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【1429】我楽多
 K.H.生  - 08/6/20(金) 18:18 -
  
遠い記憶の昔に戻って、少年時代に遊んだ玩具を取り出す。

この写真の鉄道模型は実家をからにして貸家にすることが決まり
家中の物を捨てている時に見つかった。
フリーランスの模型は省みられることがなくなったが、1つ1つは
丁寧に組み立てられ、所詮子供の玩具と切り捨てられなかった時代が
いまでは愛おしい。

コンコルドのモデルは初めて洋行した父がヨーロッパで買ってきた。
大阪空港に来なかったけど背景の豊中の空を飛べいまふたたび。

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【1428】天然色で振り返る40年前の日々−13−
 総本家・青信号特派員  - 08/6/19(木) 23:19 -
  
◎大沼の82と62
札幌から夜行の鈍行に乗って、大沼へ戻ってきた。ぐっすり寝込んでいて、何気に目を覚ますと「おおぬま」の駅名標。あわてて、散らかっていた荷物をかき集め、発車間際に飛び降りた。9月とはいえ、夜明けはさすがに寒い。待合室で震えながら明るくなるのを待つ。今日は、ここで一日ゆっくり写すことにする。
大沼駅を出て、線路と並行する国道を仁山寄りに戻ると、小高い丘にかかる。ここに恰好のお立ち台スペースがあり、眼下に複線の函館本線、大沼駅、小沼、その向こうに駒ケ岳がバッチリ収まる典型的な絵葉書写真が撮れる。撮影地ガイドといった指南書がまだ十分でなかった時代だったが、大沼だけは一級の撮影地としてよく知られていた。
景色に加えて、なにしろ本数が多い。鉄道・連絡船が全盛の時代のこと、優等列車、貨物列車はすべて函館へ向け、ボトルネックのようになって大沼を通過し、最後のラストスパートを掛けていた。
なかでも圧巻は、キハ82だろう(写真1)。電化が到来したとはいえ、北海道の特急は、すべてキハ82で、大沼では「おおぞら」「北海」「おおとり」「北斗」、計4本が上下していた。写真は函館発旭川行「北斗」。増結編成も加えた堂々の10連が、轟音も高らかに走り去る光景は一幅の絵だった。まだ急行が幅を利かせていた時代のこと、本数も少ない82特急は、秀逸なスタイルと相まって、まさに「クイーン」の輝きだった。
ただ、手にした切符は均一周遊券だから特急には乗れない(料金さえ払えば乗れるが)。憧れだけの列車が通り過ぎるのを見送るのみだった。よく貧乏旅行の最後のご褒美に、特急寝台に乗ったり、食堂車で食事したりとか聞くが、私は最後の最後まで特急とは無縁の貧乏旅行を貫いた。
列車は大沼から二手に分かれる。写真のような下り列車は大沼公園廻り、上りは勾配緩和のため海沿いの砂原廻りとなって森で再び合流することとなる。
このお立ち台から手前へ、少し仁山寄りへ行くと、線路は湖の小沼に沿って走るようになる。埋め立てられて国道ができてしまったが、以前は国道側も湖で、ちょうど湖の中央を走るように函館本線があった。
ここで、上り「ていね」をとらえることができた(写真2)。C62については、稿を改めて記したいが、ご存じツバメの2号機だ。山線で見られた絶叫はなく、いまは単機で函館までの行路を無事終えようとしている穏やかな表情のC62であった。

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【写真1大沼の82特急.jpg : 302.8KB】

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【1427】天然色で振り返る40年前の日々−12−
 総本家・青信号特派員  - 08/6/16(月) 23:51 -
  
