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【999】Re:光明丹
 ぷるぷる  - 07/8/24(金) 2:04 -
  
私も話題を一つ。

現役時代、EVEの鉄道展に何か余分の「賑やかし」をということになって、京阪連の一員でありながら阪急210型の3連を作りました。当時ツボミ製の輸出用ブリル台車がマツモト模型にあり、これを使えること、車体が簡単に作れること、の条件に当てはまる車が阪急210型だったというわけです。たしか機芸出版の日本の車輌スタイルブックに図が載っていました。

屋根の色はその「コーミョータン」だったのでしょう。専ら嵐山線に投入されていましたので、桂まで見に行きました。やけに赤いというか表現しがたい色でしたが、屋根板の目止めに使うラッカーパテがよく似た色だったので、これをシンナーで薄めて吹き付けました。(これがまたそっくりの色合い!)

で、阪急クラブの方々には申し訳ないですが、最も遅いウオーム・ギヤを用いてそれでも飽きたらず、床下にニクロム線の直列抵抗をつけて超鈍足モデルができあがりました。それがなぜかEVEでウケたのは床下のニクロム線が過熱して煙を出したからです。

本来なら写真を載せるところですが、残念ながらそのモデルは私の手元にはありません。何処でどうしていることやら・・・
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【998】光明丹
 乙訓の老人  - 07/8/23(木) 22:26 -
  
盆休みは久し振りに現場仕事でウロウロした。その間、VISTA関連で介護師士3号に助けられた。大文字はテレビの前、酷暑でぼんやりする間なく地蔵盆、盆明けの現場と玉座の仕事で、もうあかんわと白旗を上げようとしたら昨夜来の雷雨でやっと人心地をえた。
その間、光明丹が話題となり、楽しい読者となっていた。先ず「鉛」だが富山在勤中、4鉛化チタンなるものを塩ビと顔料の安定剤と使っていた。「鉛」と知り取扱いに細心の注意を払うように配合班長に話し、瓦斯マスクとゴム長手袋を購入、必ず着用するように指示したことが思い出される。昨年秋、富山時代の連中と旧交を温める機会があり、5歳上の元配合班長のことが気になり尋ねたら、定年を前にして癌で早死したと聞かされた。T加太会会員さん、関係あるのですか?
辰砂なる単語が出てきた。常温で唯一の液体金属元素・Hg(水銀)の原料である。
水銀は辰砂を焼いて作る。老人の父母の眠る郷には水銀鉱山があった。宇陀鉱山といった。小高い丘の中腹に穴倉があり、辰砂をトロッコで運び出しリフトを使い空き地へ送り焼結していた。小学校の頃、それを見に行き叔父に話したら、「水銀は毒だから行くな」と注意された。ところが伊勢湾台風(1959年)で茶粥の里である親父の出生地が水害に見舞われた時、東北旅行から帰京するや災害復旧で3週間ばかり応援に行ったが、泥まみれになった道路に辰砂の鉱砕を撒いた。湯気が上がっていたのをおぼえている。その後、宇陀病なる病名は聞かない。精錬技術が優れていたのか、無機であったから影響なかったのか、これもT加太会会員の出番か。宇陀鉱山から東に一山越えると「丹生村」があった。
耶馬台国の卑弥呼は辰砂を塗りたくっていたとか。湖南の美女は辰砂の液に沈められていた。「鉛」「丹」は薬効と長持ちのため古くから人間生活に機能していたのだろう。電車の世界では主に鋼製屋根の錆止め塗料として用いられたが、だが貴重な「丹」を塗料原料としていたとは考えられず、なにか代替品が使われていたのだろう。思い出すのは南海電車の屋根。阪神、阪急、デイ100、嵐電、叡電なども比較的遅くまで鉛丹ペイントだったなぁ。
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【997】カナディアンロッキーの街から
 82年度生 大墨佳司  - 07/8/23(木) 12:55 -
  
