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【1246】拙老からも一言 湯口 徹 08/4/3(木) 18:16

【1246】拙老からも一言
 湯口 徹  - 08/4/3(木) 18:16 -
  
何やら皆の衆、かつての「走井餅」か「鉛丹ペイント」の百家争鳴騒ぎの再現のようで、桜開花と共に急にはしゃぎだしたご様子。拙老も恐る恐るお仲間に・・・・

琵琶湖を埋め立てて敷設した馬場(のち膳所)−大津(のち浜大津)間は云わずと知れた、長浜からの琵琶湖水運連絡線で、1880年7月15日開業。1889年7月1日湖東線開業(東海道線全通)で貨物線に転落し、その後旅客運輸を再開したが、大津電車軌道がこの線を年間5,500円で借り3線化。架線を張って単線開業したのが1913年3月1日。自前で山側に1線を貼り付けた複線化は1920年7月19日。

伝教大師1100年大遠忌に駆け込み開業(1921年3月15日)した江若鉄道だが、大津市内用地取得が難航し、三井寺からやっと浜大津に伸びたのが1925年9月16日である。1921年2月9日東海道線山科経由新線開通で、新たに山手に(現在の)大津駅が開業した。

江若鉄道は当初から(新)大津駅との接続を前提とした免許であった。しかし大津−浜大津間は高低差+市街地で直接結べず、浜大津−大津4.546kmという迂回コース=種を明かせば浜大津−膳所−大津で、連絡は出来ても採算に乗るものではあるまい。

そこで江若は「安上がり」3線区間に乗り入れ膳所で東海道線と結ぶことを申請。当局は大津電車軌道だけで目一杯だからと、新たに湖面を埋めて新線を建設し、国鉄と江若の使用を提案。3線区間は大津電車の専用になる。

江若、大津電車とも渋々了承はしたが、工事費負担が江若20万2,000円、大津電車10万円(一部立体交差化)であった。江若は電車に対抗できるわけも、工事費に見合う収入が得られるはずもなく、結局この協議は成立せず。鉄道省は最初から江若の負担能力を超えることを承知で提案したのかもしれない。以後も江若は膳所−浜大津間の貨物運輸利権を終生欲しがり続け、国鉄は拒否反応を示し続けることになる。

敗戦後江若が米軍キャンプ関連輸送で大童の最中=1946年6月26日この貨物線での旅客膳所直通を申請。あわよくばこの機会に貨物も、と目論んだ可能性もあろう。免許はすんなりと1946年12月26日交付、翌年2月25日運行開始。といっても昼、夜の計2往復だけ。連帯運輸は大津から膳所に変わり、手小荷物受け渡しは便利に。乗客は最初は珍しがって多少は乗ったにしても、末期は各列車平均5〜3人程度で、1965年7月10日廃止。

その後江若が国鉄より早くDD13(国鉄とは構造相違)を購入したのも、将来膳所−浜大津間貨物運輸の譲渡ないし受託を目指したとされるが、国鉄は最後の最後まで手放さず、貨物線廃止は江若廃止の2日前。3線区間は目出度く京阪のものになった。

この3線区間は残存する石積で分かるように文字通り湖畔=水際を走っていたのだが、その後の埋立でかなり、現在では全く湖面から遠ざかってしまった。
引用なし
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