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昭和42年7月23日のことである。私と山川氏は同一学部、同一学科、同一専攻で同じ学問を勉強していた。彦根市内のお寺で、前日より2泊3日勉強会が開催されていた。気が付けば2人は勉強会を抜け出し、上り電車の乗客となっていた。私の目的は、近鉄養老線と名鉄岐阜市内線、山川氏は、名鉄「たかやま号」と国鉄キハ90の撮影であった。
大垣で近鉄養老線に乗換え、次の西大垣で下りた。普段見慣れている京都線、奈良線、大阪線とは全く毛色の異なる電車にビックリしながら検車区の事務所へ。来意を告げると助役氏が「毎年2人くらい写真を撮りにくる人がいる。今年はあんたらが初めてや」とのこと。丁度ラッシュ明けの車両交換の時間帯であったため、約1時間でいろんな種類の電車が撮影できた。それにしても、元伊勢電鉄、養老鉄道、吉野鉄道引継ぎ車がゴチャマゼに連結されているのには恐れ入った。
すっかり気を良くして次の目的地、岐阜に向かった。市内線の単車に装飾看板が付いており「のびゆく岐阜にふさわしく、7月24日から全電車を大型ボギー車に」とのこと。と言うことは、今日は単車の最終日、滑り込みセーフであった。40分程撮影後、新岐阜駅からパノラマ特急で金山橋へ。次々にやってくる電車を撮影、「たかやま号」も無事撮影することができた。新名古屋に戻り、近鉄に乗って2つ目の黄金駅で下車。山川氏の今回の最大の目的、キハ90撮影のために名古屋機関区へ。ところがあいにくキハ90の姿は無く、聞けば試運転に出ているとのこと。名古屋駅の到着時刻を教えていただき、急ぎUターン。その前に名古屋工場入場待ちの有田鉄道キハ250が機関区の外れに停められていたので撮影した。名古屋駅で試運転から戻ってきたキハ90を撮影し、彦根に戻った。夕食の時間には早いので近江鉄道の車庫を覘くと、東急から購入し、整備を終えたばかりのモハ201+サハ101+モハ202(元東急モハ3151+サハ3101+モハ3152)が停まっていた。ゴミ処理場に捨てられていた、サハ3101の木製の車内プレートは、今も山川家の家宝として大切に保管されている筈である。その日の夜と翌日は、多分しっかり勉強したと思う。
写真は上から
1.モ3
明治44年1月天野工場製で、美濃電気軌道開業時に12両作られた。美濃電気軌道時代の形式はD1形で、名岐鉄道を経て名鉄合併後モ1形となった。もとはオープンデッキで、扉は後付けのため外吊りとなっている。岐阜の人は、昭和42年まで、わざわざ明治村まで行かなくても明治の電車に乗れた訳である。
2.モ10
大正3年9月に12両増備された車両で車体は名古屋電車製作所製。2両が戦災で、復旧時にモ50形となったため、10両がモ10形(10〜19)となった。扉は最初から付いていた。
3.モ17
上記のモ10と同じグループで、装飾電車となっていた。
4.モ33
瀬戸線の前身、瀬戸電気鉄道(通称瀬戸電)の車両で大正9年名古屋電車製作所製。瀬戸電時代の形式、車号はテ1形No.28〜32で名鉄合併後モ30形30〜34となった。
5.モ554
岐阜市内線の伊奈波通〜長良北町間は急曲線の存在により、ボギー車の入線ができず、長らく明治、大正時代に作られた単車で運行されていたが、車両の老朽化、輸送力増強のため、昭和42年2月に廃止になった北陸鉄道金沢市内線の車両が導入されることになった。こちらは元々車体幅が狭かったため、問題なく入線が可能であった。単車と比べると格段に大きいものの、決して大型車ではない。
モ554は、昭和25年近畿車輛で作られたモハ2001〜2010のグループで、全車名鉄に転入し、一躍岐阜市内線本線の主力となった。北陸鉄道からの転入車については、別の機会に解説したい。
【モ3.jpg : 133.4KB】
【モ10.jpg : 118.1KB】
【モ17.jpg : 132.8KB】
【モ33.jpg : 136.9KB】
【モ554.jpg : 117.4KB】
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