 ただ今、アメリカとの国境に程近い、Cranbrookと言う街に来ています。
そこで、古いディーゼル機関車の廃車体(写真)を見かけました。銘板などの情報がなかったので、どこで作られたものか判りませんでした。機関室(写真)が覗けました。車軸配置はB-B & B-Bで、子供の頃よく見かけたEH10と作りが似ています。
 今回の仕事は露天掘り炭鉱のお客様訪問です。ヤマは、観光地からは離れたところにあって、幹線道路からも直接見えません。切り出された石炭は全て貨車で運ばれていきます。山間を縫って走る積み出し列車は厳しい勾配があるため、時に3重連(写真)で引かれていくこともあります。機関車は日本のものと比べるとケタ違いにデカイです。

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【996】光明丹
 K.H.生  - 07/8/20(月) 11:28 -
  
模型好き少年であったので古いTMSか何かで読んでいたが
錆びた赤色、酸化鉄系の褐色と理解していました。
田宮のホビーカラー(私の頃はレベル)に艦底色という色が有り
私は大分交通色のキハにそれを塗っていたよ。

丹はあおによしの「に」で古代から縁の深い水銀系の保存材です。
丹生とか知名に出てくる所は昔から辰砂が取れて原料があったところと
言われています。
近畿だったら吉野川上流で、それを下ると紀ノ川になりベクトルを延長
すると四国の吉野川。これが中央構造線でその沿線には丹の付く地名が
多く分布します。

「毒」ってなんでしょう。
毒は使いようで、防腐や害虫除けにも利用できますが、近年人類は
極端に毒を恐れ、有毒物質の文字を見ただけで忌避するようになりました。
これでええんか、どうなのか。
見た目のきれいな人ばかりの社会、へたればっかり増えているような
気がしてなりませんが。
いや脱線しました。
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【995】光明丹〜塗料の言い訳
 74年度生 佐々木秀隆 E-MAIL  - 07/8/19(日) 11:01 -
  
何を隠そう、私は塗料メーカーに勤める身、最近の塗料の現状についてお話します。
塗料は車輌や鉄橋、建物などの構造物を保護するのが第一の目的です。その目的を達成するために戦前から、石油樹脂を使ってフォーミュレートした製品を用途別に販売しています。構造物の保護のため、人体や環境に良くないことは分かっていても経済的・技術的問題があってさまざまな物質を入れていた経緯があります。
しかし1998年地球温暖化を検討する京都議定書が発効する頃から、メーカー各社は真剣に塗料の無鉛化・非溶剤化・より安全な材料への切り替えを進めています。ただし技術的な問題はクリアできても、価格面で折り合いをつけることは難しく(わが社のメイン商材である路面表示用=道路の白線・黄線の場合、黄色の鉛を代替顔料にして、設計単価が約3倍になります)また、昨今の原油価格上昇を受けて、経営が苦しいのが現状です。
因みにホームセンターや金物店で販売している家庭塗料は、水性化の比率が一段と高くなり、鉛の入っているものは皆無ですので安心してお使いください!
最後にメーカー団体 日本塗料工業会のHPです。http://www.toryo.or.jp/
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【994】おじん2人+1人ヨーロッパ軽便 その17-3
 湯口 徹  - 07/8/19(日) 10:58 -
  
BROHLTALBAHN―Vulkan Express その3

バルカン急行というと大方トルコはイスタンブール発の国際列車を思い浮かべるだろうが、その綴りはBalkanであり、このドイツ田舎の小私鉄はVulkan=「火山急行」である。死火山地帯から凝灰岩搬出目的の鉄道だから、Vulkanは間違いないが、Expressとは。

初回に記したように、何分全線20〜50‰勾配を粘着力だけで上るのだから、17.5kmに上り(日本式なら下り列車)が90分/下り(上り列車)74分を要しており、表定速度は11.67km/14.23km。これでExpressと名乗るのはジョークであろう。

速度は遅くとも、客貨車を牽引して50‰を平気で上る680馬力DCが4個機関・4軸駆動と記したら、一体どんなメカニズムかを記すべしとお叱りが。当然ですな。よって今回図を入れておく。とくとご覧あれ。

