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【824】爺やの出番
 乙訓の老人  - 07/4/10(火) 17:11 -
  
ぼけかけおじんから池の鯉の如く、「出番、出番」と2度にわたり尻を叩かれたが、藪の傍で寝起きをしている老人は杖代わりとなる手頃な若竹が伸びないと、「よっこらしょ」と立ち上がることが出来ない。震える手先を駆使して「蛍谷」について一席ぶつか。
【819】に石山坂本線の運輸開始実施年月日が紹介されているが、ここで注意する点を幾つか述べる。膳所は現膳所本町で、1937年8月20日改称。現京阪膳所は元馬場で、同年8月12日改称で膳所駅前となった。ついで粟津だが、当線延長開通時は別保と称した。京阪が合併した時は既に粟津となっていたので、改称年月日は不明。唐橋前〜蛍谷間開通後に石山まで0.06マイル(96.56m)延長されたのが1914年6月4日。京阪合併時は「蛍谷」と称したが、1937年8月20日に石山寺と改称。1950年10月1日、石山蛍谷と再び改称。1953年4月1日、三度目の正直か、石山寺と改称し現在に至る。
石山寺山門まで歩けば約15分、京都市電・銀閣寺道のように石山寺道なり石山寺口とするのが本当で、地名からすれば蛍谷が本来の姿。せめて石山蛍谷に戻すのが良いと思うのだが、如何でしょうか……大津の住人様。
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【823】淀川の右岸・左岸
 某ぼけかけおじん  - 07/4/10(火) 15:55 -
  
[822]総本家特派員氏の投稿を見た途端、辛抱たまらずすぐ反応=反射神経抜群なのか、単なるこらえ性が足らんだけか。おまけに余程ヒマなのか。余命幾許もないから、少しでも世のため人のための公共精神発露か。またまた53年前の記憶を搾り出す羽目になったが、昨日食べた献立よりはよく覚えている。

淀川右岸、左岸(蛇足だが右・左は上流から下流を見た方向である)にいずれも建設省の工事用恒久軌道が敷設され、長らく使われていた。

左岸は枚方に基地があり、軌間1067mm、旧内務省(戦後建設省)のいわゆる1100系Cタンク機が何両か働いていたが、老人は遂に京阪を下車して見に行くことはなかった。最終的に河川敷はゴルフ場になっている。

右岸はドコービルから始まった軌間600mm軌道だが、何と複線で、道路とは平面交差だが皆瀬川に敷設され阪急、国鉄とは当然ながら立体交差していた。斜面を削り採取した砕石を水辺まで忙しく運搬していたのである。

ここの蒸機はかわいい国産Bタンク、それも戦時中のもので、長らくメーカーが不明だったが、はるか後年日本牽引車製造=森製作所が戦時中強制的に高田機工と合併さされて製造した機関車であったことが判明。(名取紀之『森製作所の機関車たち』参照)

老人が尋ねたのは1954年の5月と記憶する。残念なことに蒸機は前年度で運行を止めており、それでも奥に1両いるというので、ディーゼル機関車牽引の列車に乗車。トロッコは乗り心地が悪いからと機関車に乗せてもらったが、キャブが狭いのに恐れ入った。

奥の基地には確かに1両が、小屋の中に残されていた。正面しか撮れなかったが、キャブ端面の窓はコッペルもどき、煙室扉下部等は雨宮もどきである。さすがの臼井茂信氏もこの写真だけではメーカーを即答できなかったのが懐かしく想い出される。この時期零細業者が何やかやと産業用粗製蒸機を乱造しており、中には1両だけのメーカーもあったのである。

この時は既に国産ディーゼル機関車が主役だったが、ただ真っ黒くてやたら小さいのに、何とも精悍な鉄の塊のようなガソリン機関車も1両健在だった。これもはるか後年、老人よりずっと若い内燃機関車マニヤにホイットカムだと教えてもらった。

ホイットカム以外の写真は故大橋一央(弁太郎)氏1940〜51年の撮影である。

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【日本牽引車製造機.jpg : 125.0KB】

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【淀川1100系機.jpg : 175.4KB】

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【822】淀川を挟んで気になる物件2つ
 総本家・青信号特派員  - 07/4/10(火) 13:00 -
  