◎魅力のC55
もうひとつ、国鉄蒸機で気になる形式があった。C55である。この当時、C55がいたのは、北海道と九州のみ、それだけにC55との対面は、長い撮影旅行との思い出に重なる。北海道では、旭川区8両、苗穂区3両、室蘭区3両が、それぞれ客車列車を牽いていた。旭川区では宗谷本線の急行「利尻」も牽いていた。
言うまでもなく、C55と言えば、スポーク動輪が特徴、C51にはほとんど縁のなかった世代にとっては、スポーク動輪と言えば、C55を指す言葉だった。実際、C55の横に立ってみると、動輪の向こう側の景色が通して見えてしまうというのが、C55ならではの印象だった。
写真1は宗谷本線音威子府駅に停車中の322列車を引くC5548。まだ2灯化される以前で、LP402の前照灯が実に凛々しく映えている。停車中であるが、緩いカーブの外側から、少し低い位置から見るC55は、より美しいプロポーションを浮かび上がらせる大好きな角度である。
322列車は、稚内を朝に出て、延々宗谷本線を走り続け、晩に終点の小樽に着く普通列車で、日中たっぷりと道北の旅を満喫できる貴重な列車である。私も、同行の山川さん、小西さんとともに稚内から乗車、3時間余りの道北の車窓を楽しんで(と言っても、連続夜行の疲れでほとんど寝たままだったが)、11時18分に音威子府に着いたところ。C5548+マニ362071+スユニ61511+スハフ32407+スハ32849の編成で、後部に2両(番号不明)を増結、11時35分に発車するまでの小休止のひとこまである。
編成の中に2両の荷物車がある。宅配便のなかった時代、鉄道が扱う手小荷物が小口輸送の中心だった。とくに距離のある北海道内では、このように2〜3両の荷物車を組み込んだ客車列車が多かった。
音威子府は、天北線を分岐する道北の要衝駅だった。国鉄の城下町として栄えたが、JR後急速に寂れてしまった典型としてよくマスコミでも紹介される。事実、駅前には小規模ながらも商店が連なっていて、地方の乗換駅としての機能を果たしていた。駅の真ん前にはパチンコ屋もあった。百円、二百円で、列車待ちの時間をつぶすには恰好とあって、地方の駅前ではパチンコ屋をよく見かけたものだ。ギャンブルは毛嫌いした特派員も何度か店に入った記憶がある。いまはすっかり駅前から姿を消し、どんな田舎のロードサイドには魔窟のような店が建ち並ぶ時代となった。
駅の構内も、いかにも北国らしい跨線橋、材木を満載したチキ、トラなど、画面の中から古きよき時代の情景が伝わってくる。

もう一枚のC55は、室蘭機関区のC5532、流線形の改造機である。C55のうち、20〜40号機は、当時流行の流線形にならって、全体をカバーで覆って流線形になった。点検作業の面倒さばかりで、大した効果もなく、すぐに元に戻された。密閉キャブで、キャブ全体が深く、キャブ下辺部が斜めに切れているのが、流改機のポイントである。室蘭駅は全くのの終端駅で広い構内を持っていた。機関区で撮影後は、小西さんと写真右手に見える小山へ登り、構内全体を見下ろした。
苗穂区、室蘭区のC55は、その翌年の昭和44年には姿を消し、トップナンバー機などの一部は旭川区に転属、宗谷本線で最後のC55となって、C57ともに活躍を続けたが、昭和49年には姿を消してしまった。

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【写真1 音威子府.jpg : 290.7KB】

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【写真2 室蘭区.jpg : 374.5KB】
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【1426】平成の買収国電
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/6/16(月) 23:41 -
  
阪和形以外の「買収国電」に国鉄時代に乗車経験のある方は後期高齢者、また私鉄譲渡後に乗車経験のある方は前期高齢者、また乗車経験はないものの「買収国電」という語彙に抵抗感のない方は高齢者予備軍と言えるであろう。

「買収国電」が死語となろうとしている時、こともあろうに4年前の平成16年、突然「買収国電」が誕生した。正確には「買収JR東日本電車」と呼ぶべきであろうが、国電ファンの間では「平成の買収国電」と呼ばれている。

ことの発端は、「東京臨海高速鉄道りんかい線」(大崎〜新木場)の70−000系、10両編成5本と6両編成5本をオール10両編成8本に組替えの際、Tc4両、M−M`各1両の計6両が余剰となり、その車両をJR東日本が購入した。

JR東日本では、同仕様の209系に編入し、不足するM−M`各1両を新製の上、Tc−
M−M`−Tcの4両編成2組に組成、車番区分を3100番台とした。宮ハエ所属71及び72編成として川越線、八高線の川越〜高麗川〜八王子間で使用されている。

新旧の車号対照は下記の通りである。( )は旧車号
ハエ71 209-3101(70-020)+209-3101(新製)+208-3101(新製)+208-3101(70-029)
ハエ72 209-3102(70-03O)+209-3102(70-027)+208-3102(70-028)+208-3102(70-039)
←川越