4個機関気動車は我国には勿論皆無で、世界には他例がないわけではないが極少数である。小生が知る限りだが、フランスのブガッティ製車(4軸ボギーの両台車中の1軸あるいは2軸=計2軸又は4軸に駆動)が最もよく知られ、米国にもDifferential Steel Car Co.製バスもどき単端式車(V8 130馬力×4)があった。というより、あるにはあった。

常識的には欧米で=ヨーロッパでは現在でも=広く行われた、大型機関を台車に搭載する方式のほうが効率もよく保守も楽とは思うが、製造以来実に半世紀以上、現役も現役のバリバリなのだから文句は付けられない。

有蓋貨車に積み込んでいる自転車は乗客の携帯品で、彼等は終点Engelnまで鉄道に乗り、帰路はその自転車で坂を下るのである。

アーチ(眼鏡)橋はこの鉄道最初の名所で、古い建物のレストランが見え、近くには鉱泉があるらしい。またすぐ先(画面左)にはトンネルが、近辺には洞窟?も沢山ある。

Burgrohl駅といっても昨今の観光鉄道化で途中乗降はほぼないが、優雅な駅舎はレストランになっている。

添付画像
【4個機関DC図.jpg : 116.5KB】

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【自転車の積込.jpg : 198.1KB】

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【眼鏡橋を渡る.jpg : 194.6KB】

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【Burgbrohl駅で.jpg : 199.9KB】

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【Burgbrohl駅で2.jpg : 190.2KB】
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【993】追分交差旧景 発見!
 総本家・青信号特派員  - 07/8/19(日) 0:20 -
  
前記「逢坂山旧景」で、吉田耕司先輩から直々にお尋ねのあった、追分付近の旧東海道線と京津線の交差の様子、私も気になっていた存在でした。逢坂山を境にして、大津側は今も遺構が残り往時を偲ぶことができますが、京都側は国道の改良工事などで早期に取り壊され、遺構は何も残っていません。
何とか大先輩の疑問を氷解すべく、資料をひっくり返したところ、手がかりとなる写真が意外に身近なところから発見されました。添付の写真が昭和6年に写された、旧東海道線が廃止後の追分付近の京津交差の状況です。出典は、平成10年に大津市歴史博物館で開催された「大津の鉄道百科展」の図録からで、提供はなんと「京阪電気鉄道蔵」となっていました。ネットであっても無断掲載は許されることではありませんが、ここは身内ということで‥。
写真を見ますと、東海道線が築堤で、併用軌道の京津線を越すという、上関寺と同じ構造です。旧線の廃止後10年が経過するだけに橋梁そのものは、他に転用されたのか存在しません。しかし左手には橋台が残り、今も残る上関寺のそれとほぼ同じ規模のように見えます。手前の京都側の京津国道には踏切があり、遮断機が上がった直後でしょう、大津方へ向かう電車が中央に見えます。この付近は昭和6年から行なわれた京津国道の改良工事で、これら築堤、橋台は姿を消したと説明が添えられていました。

添付画像
【F0307.jpg : 40.8KB】
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【992】逢坂山旧景
 吉田耕司  - 07/8/18(土) 10:55 -
  
 この写真は浜大津駅前にある150年以上続く老舗の「三井寺力餅本家」の店内に飾ってあったものを店主に頼んでコピーしてもらったものです。

店主も出どころが分からないそうですが、どうみても追分〜大谷間(今の月心寺のあたり?)で左側の線路が東海道線(手前に遠方信号機が進行現示しています)、右側の線路が京津線(旧10型(?)が三条へ向け走行中)と思われます。(手前が京都方の追分、先が大津方の大谷)

国が京都〜稲荷〜(旧)山科〜大谷間を開業させたのは明治12年、翌13年に(旧)逢坂山トンネルが開通し、神戸から馬場(今の膳所)、スイッチバックして大津(今の浜大津近辺)まで開業。その後 東山トンネルと(新)逢坂山トンネルが出来て東海道線が今の形になったのは大正10年。