橋本・水無瀬の渡し舟から始まった、某ぼけかけおじんの考察、興味深く拝読しました。渡し舟の存在は知っていたものの、実際に乗船記を読んだのは初めてで、真の乗船目的も秘かに聞いてみたい気がします。また男山索道が計画していた、山崎と八幡、長尾を結ぶ鉄道計画、特派員の地元で荒唐無稽ともいえる鉄道敷設計画があったとは、鉄道の奥深さを垣間見ました。
さらに蛇足とはいえ、この橋本・水無瀬で、以前から気になる案件が2つあり、博識の老人・おじん連合ならではの情報を期待します。

◎橋本にもあった平面交差
京阪の平面交差は、大阪・京都市内のみと思われていますが、創業時代には、橋本にも存在したことを、以前のネット情報で知りました。なんでも橋本の南方にあった津田電線(現在も別のところで会社は存続中)の工場から、淀川畔への向かう専用線が、京阪の新設軌道を横断することになり、平面交差を設けたというものです。両者の軌間は、片や1435mm、片や600mm足らずと極めて珍しいクロスになったということです。
専用線は、工場からの製品を、淀川の水運を利用して運び出すための簡易なトロッコ様のものと想像されます。その後、京阪が自動閉塞信号を設置した際に保安面での問題から、平面交差は撤去されたといいますから、わずか5年しか存在しなかった、幻の平面交差といえます。前述のように、特派員は、ネット情報だけで、一次資料にも当たったことはなく、その存在の手掛りを求める次第です。

◎水無瀬に残る廃線跡
阪急でもJRでも、大阪へ向かう電車が、大山崎(山崎)を過ぎ、しばらくすると、小さな川を渡ります。これが水無瀬川で、かつて、淀川改良工事の土砂採取のためのトロッコ線が、川の左岸に敷設されていました。今でも、水無瀬川を渡るころ車窓から山手を見ると、地肌がむき出しになった土取り場の跡を見ることができます。淀川の河川改修のためのトロッコ線は、下流の枚方、寝屋川付近にもありましたが、この水無瀬川の線は、明治末期に敷設され、戦後は建設省淀川工事事務所が管理していました。昭和28年ごろまで蒸機が使用されており、昭和36年に廃止されています。その様子は「鉄道ファン」でも、高橋弘さんによって紹介されたことがあります。
水無瀬川の河口に廃線跡らしきものがあると聞きつけ、数年前に現地へ行ったことがあります。国道171号から淀川河川敷へ降り、水無瀬川に沿って、なおも河口へ向かって歩いて行くと、茫々とした川の河口に、コンクリートの塊が斜めに建っているのが見えてきます。どうやらこれが橋脚のようです。前後の河川の堤防はコンクリートで固められており、痕跡を認めることができませんでした。
昭和36年廃止といえば、おじん・老人連が現役のころ、記憶を絞り出して、ぜひ披瀝をお願いしたいところです。

「淀川を挟んで、それぞれが文化圏を形成し、交通機関が発達したのは、日本では唯一の例」(乙訓の老人著「京阪特急」50ページから引用)、これほどに淀川は、(男山索道のように)鉄道を拒否したかと思うと、前述のように、新たな鉄道敷設を生んだ川でもあるのです。
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【821】ニブロク時代の栗原
 湯口 徹  - 07/4/9(月) 14:32 -
  
乙訓の爺様が張り切っておられるところへ闖入するようでいささか気が引ける(そんなら止めたらという声も)が、52年前小生が高校卒業直後撮影の写真をお目にかける。

栗原鉄道は元来軌間762mmの蒸気軌道だったが、戦時中奥に細倉鉱山が開発され、三菱の資本が入って産業鉄道に生まれ変わった。鉱石や硫酸を石越で国鉄貨車に積み替えていたが、貨物が増えてどうにもならず、762mm軌間のまま750V電化かつ栗原電鉄への改称が1950年9月21日。
電気機関車は三菱三原製ED181〜3、電車は日本鉄道自動車工業(後の東洋工機)製でモハ2401〜3、すべて新製である。

その後も貨物は増える一方で、1955年9月26日1067mmに改軌。電気機関車も改軌して重量が重くなった分ED201〜3と改番したが、電車は下津井に売却しサハ1〜3に、タンカーはまだ762mmだった小坂へ、残りの客貨車は廃棄された。