一方、平成4年から京浜東北線の主力として活躍してきたO番台は平成22年度までにE233系1000番台への置換えが決定し、試作車の3編成を筆頭に廃車が始まっており、姿を消す日も近い。

上から
1.クハ209−3102  高麗川駅(平成20年6月8日)以下同じ
2.モハ209−3102
3.モハ208−3102
4.クハ208−3102
5.間もなく姿を消す京浜東北線のクハ209  有楽町駅(平成20年5月17日)

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【1425】祝 東京メトロ副都心線開業
 デカンショまつり号 E-MAIL  - 08/6/14(土) 22:49 -
  
本日、東京メトロ副都心線が開業しました。午前中は、仕事の関連で、神田川・日本橋川を巡る船旅に参加することになり、そののち、初乗りしようと考えておりましたが、岩手宮城内陸地震が発生し、その対策に急遽職場に行かなくてはならず、初乗りができたのが18時過ぎでした。東京では、近年になくマスコミに大きく取り上げられたせいか渋谷駅は、大混雑!にわか鉄チャン・鉄子、はたまた鉄おばさんまで、カメラ片手に大集合といった様相を呈していました。関東に来て、20数年、新線開業は、つくばエキスプレス、半蔵門線押上延長、東葉高速線開業など何回か当日に乗車しましたが、本日が一番の賑わいでした。渋谷では、次々に電車が到着し、4〜5分で折り返していきましたが、どの電車も満員状態でした。折角なら、話題の急行をと池袋まで乗りましたが、東新宿で退避する先行普通電車がとろとろ走り、PRされているように池袋まで11分というわけにはいきませんでした。
写真一枚目は、副都心線 渋谷駅の路線案内図。
写真二枚目は、渋谷駅の車止め、将来は、この壁を破って東急東横線と相互乗り入れ予定です。
写真三枚目は、折り返し急行飯能行きになる東京メトロ10000系10114。
写真四枚目は、急行飯能ゆき1号車10114車内液晶ディスプレイ。
写真五枚目は、急行飯能ゆき1号車10114車内液晶ディスプレイで表示された副都心線開業告知CM。

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【1424】おじん2人 ヨーロッパ軽便 その22-4
 湯口 徹  - 08/6/14(土) 10:18 -
  
IL TRENINO VERDE =サルディーニャ島「緑の列車」その4 マンダスとイシリ

毎度ながら段取りが悪く、文字と写真がうまくマッチしていない。前回サルディーニャ島での、この950mm軌間軽便鉄道「現存」全線の略図を入れたが、マンダス〜アルバタックス間はシーズンのみ運行の緑色で、グニャグニャと曲がりくねっているのは分かるが、いまひとつ迫力不足とのご意見が。

そこで今回初頭に、我々が出発前大阪のジュンク堂で仕入れ、作戦を練り、現地でも唯一の指標とした20万1の Sardegna(Touring Club Italiano) から同区間をお目にかける。画面をクリック拡大してご覧あれ。

マンダス・イシリ間の無人信号場(当然昔は有人だった筈)で東に分岐。いきなり道路と外れた区間をグネグネ曲がり、オッロリ、ヌッリ、サダリ、セウイからまた道路と離れ、ラウンセイからも言語を絶する迂回と勾配を続け、やっと山地を抜けてトルトリ、ここから平地をティレニア海に面した小さな港町アルバタックスに終着。

この間地形を無視した直線距離なら120km足らずだが、ご覧のような線形だから約160km。今でこそディーゼル車が片道4時間50分程度で走破するが、蒸気列車時代は1日での往復は不可能だった。なお途中から Jerzu(発音がわからん)への行き止まり支線もあった。

現地で貰った英文パンフにも Do not cross the entire line in one day-it is extremery long とあり、We have devised special discounted rates and a certificate as a [No Limits Traveller].とも続く。マンダス〜アルバタックス間運賃は片道16ユーロ、往復だと21ユーロに大幅割引になっても滅茶高い!。

これは夏季のみ(6月半ば〜9月半ば)運行の観光路線だからで、因みに生活路線(日曜運休・列車だけでなくバスも!)のカリアリ〜イシリが77kmで、運賃はマンダスまで2.63ユーロ、往復4.54ユーロだから、格段の差である。それでも採算が取れているとも思えないのだが。

