|
橋本・水無瀬の渡し舟から始まった、某ぼけかけおじんの考察、興味深く拝読しました。渡し舟の存在は知っていたものの、実際に乗船記を読んだのは初めてで、真の乗船目的も秘かに聞いてみたい気がします。また男山索道が計画していた、山崎と八幡、長尾を結ぶ鉄道計画、特派員の地元で荒唐無稽ともいえる鉄道敷設計画があったとは、鉄道の奥深さを垣間見ました。
さらに蛇足とはいえ、この橋本・水無瀬で、以前から気になる案件が2つあり、博識の老人・おじん連合ならではの情報を期待します。
◎橋本にもあった平面交差
京阪の平面交差は、大阪・京都市内のみと思われていますが、創業時代には、橋本にも存在したことを、以前のネット情報で知りました。なんでも橋本の南方にあった津田電線(現在も別のところで会社は存続中)の工場から、淀川畔への向かう専用線が、京阪の新設軌道を横断することになり、平面交差を設けたというものです。両者の軌間は、片や1435mm、片や600mm足らずと極めて珍しいクロスになったということです。
専用線は、工場からの製品を、淀川の水運を利用して運び出すための簡易なトロッコ様のものと想像されます。その後、京阪が自動閉塞信号を設置した際に保安面での問題から、平面交差は撤去されたといいますから、わずか5年しか存在しなかった、幻の平面交差といえます。前述のように、特派員は、ネット情報だけで、一次資料にも当たったことはなく、その存在の手掛りを求める次第です。
◎水無瀬に残る廃線跡
阪急でもJRでも、大阪へ向かう電車が、大山崎(山崎)を過ぎ、しばらくすると、小さな川を渡ります。これが水無瀬川で、かつて、淀川改良工事の土砂採取のためのトロッコ線が、川の左岸に敷設されていました。今でも、水無瀬川を渡るころ車窓から山手を見ると、地肌がむき出しになった土取り場の跡を見ることができます。淀川の河川改修のためのトロッコ線は、下流の枚方、寝屋川付近にもありましたが、この水無瀬川の線は、明治末期に敷設され、戦後は建設省淀川工事事務所が管理していました。昭和28年ごろまで蒸機が使用されており、昭和36年に廃止されています。その様子は「鉄道ファン」でも、高橋弘さんによって紹介されたことがあります。
水無瀬川の河口に廃線跡らしきものがあると聞きつけ、数年前に現地へ行ったことがあります。国道171号から淀川河川敷へ降り、水無瀬川に沿って、なおも河口へ向かって歩いて行くと、茫々とした川の河口に、コンクリートの塊が斜めに建っているのが見えてきます。どうやらこれが橋脚のようです。前後の河川の堤防はコンクリートで固められており、痕跡を認めることができませんでした。
昭和36年廃止といえば、おじん・老人連が現役のころ、記憶を絞り出して、ぜひ披瀝をお願いしたいところです。
「淀川を挟んで、それぞれが文化圏を形成し、交通機関が発達したのは、日本では唯一の例」(乙訓の老人著「京阪特急」50ページから引用)、これほどに淀川は、(男山索道のように)鉄道を拒否したかと思うと、前述のように、新たな鉄道敷設を生んだ川でもあるのです。
|
|
|