小生が朝鮮戦争で米兵死体を収め日本に送った後払い下げられた米海兵隊の特大寝袋(実に上質のダウンだった)をかついで訪れたのは1955年3月28日=改軌半年前である。

やたら寒い日で、モハに暖房が入っていたのが有難かったのを記憶している。金がないのと、その日のうちに仙北、仙台、秋保とまわって常磐線泉まで行かねばならないので若柳からすぐ離合列車で引き返した。今から思えば惜しいことをしたものだ。

3扉で妻が流線型?のボギー客車は何あろう、かの(と見得を切ってもだれも感心してくれないが)丸山車両製作所製唯一のボギーガソリンカー、キハ2の成れの果てなのである。逆転機がなく、前頭エンジンで前頭台車のみを駆動する「双頭車」だが、どうしょうもない欠陥車で、すぐ放置され、遂には客車になった。3扉といっても、前後は扉の後ろ窓1個分が機関室で、中央扉をはさんだ両側窓4個分のみが客室であった。

若柳、石越はニブロク時代の面影が今も色濃く残る。特に無人と化した石越駅舎はニブロク時代そのままである。今ではかけらもないが、石越のこの狭いところで国鉄貨車に鉱石や硫酸を積み替えていたのである。

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【栗原電機.jpg : 451.7KB】

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【栗原電車.jpg : 376.2KB】

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【820】栗電訪ねて18きっぷ (その3)
 乙訓の老人  - 07/4/7(土) 21:37 -
  
8月14日、3日目はいよいよ「栗電」乗り込みの日である。宿を出る用意をしていたら電話あり。何事かと思っていたらJTS能勢君からだ。「いま秋田です。男鹿線の50系を撮りに来ています。DEのプッシュプルですよ。」「俺、これから栗原へ行く。どないする?」「ちょっと待ってください、何時に石越に着くかもう一度連絡します。」ややあって、「田沢湖線経由で石越13時26分着です。」「その時間は栗電の接続ないから、若柳までタクシーでおいで。3キロ位だから1000円もしないと思うよ。」「OK!、そんなら若柳2時にしましょ。」実は能勢君から11日に連絡があれば、13日に仙台で落ち合いレンタカーで「栗電」訪問の筈であった。
一ノ関8時発(524Mレ)は715系4連。ガラガラで南下する。石越8時23分着。栗電の石越到着は9時2分である。栗電石越駅構内は貨物隆盛時代同様広いが、レールほとんどは外されJR線とは接続していない。その中央にED351(P107)なる電関が胡坐をかいている。はて、どこから輿入れして来たものだろう? 東洋電機タイプだ。そうだ、東武日光軌道線のものに違いないと決め付けた。9時前にやって来る電車を迎える位置決めをしていたら、田圃の向こうから昨夜見た初めての「栗電」がやってきた。183号と名乗る3扉車で、福島交通が冷房車を導入した時にトコロテンよろしく突き出された5318、5319号を購入してM182、M183号としたものだ。今回も18m車が初のお目見えとなった。それは35年前、M181号なる西武の木造車を所沢工場で鋼体化したものが、最初の撮影対象となったのであった。
9時28分発183号で若柳に向かう。乗客は老人を入れて20人で、内8人が子供である。日頃の乗客数が気になる。命運が尽きようとしたら、存続することになったのはいいとして、変電設備の更新費が捻出できない、架空電車線や車両の保守に経費がかかる等の理由でDC化されることになった。備南電鉄での例もあり長持ちしないぞと思った。若柳につくや駅助役に車庫での撮影を申し出たら、快くOKとなり車庫の方にも声掛けするように言われた。ところが車庫事務室は無人である。そこかしこを探しまくったら、検査庫の物蔭でなにやら磨き物をしている白髪の人を見つけた。「10時10分頃に入庫車があり、それの代わりが出て行くから、その時だけ注意して欲しい。」と言われた。
35年前の貨車を除く在籍車はM151~153、M181、C141、142(元阪急81、86の車体+TR11)が電車、
ED201~203(2ft6in時代のものを改軌)、ED 351(元西武ED1:東芝製の凸形)が電機、DB51、52(協三製)が構内入換用の牽引車であった。C141、142は1960、61年に西武所沢工場でM150形同型(ただし石越向きの片運)に鋼体化されC151、152となった。これを撮りたいのだが、他車に挟まれており撮影不能であり、くやしい! 邪魔物の移動を白髪の人にはとても頼めない。
その後、旧型国電モハ50+クハ65(称号改正後の形式番号は?)の1編成を購入しているが、この時が最盛期であったのであろう。その1編成は駅構内、旧貨物ホームの片隅でボロボロの姿で放置されている。M181(P108)はカラオケ電車となり留置中。M182も休車のようだ。C151、152の塗装はきれいだが車輪は錆びており、このところ走った形跡がない。つまるところM151〜153、M183の4両がこの日の稼動車のようであった。おっと、車庫内にはDB101(P109)なるディーゼル機もいた。