一方、京津線が京津電気軌道として三条大橋〜札の辻(浜大津の300mほど手前)間を
開業させたのは大正元年。

したがってこの写真は京津が開業した大正元年から、東海道線が今の線に移った大正10年の間のものと考えられます。

ご存知のように山科地区の旧東海道線跡は(この写真の区間も)かなりの部分が今の名神に使われていますが、この写真からもお分かりのように、東海道線と京津線は追分付近と上関寺で2度クロスしていたはず。
上関寺(大谷〜上栄町間にあった駅、昭和46年に廃止、今の国道161との踏切があるところ)の京津線を跨ぐ東海道線の橋脚跡の遺構は今も現存しよく知られていますが、もう一方の追分付近での交叉がどのあたりでどのようになされていたのか、どなたかご教示いただけるとありがたい次第です。


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【京津大谷.jpg : 273.6KB】
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【991】光明丹
 ぷるぷる氏の勝手に代理者  - 07/8/17(金) 14:52 -
  
広辞苑で「光明丹」を引くと「鉛丹の別称。→酸化鉛」とあり、かつて車輌の屋根にも鉛丹ペイントを塗るのが常識でした。鉛を入れると伸びと乗りなど良いことだらけで、塗料や化粧品に大いに使われたのですが、毒性がきつく戦後禁止されました。かつて歌舞伎役者など鉛入り化粧品が原因で発癌あるいは鉛毒に犯された例が山ほどあります。

昨今話題の中国製オモチャから鉛が検出され騒ぎとなっているのも、鉛が塗料の乗りを良くするから。船舶では牡蠣がつきにくい利点もあり、これまた多用され魚や海草等の水産物にまで鉛毒をはびこらせる結果になりました。

鉄道車輌屋根用の鉛丹ペイントですが、「丹」という以上赤っぽいのですが平安神宮やお稲荷さんのような朱ではなく、やや茶褐色に近いものです。どこかの車庫で貰ってきたと、本物の鉛丹ペイントを模型の屋根に塗り自慢していた人を知っていますが、それが原因かどうか不確かながらやはり癌で早死しました。
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【990】ぷるぷるさんへ
 米手作市  - 07/8/17(金) 11:37 -
  
後に車体は青、扉、窓部は黄色、屋根は光明丹

まるで落語の「牛褒め」の様な会話ですがこの「光明丹」が分かりません。
色や使っている状況は知っていますが名前を聞いたのは初めてです。まずなんと読むのか分かりません。「こうみょうたん」ですか?原料は何でしょうか?どうやって塗るのでしょうか?おしえて!ぷるぷるさん!
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【989】Re:ぷるぷるさんへ
 ぷるぷる  - 07/8/17(金) 11:11 -
  
ご老人ありがとうございました。
>塗色は若林美雄さんのメモによれば、「初めは褐色であったものが後に車体は青、
>扉、窓部は黄色、屋根は光明丹」となっていると、吉川文夫さんに教えてもらいました。以上が戦前の姿でしょう。
車体が青、扉・窓部が黄色とは戦前にしてはすばらしい塗り分けですね、模型化の意欲をくすぐられました。

奥村電機の件、よくわかりました。GS湯浅の西工場と言えば亡父は現役時代日本電池に勤めており、西工場は自分の古巣だと良く言っていました。その父が日本電池に入社した頃の勤務地は現在の同志社大学新町学舎の臨光館(一番南側の2階煉瓦建て)そのもので、ここが研究所のようなところだったそうです。

京都には意外と鉄道に縁のある会社があったのですね。例の津田電線、東洋電機製造の京都工場(跡地は現在の任天堂本社所在地)、そして水銀整流器のトップメーカーであった日本電池などなど。
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【988】ぷるぷるさんへ
 乙訓の老人  - 07/8/16(木) 12:03 -
  
「びわこ」を見せて貰ってから16年になるのですね。その節お世話になりなした。

マルキンと車号が分かるように木目線を少し省略しました。腰短冊板の幅不明のため、1/50の原図では1ミリ毎にを0.05ミリのサインペンで引きました。コピーしたら所々かすれましたので、0.3ミリのシャーペンで補正したら汚くなりました。
形式図に立面寸法記入なく適当にしました。車体外板間寸法は2.057ミリ幅、前面Rは3.052ミリです。これで前面形状を割り出してください。
塗色は若林美雄さんのメモによれば、「初めは褐色であったものが後に車体は青、
扉、窓部は黄色、屋根は光明丹」となっていると、吉川文夫さんに教えてもらいました。以上が戦前の姿でしょう。
変電容量ですが、樫藪変電所の容量を調べてみましたら100kWの回転変流器もありましたが、これは予備だったのでしょう。その後、丸亀本社隣に200kWが増設されましたが、坂出延長、ボギー車増備に備えたものと思われます。戦後、樫藪には
300kW水銀変流器が増設されました。