マンダスにも廃車の蒸機が4両いた。うち3両はブレダ製1Cタンク、1両はモンセラットでも紹介したコッペル製クライン・リンドナー装置の1Dタンク機(先輪は後から付加)である。第4動輪への連動ロッドが失われているが、第1、4動輪の車軸が二重になっていて、現実の第1、4動輪の車軸はその中で首を振れるのである。

やっと話を先回に戻し、我々は暗い中を車でイシリの前金を払った宿へ。ところが玄関に婆さんが待っていて、何やら一生懸命話かける。勿論イタリア語(それもサルディーニャ訛りなのかも)だから察するだけだが、晩飯を頼んでおいたのが、相客もなく外で食べてくれ、ということらしい。

これを伝えるため、彼女は何時帰ってくるか分からん客を辛抱強く待っていてくれたのであった。街道町で、すぐ先に他のホテルやレストランがあるらしい。

昼飯を食い損なって餓死寸前の2人は別のホテルでピッツア2枚、サラダ、ビールで2人33.16ユーロ。そのビールも、銘柄で倍以上の差があって、最初に出たのは一番高い奴だったことが判明し、お代わりから安いものに。先ほどの婆さんで奥地?は素朴だと感激したすぐ後だが、やはりこの島もイタリアだった。

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【地図(5).jpg : 342.1KB】

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【クライン・リンドナー機(2).jpg : 343.4KB】
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【1423】天然色で振り返る40年前の日々−11−
 総本家・青信号特派員  - 08/6/13(金) 0:38 -
  
◎6両だけのD61
北海道では、前回の私鉄の蒸機に比して、国鉄の蒸機はどうも魅力が薄い。もちろんC62という別格の存在もあるし、撮影地としての写材にも欠くことはないが、形式にこだわると、9600、D51が大部分で、さらにこの2、3年前から施工されたデフの切り詰めが写欲を削ぐこと夥しい。また自然条件や労使関係も絡んで、整備状態の悪さも気になるところだった(最悪の「団結号」が走るのはもう少しあとのこと)。
こんな中にあって、D61は、その希少性で注目を集めていた。丙線にも入線できるよう、D51の一軸従台車を二軸式に改造し軸重を軽くした、国鉄最後の形式である。外観はD51とほとんど変わらないが、違う形式を名乗ると、別の姿に見えてしまうから不思議だ。昭和34年から改造され、稲沢機関区で試用のあとは、ずっと留萌機関区に6両すべてが集中配置され、D51と共通運用で、羽幌線、留萌線の貨物を牽いていた。沿線には産炭地も多く、ローカル線とは言え結構の頻度で列車は来る。峠越えもあり、重連、後補機も多かった。
写真は留萌(当時は「萠」、1997年に市名と同じ「萌」に改められた)の構内で発車を待つ下り貨物列車。D614+D5162の重連。D61にはまだデフの切り詰めが実施されておらず、ヘッドライトの周りのツララ切りがアクセントであった。D5162も北海道ではたいへん珍しい長工式デフを付けている。機関区はあるものの、駅の格としてはそれほどでもない留萌だが、とにかく広い構内を持っていた。
このあと、DCで今はなき羽幌線に乗って築別へ行き、羽幌炭鉱鉄道に対面した。国鉄線を見ると、まさにD61+D51重連が発車するところ、大慌てで走ってなんとか収めることができた。ふと近くの日本海を見ると、天売島、焼尻島の彼方に夕陽がゆっくり沈んで行くところだった。

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【最後の蒸機D61.jpg : 359.9KB】
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【1422】北京に路面電車復活!
 中国特派員便り  - 08/6/13(金) 0:34 -
  
北京で有名な天安門広場前に前門大街があります。北京ダックで有名な全シュウ徳のある所と言えば、北京に行かれた方は分かると思いますが、数年前より、”古き、よき北京”を目指して、付近一体は、一旦更地にして、大リニューアル中でした。

この程完成し、大通りに半世紀ぶりに路面電車が復活して、試運転が5月9日より始められました。単車運行で、”前門1号”、”前門2号”と、名付けられた2両が走行を開始しました。路線は、800mで、時速8qの10分間走行です。