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【819】またまたしつこく石山螢谷
 某ぼけかけおじん  - 07/4/7(土) 20:43 -
  
75年前の1932年7月1日現在『地方鉄道軌道一覧』から琵琶湖鉄道汽船の頁をご覧に供する。螢谷(石山)とある。

さらに1928年5月19日発行『帝国鉄道年鑑』軌道の部では「琵琶湖鉄道汽船」螢谷−石山間0.06マイル、1914年6月4日開業とある。

これら全て乙訓老人出番の露払いである。爺様よ、出番でっせ!

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【817】Re:石山螢谷
 今出川浄福寺  - 07/4/7(土) 16:09 -
  
某ぼけかけおじん様、早速のありがたい説法と経本をお示し賜り真にありがとうございます。
安堵いたしました。何分の不信心者にて御容赦の程をお願い申し上げます。さっそく石山寺にお参りに上がろうと存じます。

さて、お説教の中にありました中書島ですが、昔日の面影はもはや無く、それらしき家は2軒ほどとなりました。島に親戚があるのでよく行きますが、疎水より北側、納屋町(龍馬通り)・大手筋商店街の方がよく賑わっています。
橋本駅線路際にあったタイル張りで丸窓の家がどうなったのか。

千本中立売近く、西陣京極の変わり様は甚だしく、映画館・劇場は全滅、飲み屋も数えるほど。虚しく西陣京極の案内門だけが、灯りをともしている。
その近くの五番町、ここも同じく下宿屋に変遷したところ。四国から出てきた女性が知らずに下宿をしたところ、郷里の母親が訊ねて来、京都駅の案内所で訊ねたところ件の場所の謂われがわかり、慌てて宿替えをしたと本人より聴いたことがある。今でも今宮神社の祭礼の行列は、千本通から一端五番町に入り休憩を取った後、もとの千本通りを上がって行く。
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【816】鉄道マニアが主人公のTVドラマはじまる!
 総本家青信号編集部  - 07/4/7(土) 14:10 -
  
えらい時代になりました。
かつては密かに息を凝らして生息していた我々鉄道マニアが事もあろうにテレビドラマの主人公になろうとは!某はんぼけ老人ではありませんが「長生きしてよかったのかわるかったのか・・・」
そのドラマは今月13日よる10時からTBS系列(関西は4ch)で始まる「特急田中3号」
そのHPにあるコメントを紹介する。
 鉄道が好きな人は日本に1,000万人いるといわれている。かつては「鉄道マニア」「鉄道おたく」と称されてきた彼らも最近では、全日本9,800駅を下車した超「テツ」(鉄道マニアの愛称)が話題になったり、「鉄子」なる「女性のテツ」の存在がクローズアップされたりして、話題を呼んでいる。以下略

鉄子はすでに40年前にDRFCにも存在したし超テツぐらいは今までにもいたはずであるがこんな事は口外しないのが洗練された本家鉄道マニア?のマナーであったと思う。これは昨今の「おたく」=「変態」=「電車男」的思考回路であり決してよろこぶべきではないかもしれない。
でも見てみたい!
http://www.tbs.co.jp/tokkyuu3/intro/
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【815】石山螢谷
 某ぼけかけおじん  - 07/4/7(土) 10:48 -
  
[813]今出川浄福寺氏の「沿線ご案内」石室よりカビもなく出土の件

戦後でも一時「石山螢谷」と呼称していた時期があったが、いずれ乙訓の爺様が黙ってられず適切なコメントがあるじゃろ。誤植ではおまへんで。添付時刻表一番下を御覧なされ。

