|
【1277】で乙訓の長老が伊豆高原に行かれたことを書込みされたが、何年か前にサシ191の撮影に行った時のことを書いてみたい。
その前にサシ191について簡単に述べると、開業2年後の昭和38年東急車輛で作られた私鉄では珍しい全室食堂車で、当時サントリー社がビールの発売を記念して伊豆急行に寄贈したと言われ、サントリー社の飲料とつまみ、軽食類が販売されていた。国鉄から伊東線への乗り入れを拒否され、伊東〜伊豆急下田間のみの営業であったため、所要時間が短すぎ、飲食中に目的駅に着いてしまうことになり、利用者は少なかった。昭和47年頃食堂車としての営業は休止となり、伊豆稲取駅に疎開留置されたが、昭和49年6月サハ191に改造され、平成3年12月廃車となった。
この車の登場時より是非見たいと思っていたのであるが、機会に恵まれず、昭和48年5月にやっと実行に移すことができた。
この車の撮影だけでは勿体ないので、前夜京都を出発し、大垣夜行で東京へ、上野駅で東北本線の一番電車(当時は日光行)で、小山下車、両毛線の旧形国電、宇都宮で当時1編成だけ残っていた日光線の旧形国電を撮影。直ぐに東京に戻り、熱海から伊豆稲取へ。その後、沼津で御殿場線の旧形国電、三島で伊豆箱根鉄道を撮影後、新幹線で帰京した。
伊豆稲取駅で撮影後、駅事務所にお礼に行った時、助役氏から興味深い話をお聞きした。50歳前後の方であったが、以前草軽電鉄の北軽井沢駅に勤めておられたとのことで、草軽電鉄廃止の時、会社から勧められて移ったとのこと。こちらは息をつく間もないほど忙しいが、雪がないので助かる。動力者の免許保持者は東急に研修に行った。貨物列車の運転は元草軽の運転士が断然うまい。伊豆急は元草軽の社員で持っているようなもの等と40分位話し込んだ。あれから35年経っているが、今でも草軽電鉄出身の方はおられるだろうか。
長老が撮影されたハワイアンブルーの車は、開業時に作られた両運のモハ103で、伊豆高原電車区の入換用として残されたもので、イベント時には公開されているので、是非行って見たいと思っている。
話は変わりますが、デカンショまつり号さんのご自宅は松戸市でしょうか。この夏より207系の置換えが始まりますので、真面目に撮影しておこうと思っています。どこかでニアミスする可能性がありますね。
写真1.2.3 サシ191 昭和48年5月13日 伊豆稲取
写真4. クモハ73900 昭和48年5月13日 沼津(御殿場線)
昭和23年製のモハ63848改造のクモハ73174を、昭和31年大井工場で全金車体に改造した。東京地区で使用されていたが昭和44年4月明石電車区に転属し、京都〜西明石間緩行線で使用されたが、付属編成に組み込まれていたことが多く、偶数向きのため先頭に出る機会は殆どなかった。昭和46年12月沼津区に転属し、御殿場線で使用、昭和55年1月、115系と交替して廃車となった。
写真5. クモハ73902 昭和48年5月13日 沼津(御殿場線)
昭和28年製のモハ63形最終製作の63856を改番したモハ73400の事故復旧時に、昭和32年大井工場で全金車体に改造した。東京地区で使用されていたが昭和44年4月前述の73900と共に明石電車区に転属し、京都〜西明石間緩行線で使用されたが、やはり付属編成に組み込まれることが多く、偶数向きのため先頭に出る機会は殆どなかった。昭和47年3月沼津区に転属し、御殿場線で使用、昭和55年3月、115系と交替して廃車となった。
【191@.jpg : 119.2KB】
【191A.jpg : 126.3KB】
【191B.jpg : 91.4KB】
【73900.jpg : 121.0KB】
【73902.jpg : 105.2KB】
|
|
|