皆様方も北京に行かれた際は、是非にレトロな路面電車に乗って、美味しい北京ダックをお食べ下さい。特派員も早速に行く予定です。

京都にも”N電復活”なんて、粋な計らいがないものでしょうかねぇ・・・・。
京都市様、景観条例強化やLRTだけではなく、観光客誘致対策のためにもご考慮願いたいと思うのは、私だけではないと思います。

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【北京市電-s.jpg : 73.7KB】

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【北京市電2-s.jpg : 76.9KB】
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【1421】京の白粥 大和の茶粥
 大阪通信員  - 08/6/11(水) 21:47 -
  
 掲示板第1406号で既報のとおり朝粥会があります。元中国特派員こと
米ッ子の小西大兄による二度と聞けない中国?マル秘報告を聞こうという
ものです。大兄は今春、急に中国地方から京都へもどられており今回の
独演会が設けられたものです。大兄が山陰米子から姿を消されたせいか
山陰方面を予定していたクローバー会50周年記念の貸切列車総会は
日程延期とホームページに書かれています。「米ッ子たずねて六十里」
の企画は没になったようです。

また、高齢期を迎え、お迎えがこないうちに会員諸氏の収集された貴重な
鉄道資料をいかに散逸させないかという重要な話し合いもあるようです。
当掲示板には、続々と古い写真や説明はもとよりいずれ貴重となる情報が
載せられますが、その情報源を何らかの方法で残したいものです。

なお、当日すすっていただくお粥のお米は、米子産ではございません。
参加者多い場合はお湯で薄めることがありますので、お椀の中に目玉が
映ることがございます。
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【1420】C56jk07さんへのお誘い
 田野城 喬  - 08/6/11(水) 13:45 -
  
C56さん、長老が言外に「出てこい!」と言っている朝粥の会に来てくれませんか?
ぜひともお渡ししたき物があるのです。これは門外不出、一見即死、禁断症状と言われているものです。
村尾君も来られたら来て下さい。来なければ二度とはお目にかかれないでしょう!
その証拠に前期高齢者のバッタ先輩もあせもの身体もいとわずにポンポンを振りかけて出てこられます。
では、その時までさようなら。
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【1419】良い提案ですね
 乙訓の老人  - 08/6/11(水) 12:48 -
  
デジタル元祖青信号を発足させる目的の一つに、キャンパス、BOX、御所、鴨川べりでわいわいやっていた雰囲気を再現したい思いがありました。50年の歴史は50年の異年齢集団としての価値感の差があると思いますが、さすが皆さんは「襄の子」であります。レールがあれば胸をわくわくさせてその先を追いかけている姿は少しも変わっていないのです。資料価値の高いものが続出していますから、どのように分類して情報を共有するか、話合いましょう。ええ日おまっせ!

6月15日、「朝粥の日」食い損ない者は10:30集合
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【1418】ここまで投稿が増えると
 K.H.生  - 08/6/11(水) 10:47 -
  
現在編、過去編、海外編、その他くらいにツリーを分けるくらいにしたらどうでしょう。
レスが少ないのも元記事へ何頁もスクロールしなければならないからでは。
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【1417】天然色で振り返る 40年前の日々 −1...
 総本家・青信号特派員  - 08/6/10(火) 22:35 -
  