水無瀬−橋本の渡し舟はお説の通り本来橋本遊郭のため。でなければ、川を挟んだ交通需要などほぼ皆無である。1950年代まで存続し、この年寄も自転車携帯で乗ったことがある。売春防止法施行後じゃによってお間違いのないように。

水無瀬側から乗り、中州?で別の船に乗り換える。ここで料金(記憶は薄れたが自転車とも20円だったか30円だったか。市電が2乗車25円、国鉄初乗り10円の時代)を徴収するから、取り漏れがない。確か夫婦でやっていた。

船は勿論全木製で、その時の相客は4〜5人だった。

蛇足(の方が長いのは今回に限らんが)だが、男山索道(株)が京都府乙訓郡山崎村−大阪府北河内郡菅原村間の免許を1927年6月25日取得。翌年男山鉄道に改称。

東海道線山崎/新京阪山崎から川を渡って橋本口、八幡口(京阪北側八幡駅前)八幡南口、北峠を経由し、片町線長尾に達する9.5km。両方から参拝客と精進落し客=遊郭に人を呼び込む算段で、最大の出資者は神社であったようだ。

当初電車、のち動力をガソリンに変更し、建設費150万円、内車輌費は13両単価7,500円、客車10両貨車3両などとある。

工事施工認可も申請したが、これは免許失効を防ぐ虚偽の手続で、淀川、桂川660mの架橋などできるわけもなく、1936年7月24日免許失効が官報に掲載されておる―という昔話もあるんじゃぞ。それにつけても(関係ないか)年寄は大事にせにゃいかんぞな、もし。

再蛇足だが、売防法で泣き泣き廃業した中書島遊郭は、やたらとある4畳半の部屋利用法に、当時の京大宇治分校(教養学部)生の下宿業に転業した例がある。

添付画像
【時刻表1952年9月号.jpg : 262.9KB】
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【814】OBから市会議員!続報
 元祖青信号編集部  - 07/4/6(金) 22:56 -
  
今出川浄福寺氏の遺言と遺品展示のあとに出すには少しばかり生臭いがこれも浮き世の常とお許し下さい。
先日の報告で本当にOBかどうか分からないので調べると書きましたら現役生から連絡があり、本人の写真がこのHPに出ているとのことでした。下記のページの中に「現役生の話」という項があり右の写真に写っております。
http://drfc-ob.com/personal/fukkatu.html
当選させて市電を復活させるのも良し、クローバ会に市の予算をつけるのも良し、とりあえずご報告いたします。(清水三重子)
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【813】キャビネットの片隅から 沿線御案内の卷
 今出川浄福寺  - 07/4/6(金) 20:25 -
  
団塊の世代の一人でもある私、あと少しで還暦になります。
日頃の精進を怠った為か、体力が日々に衰えるのを感じるようになりましので、お迎えがいつ来てもよいようにご先祖様に手を合わせ、身の回りの整理に励みだしました。

すると御加護の賜物か、失せものが現れ出しました。
そこで廻向の意も含めお供物として献げたいと存じます。

第一回目は、未だ巷を賑わす京阪電車であります。

まずは「京阪電車沿線名勝案内圖」をご高覧あれ。昭和12年9月製作。78×26.5cm。分割コピーの上合成しましたが、何故か一カ所ズレています。
子供の頃、色鉛筆でなにやら書き込んでしまって消えませんでしたのでそのままです。それに状態が非常に悪いです。それに「画像の大きさを1024*768程度にまで縮小してください」という制約から縮小したところ、文字の判別がいささか不鮮明となった。ご了承の程を乞い願います。

この案内図には裏面がありまして、運轉時間表をご覧になって下さい。「京阪特急」61頁の記載の如く、
「特急びわこ號」の濱大津発車時間が 4:35, 5:35, 6:35, とあり、その所要時間は77分、三條大橋のみの停車となっている。その図の最下段、石山坂本線螢谷驛とあるが?……?
石山寺驛の誤植か。

他に主要駅の沿線案内書きがあります。
京阪線 橋本駅の説明に、「昔ながらの紅燈ゆらぎ、對岸山崎とは渡船で連絡してゐる。」とある。
このことを同級生である掲示板主(管理人)のお母さんに、嘗てお尋ねしたことがあった。
『父が渡しで八幡方面に渡るときは、必ず私を連れて行きました。子連れだと渡し場でやり手などから声をかけられないからです。』というようなことをおっしゃっていました。よく賑わっていたことを伺い知る話でした。

