へ向かう途中左手にダブルルーフの単行がキャッチ出来た。色はピンクとグレーだったような気がする。

国鉄米子駅の本屋とは線路を挟んだ反対側の人家もまばらな所にホームがあり、間に長い長い踏切があったので、汽車好きの私を連れて行く大人達は踏み切りの手前でお茶を濁していた。入れ替えの貨車が頻繁に出入りし、たまに本線や伯備線の客車や境線の機械式DCが目の前を通り過ぎた。

今も昔も米子は山陰の経済と交通の中心都市である。
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【1052】米子
 K.H.生  - 07/10/18(木) 12:32 -
  
昭和41,2年頃のことと記憶しますが、宮田輝の「ふるさとの歌祭り」でこの町が取り上げられて、山陰によなごという町があることを知りました。
その後、鉄道のことに興味が募るにつれて、福知山と米子は管理局のある鉄道が主要産業の町だろうと想像を深めていました。
私の居た九州だったら、早岐とか柳ケ浦といった中継機関区や大きい分岐のある駅が小さいながらそんな雰囲気を漂わせていました。
交通の主役が鉄道であった黄金時代にはその町からさらに支線や奥地に行く私鉄があり、それは鉄道好きには想像するだけで楽しい旅の車窓が広がっていたと思います。もちろん一般の人には単調な田舎の旅でしょうが、往時を知る人に話題を向け、支線の記憶をきく、それが私の少年時代のささやかな楽しみの一つでした。

いま、湯口兄の著書など通じ、貴重な写真を再び見ることができ、感慨に堪えません。
この写真はこの前の天王寺の古本市でみつけた昭和32年の鉄道地図から拡大してみました。
くだんの法勝寺電鉄も載っています。さらに安来の次の荒島から出ていた島根鉄道もまだ健在です。
出雲広瀬に何があったのか。ここは毛利の出た富田城のあった場所で一種の古都であったようです。昭和40年頃の鉄ピクに島根鉄道を偲んでという記事が載っており古書でこれを入手したのも昭和49年頃、あれから30年が経ってしまいましたがいつか訪ねてみたい場所の一つです。母方の郷が毛利と関係があることもあります。
能義郡のさらなる奥、比田という所を出た戦前のある作家を調べていることもあり、まとまった時間がとれるようになったら訪ねてみたいものです。

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【1051】米子市電
 乙訓の老人  - 07/10/16(火) 20:37 -
  
米子市電こと米子電車軌道のパンフは、玉手箱と名付けたガレージ上の小屋の中のどこかに紛れ込んでいる筈。旦那に李承晩と名付けられた「茶がゆ」の郷で眠る老人の親父が、1933年にマルセーユから航路帰国したの後、各地の温泉療養した時に摘まんできたものと思われる。
パンフはいずれ介護士の手により本掲示板で公開されるであろう。
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【1050】法勝寺鉄道
 米っ子便り No.4  - 07/10/16(火) 16:42 -
  
書き忘れましたが、早速のご慰問をいただき、湯口先輩様、大変ありがとうございます。

ついでながら、ここ米子市にも市電が走り環状線と皆生温泉まで走っていたそうですが、その時の写真はありませんでしょうか?
図書館で文献を捜しましたが、”米子市電が走った話”なんて本はないそうです。
クローバ会の皆様もよろしくお願いします。
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