◎現役最古の蒸機を訪ねる
昭和43年当時、北海道の私鉄は多くが盛業中だった。その使命は、定山渓鉄道以外すべてが運炭を主務としており、北海道にとって石炭がなお重要な産業であったと理解できるが、石炭を取り巻く状況は、日に日に変わりつつあった。
しかし多くの蒸機が残り、古典ロコあり、自社発注機ありで、国鉄ではもう見られなくなった私鉄蒸機を訪ねることが、北海道探訪の楽しみでもあった。そんな中で車齢が80年に達する、由緒正しき小型のタンクロコが北海道の片隅でひっそりと息づいていた。明治鉱業昭和鉱で構内の入換用として働くドイツ・クラウス社製のBタンク機、15号機、17号機だ。
ここへは、札幌からだと、深川まで行き、留萌線に乗り換え、恵比島へ。ここから留萌鉄道に乗り換えて終点の昭和で下車すると目指すクラウスに会える。必然的に留萌鉄道にも乗車でき、私鉄訪問も同時に果たすことができる。
テレビドラマの撮影地として知られるようになった恵比島駅で待ち受けていたのは、キハ1001だった(写真1)。湘南スタイルの前面にはヘソライトがあり、台車と連動してカーブに合わせて進行先を照らす仕組みになっている。タイホンも合わせて4つ目玉の様相である。留萌鉄道には同タイプのほか、キハ22と同一設計のキハもあり、5両のDCが在籍していたが、廃止後は全車が茨城交通に転じている。石炭列車はDD202の牽引で、石炭に由来のある鉄道ながら、最初から本線用に蒸機は在籍していなかった。また途中の駅にはかつて使用されていた木造客車がまだ留置されていた。
終点の昭和から歩くこと数分でクラウスが入換に励む昭和鉱があった。この時点で15号機は稼動しておらず、火の入っているのは17号機だけ。しかも、出炭量が減ったのか、午前中は動かず庫に入ったまま。聞くと12時過ぎからしか動かないと言う。ところが戻りの列車は12時10分発、これではせっかく来た甲斐がない。
機関士と掛け合って、早めに庫から引き出してもらい、転車台に乗せてもらうことに成功した(写真2)。古さを感じさせない磨き抜かれたクラウスは、携わる人たちの愛情が伝わるような美しさだった。撮影が終わるまで転車台に乗せたまま待ってもらい、現役最古の蒸機と言われるクラウスの優美なスタイルを堪能することができた。
この2両、明治22年、九州鉄道の創業とともに、7両の僚機とともにドイツからやってきた。明治40年の国有化後は、10形となり、国鉄廃車後、15・17は、東横電鉄の建設工事に従事、昭和6年からは2両とも昭和鉱へという流転の人生をたどっている。同形式の1両26号機は大分交通宇佐線でも使われ、現在も宇佐神宮で保存されている。
訪問から8ヵ月後の昭和44年4月、昭和鉱が突然閉山されてしまった。クラウスはもちろん、留萌鉄道までもが廃止(正式には休止)されてしまい、小さいながらも炭住街を形成していた昭和の街も霧散し、無人のゴーストタウンと化したという。
2両のクラウスも、廃止後、大井川鉄道へ貸し出されたり、大阪万博へ出品されたり、果てはデパートのオークションに掛けられたりと、現役時代以上に数奇な運命をたどり、「クラウス」という言葉が一時独り歩きしたこともあった。いまは、15号機が地元の沼田町、17号機が遠野市に安住の地を得て大事に保存されているという。

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【1416】武蔵野と讃岐をつなぐもの
 乙訓の老人  - 08/6/10(火) 13:13 -
  
【1407】を拝見、豊春に縁ができていると、思った。息子の連れ合い(お嫁さん)の実家へは当駅下車、春日部方面へ徒歩7〜8分である。野田線は複線となり8000系6連が往来している。彼女の育った生家の近く、線路際には7階建てのマンションがあり、外部廊下から3210系が走っていた頃の写角の撮影ができそうだ。そのころは田圃であったのが、今は家屋が点在する。左背後の林は寺か神社のものではないだろうか。このあたりは今も武蔵野の面影を残しているところもある。7年前に初めて降り立った時は5000系6連で、大宮から吊り掛け音を楽しんだ。
さて、キッコーマン醤油に煮込まれた総武電車が3両、讃岐平野を走りまわったことは良く知られている。1948年、供出車として東武鉄道から高松琴平電鉄に譲渡された、形式称号が7000、9000形となった総武モハ1001,1002→710,720,クハ1201→910号である。制御方式はTDK電動カム、制動方式は自動ブレーキAMMで、当線では在来車と連結運転不能であった。1954年初訪問の時の姿は記憶にない。翌年は3連で、仏生山で留置されているのを見ている。1957年、瓦町で4連の姿をキャッチ。山陽107→920を加えていた。形式称号は920となり、インフレ解消となった。この時、この編成は自動ドアであるのに気付いた。920の扉部突き出しステップ幅が大きいので仏生山でスナップしている。
Tsurukame君の1961年3月撮影フィルムを点検していたらとんでもないシーンを見付けた。500+910+710+920+720らしい編成で、500は制御制動方式が異なるため本来連結運転をしない筈だ。が、瓦町で1両解結して、折り返しの4連に繋げて仏生山に入庫させる運用があったから、それだろう。500に客の姿なく引かれてゆく姿であろう。HL−SME化は1967年。その後、710と910は車体を交換、910(元710)を電動車化、730とした。この頃から老人は冬眠生活に入った。1988年仏生山へ行ったら730→880となっており、廃車寸前の姿があった。3、4年後、再訪問したら長尾線の予備車として整備するとのこと。次の訪問時、美しい姿となっていた。作業の合間を縫い整備したので1年半かかった由。だがいつの間にか姿を消してしまった。
「さぬきうどん」は「いりこのだし」で小豆島の淡口醤油を使う。武蔵野からやってきた3両は、HL−SME化で「さぬき」化されたことになる。