駅名の変遷や路線の消滅など、思いを巡らせながら眺めております。

(つづく)

添付画像
【京阪電車沿線名勝案内圖s.jpg : 397.3KB】

添付画像
【運轉時間表.jpg : 252.0KB】

添付画像
【運賃・運轉時間表ss.jpg : 401.3KB】

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[添付]〜添付ファイル〜
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【812】おじん2人ヨーロッパ軽便 その15-3
 湯口 徹  - 07/4/5(木) 18:17 -
  
シーニーゲ・プラッテ鉄道 その3

京阪特急本が売れに売れ、手が空いた乙訓老人が猛烈に勢いを盛り返した。あっけにとられてこっちはいささか出遅れたが、気を取り直して懲りずにヨーロッパ軽便を続ける。

シーニーゲ・プラッテの頂上駅は、天候急変で下山客があふれていた。前回[793]の5コマ目、5号蒸機が押し上げてきた客車は古い木製の窓の無いタイプで、窓上にキャンバスが巻き上げてあるのが分かろう。天候悪化でそれを下ろしたので、景色は一切見えなくなった。

電気機関車は3種ほどあるが、いずれもコンパクトで好ましい。三重交通にいた50型電機はGE製で雰囲気はまったく違うとはいえ、何やら共通点もありそうだ。

そのコントロ−ラーをご覧いただきたい。床に対し傾いて立っている。これは急勾配での運転手に対する配慮である。

パンタを下ろして急坂を下がる写真を出せ、と某氏から注文が。分かり難いが縦写真は架線とパンタが離れている。

我々は途中で下車し、次の列車に乗換えることに。小さな駅だが駅員が居り、同じ建物の中でスナックもある。天候不良を招いた原因は御神酒の上げようが足らなかったためにほぼ間違いないとあって、次の列車までの間に神に対する義務とサービスを履行した。バーテン?はたった一人の駅員が兼務していた。

効果はてきめんで、下山時は天候が回復していた。蛇足だがこの小駅の男性用トイレ(小)は、ステンレスの幅広樋が勾配を付して壁を走っており、各人己にふさわしい高さを選んで用が足せる―懸命に背伸びをする必要の無い珍しい構造だった。

話は遡るが、オーストリアから寝台夜行でスイス入りし、チューリッヒから迂回しながらアッペンツェールに向かうとき、我々はバックパックをチッキ便でアッペンツェールに送った。チッキ(何語か知らない。日本語かも)とは、かつて我国国鉄でも全国ネットで行っていた荷物の託送システムで、連帯運輸しておれば私鉄やバス、船でも扱っていた。

駅の出札口の隣に必ず手小荷物窓口があり、乗客が乗車券を示して荷物を託送するのが手荷物、荷物だけ送るのを小荷物と云った。手荷物客車はそのために連結していたのである。日本でそれがなくなったのは、年中行事の長期スト等乗客無視で信用をなくして顧客が国鉄を見限ったのと、駅員不在駅が増えたからで、宅配便が取って代わって久しいが、スイスでは健在である。

これが仮にイタリアだったら、いくら重くとも荷物は自分で持って移動する。果たして指定の時間に、あるいはちゃんと着く保障に乏しいからである。ところがそこがスイスで、驚くほど正確に、最短時間で荷物が着くのである。我々は寄り道しながらアッペンツェールで荷物を受け取った。

旅程の最後にもチューリッヒで受け取れるよう、荷物をチッキで送った。この間最小限のデイパックだけで撮影行ができる。タグの裏側には着駅名、名前、住所、電話番号を自分で記入する。このタグはチューリッヒ中央駅で朝6時40分受付を示している。

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【811】「白いかもめ」台湾へ サンケイEXより転載
 編集部  - 07/4/4(水) 21:32 -
  
高速化の台湾、新幹線に続き「振り子」も導入

 台湾の鉄道当局は5月8日にダイヤ改正を行い、日本から導入した振り子式列車「タロコ(太魯閣)号」の運行を始める。今年1月に開業した台湾高速鉄道(台湾新幹線)に続き、台湾では日本が磨いた鉄道技術の粋を集め、交通インフラの近代化と高速化が進んでいる。