さて(合名)奥村電機商会のことだが、1885(明治18)年大阪で創業、1895年(京電開業の年)京都疎水慶琉橋(平安神宮へ通じる)畔に煉瓦造2階建の工場を新築した。1897年開校した京都理工科大学(現京大工学部、理学部)の技術指導を受け、急成長した京都のトップ電気メーカーであった。大正期に入り吉祥院・桂川の畔に広大な用地を取得、新工場を建設移転を果たしたが、第一次世界大戦後の不況から売上は急転直下倒産となった。吉祥院の工場跡地は現在、日本電池・ユアサの
西工場になっています。JR京都線から見えます。
倒産原因の一つに、奥村猛社長の粗暴な性格からくる労務管理の拙さがあげられている。倒産後、会社整理の上、奥村電機(株)として再起したが、国内での需要先は地方企業が主で台湾、朝鮮や中国での販路が上げられ、日本の電鉄界ではあまり名を聞かない。老人は15年ばかり前に名古屋市交通局日進車庫を訪問した時、保存車1421号のコントローラーに奥村電機の刻印を見つけ感激したことがある。タイプはKR8であった。終戦と共に消滅したようで、今は名を聞くことがない。
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【987】吉川 文夫氏のこと
 湯口 徹  - 07/8/15(水) 11:55 -
  
吉川氏との接点は半世紀以上前に遡る。高校生3年だったか、1浪中だったか。当時吉川氏は日大生だったと思うが、青木栄一氏らと共に久我山鉄道同好会を結成。ガリ版手作りの会誌PANTOGRAPHを刊行されていた。その72号あたりで小生も読者に加えていただき、投稿したこともある。100号まで出た。

その後何とか当方も大学生の端くれとなり、確か1958年頃、当時東急沿線のお宅に伺った。ついつい話が弾み、気がつけば小生御用達の東京23時35分発大坂行131レ(勿論各停)に間に合わないではないか。渋谷までの東急内で、どこでステホ(ステーションホテル=駅待合室で寝ること)するか考えていた。流石に東京近辺では無理で、電車でできるだけ西へ行くか。

途中で東京を23時40分に出る421レなら、ひょっとして品川(0時12分)で間に合うんじゃないかと気付き、間一髪乗車できた。客車列車ならでは、だった。

蛇足だが、131レと421レとは東京で5分の違いが、大阪着は12時8分と14時44分=2時間36分違う。421レは本来静岡始発(5時37分)列車で、シーズンだけの延長を定期化し、熱海65分、沼津で42分停車して、その間手荷物や貨物列車に次々抜かれるからである。

話がそれた。我々の趣味界に学術世界の習慣が持ち込まれて久しい。単なる道楽物好きの世界にある程度の科学的手法が導入されたのは歓迎すべきだが、反面アカデミック世界の、先生の説に弟子は絶対に異を唱えない、というより唱えられない等の悪癖も蔓延させた。

しかし吉川氏はそういった世界とは全く無縁の、温厚・誠実な常識人で、知識は深く、それでいて謙虚な、文字通り「お人柄」の先輩であった。気軽にお尋ねでき、筆まめですぐ的確なご返事がいただけたのも懐かしく、どれだけ多くのことを教えていただいたことか。いい先輩に恵まれたことを心から感謝したい。
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【986】故吉川文夫さんへ
 乙訓の老人  - 07/8/15(水) 8:49 -
  