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【1415】少し前の西武鉄道
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/6/9(月) 23:48 -
  
【1388】で上信電鉄デハ100形の台車振替について書込みしたところが「少し前の西武鉄道」になってしまったので、続編を書き込みしたい。

京阪沿線の中学校に通学していた頃、RF誌だったと思うが、西武鉄道に元国鉄の舶来電機が在籍することを知り、かねてから実物を見たいと思っていた。特にスイス、ブラウンボベリー社製の元国鉄ED12のE51は、1400oの大きな車輪、デッキ部分まで伸びた庇等、いかにもスイス製という感じの魅力的なスタイルであった。社会人1年生の9月、西武鉄道に小手指検車区の見学お願いの手紙を出したところ、総務部の女性の方から自宅に電話があり「どうぞいらして下さい。池袋発の西所沢行に乗り、車掌に言ってそのまま検車区まで乗って行って」という返事であった。当時西武池袋駅は国鉄との中間改札が無く、人の流れについて行くと西武のホームに来てしまった。車掌氏に西所沢までの切符を求めたところ「切符を持っていないので駅で払って」と言われてしまい、西所沢から検車区まで歩いたところ30分以上かかった。検車区では、本社から連絡がいっているので、区長氏から「京都からわざわざうちの古い機関車を見に来たのか、気をつけてどうぞ」で終わったが、不思議そうな顔をされていた。やや停車位置が悪かったものの目的のE51はじめ、小型のE12、元青梅電鉄のE41、最新鋭のE853等をじっくり見学できた。帰りは遥か向こうに狭山ヶ丘駅が見えるのでそこまで歩こうと思ったが、検車区の前に「小手指台」バス停があり、程なく来た所沢駅行のバスに乗車。所沢駅で電車を待っていると、元武蔵野鉄道のE22が茶色の電機を引いてきた。それは小田急丸窓電機デキ1021→岳南鉄道ED281であった。

1.E51       小手指検車区  昭和45年9月14日
 元国鉄ED121、大正12年スイス、BBC(ブラウンボベリー)社製で、幹線電化当初のサンプル機として輸入された。機器が精巧過ぎて扱いにくく、戦後の昭和23年に廃車となり、昭和25年に僚機のE52と共に西武に入線した。機器は国鉄標準形に取り替えられたが、長く西武で活躍し昭和51年に廃車となった。

2.E52       国分寺駅   昭和49年5月1日
元国鉄ED122、廃車はED121より1年遅く昭和24年であった。昭和61年に廃車となったが、横瀬基地に保存されており、毎年鉄道記念日に近い土曜日に開催されるトレインフェステバルの時に一般公開されている。元国鉄のED111→E61、ED102→E71と共に大切に保管されていることは誠に喜ばしい。

3. E12     小手指検車区  昭和45年9月14日
西武池袋線の前身、武蔵野鉄道のデキカ10形(11〜13)で大正12年ウェスティングハウス社製。13は昭和36年に弘南鉄道に譲渡され、現在も弘南線の除雪用として残っている。また、写真のE12も保存されている。

4.E22       所沢駅  昭和45年9月14日
元武蔵野鉄道のデキカ21形(21、22)で昭和2年川崎造船製。E21は昭和48年、E22は昭和53年に廃車となったが、残念ながら保存されなかった。

5.岳南鉄道ED281 所沢駅  昭和45年9月14日
元小田急デキ1021で昭和5年川崎車両製、小田急の丸窓電機として関東では有名であった。昭和44年8月に岳南入りしたが、昭和53年12月に廃車となった。晩年は岳南富士岡の側線でボロボロになって放置されていたので、見られた方も多いのではないだろうか。西武の電機ではないが、たまたま所沢駅で見たので紹介した。

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