 在来特急などを運行する台湾鉄路(台鉄)は昨年12月、日立製作所笠戸工場(山口県)で製造されたタロコ号を導入。JR九州の「白いかもめ」が搭載する振り子技術を採用し、今年2月から樹林(台北県)〜花蓮間で試験運用が始まった。

 カーブが多い東部路線だが、振り子技術の投入で平均時速は約15キロアップし、所要時間の短縮を実現した。

 試験運転では振り子技術は未使用だが、正常稼働する5月のダイヤ改正以降は、台北〜花蓮間が2時間45分から1時間44分に、台北〜台東間は5時間が3時間39分に縮まるという。

 台鉄は2008年までに振り子式列車計48両を導入し、東部を中心に高速化による輸送力の強化を推進する。

 経営的にも西部を縦断して客足を奪う高速鉄道に対抗し、東部で利用客の拡大とともに関係業界との連携で新たな市場開拓をすすめ、収益確保を図る方針だ。

 振り子式列車はカーブで速度を落とさず、車体を傾けて走るが、その分、車内では揺れを激しく感じる特性がある。

 このため、台鉄は乗り物酔いをしやすい人は在来特急を利用するよう呼びかけるが、東部は70年代の日本製客車が現役で走る鉄道ファンにはたまらないエリアでもある。

 台北駅では3月中旬からタロコ号開通を記念する駅弁の限定販売も始まった。     (台北 長谷川周人)
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【810】OBが京都市議になる!かも
 編集部  - 07/4/4(水) 16:27 -
  
4月8日投票の京都市議選にわがDRFCのOBが出馬していることが、このほど分かった。
彼のプロフィールに書かれていたことから当該選挙区在住の会員よりタレコミがあり分かったものである。
直ちに本人に質問状を送り確認中であるがOBであることが確認されればクローバー会への入会を勧めるつもりである。(清水三重子)
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【809】栗電訪ねて18きっぷ(その2)
 乙訓の老人  - 07/4/4(水) 11:21 -
  