1990年夏、貴方から1通の封書が届きました。お近くの江ノ電近影と共に「アメリカ・オレンジエンパイア・レールウエイミュージアムのN電19号の写真が1枚欲しい」と書かれた一葉がありました。この年GWに15名の路面電車同好会会員と訪問したメンバーに、私の名前があったので、お願いですと記されていた。貴方からお手紙を頂いた最初のものでした。私の名前を覚えて下さったことに大変感激しました。きっと京都鉄道同好会に起因しているのだろうと思いました。
高校時代、1955年ごろ奥野さん宅へお邪魔した時、「吉川さんがお見えになっている」と聞き、2階へ上ったら細身の背中がありました。お二人は熱心に語りあっておられたので、すぐ退去しました。DRFC時代、再び同じ場面がありましたが、
この時は奥野さんが私を貴方に紹介してくれました。それから「あこがれの吉川さん」となりましたが、お会いするのはN電の写真をお送りした1年後、枚方公園で実現しました。
大西友三郎さんの死去1年後、「お参りしたいが、どうすれば良いだろうか」との相談があり、奥さまに連絡を取り案内させていただいた。かねて奥様から遺品整理
について相談があり、「京電関係は吉川さんが適任です。」と申し上げていたので
お参りのあと、持てるだけのものを頂戴し、鹿島雅美さんの勤務先で段ボール2個として鎌倉へ発送した。

語りだしたらきりがないものがある。奥野さんに紹介していただいてから50年、
でも実質は1990年から、この17年でとても濃いお付き合いをさせていただいた。発病の予兆に最初に気づいたものとして、ずっと回復を祈念していたがが、残念なことになってしまった。吉川さん、また会える日を楽しみにしています。その時は思い切り電車をかたりましょう。
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【985】吉川文夫さんを悼む
 総本家・青信号特派員  - 07/8/14(火) 23:14 -
  
既報のとおり、吉川文夫さんが去る8月11日に亡くなられた。すべての鉄道ファンから慕われ、尊敬された方だった。クローバー会の活動にも関心を持たれ、その一端は40周年誌「青信号26号」に“絆”と題する祝辞を寄せていただいている。吉川さんから有形無形の薫陶を受けた会員も多い。中でも吉川さんと乙訓老人は、東と西の電車ファンの代表格として、歴史的な親交があり、国内は言うに及ばす、その友好の舞台は海外まで広がっていた。
特派員も仕事で吉川さんにお世話になった一人である。鎌倉のお宅にも何回かお邪魔した。材木座の海岸近く、いかにも鎌倉らしい、古いけれど広壮なお宅に入ると、にこやかな表情の吉川さんが迎えてくださった。それから数時間、話は留まるところを知らない。原稿や写真をお願いすると、その2日後にはもう着いているというスピードぶりで、その速さ、心遣いは、他の鉄道ファンにはなかなか真似のできない領域だった。原稿の中身も決して尊大ぶらない、平易で穏やかな内容で、吉川さんの人柄を見事に体現したものだった。写真もありとあらゆるシーンをきっちり撮影し整理されている。写真はあくまで記録が中心であるが、中にはすごい感性で撮られたシーンもある。中でも、鉄道ピクトリアルの第2回鉄道写真コンクールで推選に選ばれた「ちび助力走」は、西武鉄道モハ21をやや斜めに流し撮りされたもので、ポール集電、ラジアル台車の同車の特徴が見事に捉えられている。そのタイトルとともに、50年以上経った今も不朽の名作として記憶の中に残っている。
11日の昼、乙訓の老人から吉川さんの訃報に接した。たまたま上京する用事があり、予定を繰り上げて、翌日に鎌倉で行われた通夜にも参列してきた。式場はぎっしりの人で、高名な鉄道ファンがすべて集まった感じで、中でも鉄道系出版社のトップがすべて顔を揃えたのは、鉄道雑誌などで永く活躍された証しでもあった。遺影の吉川さんは、会ったときと同じように、穏やかに微笑んでおられた。
写真は、静岡で行われた出版記念パーティでのひとこま。左が吉川文夫さん、中央がわがクローバー会、湯口徹さん、右は広田尚敬さんと、それぞれに頂点を極めた鉄道ファン3巨頭がなごやかに談笑されていた。3年余り前のことである。
改めて吉川さんのご冥福をお祈りするものである。

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