昨夜は義妹一家と日が変わるまで宴となった。7時に起床して、白岡8時33分発宇都宮行(539Mレ)115系11連に乗る。久喜到着8時40分。接続の快速ラビット8時42分発黒磯行(3523Mレ)は115系7連、満員である。数年前に乗った時は165系10連であった。香具師の親分、子分の脇に立ち2人のやりとりを聞いていると面白い。寅さんまではいかないが、猫さんぐらいか。2人は宇都宮で下車、その跡に座れた。黒磯10時23分、準満員で到着。17年前、義弟、義妹、我が家の3家族で盆休みを3日間、那須高原で過ごそうとして来たことを思い出す。あの時は旦那に相談したら「間違っても定期急行には乗るな、臨急・津軽なら座れる可能性が高い。」と教えられた。上野へ発車1時間前に行き行列し、案内された急行はボロボロのオハ35、61の寄せ集め編成であった。嬉しかったのは牽引機がEF57であったこと、久しぶりに見て感激した。赤羽を出ると、傷痍軍人の装束で40半ばの男が2人現れ例の口上を一くさりの後、なんとアイスクリームの販売に及び唖然とした。1977年8月の話である。老人はこの時39歳であった。傷痍軍人は終戦の時、何歳だったのだろうか。
黒磯では跨線橋の傍に到着したので、4番ホームで待つ接続の福島行(133Mレ)へは先頭をきって行った。455系6連は既に後部3連の座席は埋まっていた。前部3連は半分ぐらいの着席率。老人は先頭へ向かった。カブリツキに立つためである。先頭車も準満員となる。発車間際に中年女性の一団が駆け込んできた。どうやら後部はデッキまで満員らしい。10時27分発車。薄汚れたED75の休車群の横を下り線に向かう。カブリツキに立ったのは昨日、掛川からの光景に刺激されたからである。
133Mレは高原を快調に走る。前方の展望は抜群である。その高原の真っ只中の久田野駅に入駅の時、40人位の家族連れらしい一団が眼に入った。彼らの前に停車したのは後部車であろう。黒磯でのこともあり、乗れないであろう。運転士は降りて後部に向かい戻ってこない。しばらくして戻ってきたが、まだ後部をみている。やっと合図があり発車となったが7分延となった。これまでの高速運転から、この遅れは回復しないだろうと思った。黒磯〜郡山間63.4km64分運転なのだから。単線、蒸気時代の急行並みでの運転なのだ。
郡山到着7分延。中年女性の一団は磐越西線「快速ばんだい」に乗り換えで下車したが、またしても超満員だろう。1時間後にも「ばんだい」はあるのだが、「急いで、急いで」と口々に言いながら跨線橋に駆け足であった。ここでアクシデント発生。若者グループの代表2人がホームの自販機をガチャガチャやりだした。交代運転士が信号確認やって車掌に合図を送った。扉が閉まると同時に一杯抱え込んだ2人が戻って来た。そして1ノッチが入った。「なんだよぅ、俺たちを置いてけぼりにするのか!」怒鳴っている。老人は乗務員室の仕切りガラスをノックして運転士に合図した。彼は後部確認で窓から首を出し気付き停止、車掌に信号を送り若者を救い上げた。
その後も7分遅れは取り戻せず、福島着は12時27分であった。駅前に出て軌道線が走っていた頃を偲ぶ。始めてきたのは1959年9月14日、上野から夜行で早朝着。夜明けまで待合室で追い寝だった。ラッシュ始まりとなり慌てて軌道線へ向かった。午前中は曇り空、午後は快晴だった。
腹がへった。駅構内食堂「磐梯茶屋」で鯖味噌煮定食と生中である。レシートに日本食堂と印字されている。1964年1月2日着の福島は旦那、須磨の大人、元ホテルの番人の3人と八重洲口から東北急行バスに乗り、郡山で別れて3度目であった。その時も一人で日本食堂の「すましの雑煮」で正月を祝った。朝ではなく昼食だった。
思い出の曽根田(飯坂西線車庫所在駅)へ向け歩き出した。カンカン照りである。生中2杯が効いてきた。それでも広軌719系5000代をワンショット(P104)。無人の曾根田駅から東北本線の交差点まで歩く。暑い!烏龍茶を自販機で購入して草ぼうぼうの築堤を駆け上がる東急中古車を撮る。限界である。中古車で福島に戻ることにした。中古車であっても冷房車は有り難かった(P105)。
福島駅に戻り駅前通りを東へ向け軌道線のルートを辿って歩くが、なんぼにも暑い。喫茶店は軒並み盆休みである。しかたなく「磐梯茶屋」に戻り、安宿名簿を繰り今夜の宿確保のため電話をした。
一ノ関駅前で4000円がOKとなった。そこで16時34分発(545Mレ)に乗ることにした。545Mレは715系4連(P106)、座席間隔がオロ40並みでゆっくりしているのが良い。若者(男)2人と相席となるが沈黙のコンビだ。それに引き換え後のボックスは競馬帰りの一団で、勝ち組と負け組が酒を酌み交わしながら本日の戦果を談じている。そのうち言い合いとなりボルテージは上る一方となる。名取到着で「ここだ、ここだ」と喚きながら下車、ワンカップ大関、缶ビールそれぞれ6本の残骸が転がっていた。
仙台で沈黙コンビが下車。変わって代々木ゼミの夏季講習帰りの娘3人が着席。話す内容が面白い。電車と関係ないからカット。鹿島台という始めて耳にする駅で下車。これよりワンボックス独り占めとなるが、老人は短足のため前シートに足首しか届かない。やっぱりオハ35か61の方が身にあっている。
石越19時12分着。発車するや「栗電」ホームの方を見る。知らない電車が1両停車中である。明日が楽しみだ。一ノ関終着19時35分。172,3kmを181分で走り抜けてきた。表定速度は時速57,12km、蒸気時代の急行列車並みである。宿は洋室でWCのみ。風呂へ行ったら、中学生をつれたおじさんと一緒になる。話すうち一ノ関工業高校卒業後は集団就職で東京へ、両親はバスで1時間以上かかる山中で暮らしている。最終バスに乗り遅れ、明日一番バスで帰郷するのだとか。風呂上りは3人で卓を囲み、10時まで話し込んだ。剣先(するめ)烏賊1杯を糸作りにしてもらったが、とてもうまかった。     2日目はこのような次第であった。それでも「栗電」の近くまで辿りついた。

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