DRFC-BBS
※容量制限により削除された06年1月31日までの投稿写真を一部復活しました。詳細はこちら。
※新掲示板へ移行したため、この掲示板への投稿は受け付けておりません。

新掲示板アドレス(2008.08.03〜)
http://drfc-ob.com/wp/
左のフレームが表示されていない場合はトップページへ移動してください。

 投稿者絞り込み:   ページ移動:  
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃一覧表示 ┃検索 ┃設定 ┃ホーム  
55 / 102 ページ ←次ページ前ページ→

【739】地場、いきまっせ。 その6
 67'田淵 仁  - 07/1/18(木) 14:13 -
  
大和川を渡る鉄道めぐり (1)−2

2.阪堺電軌・阪堺線橋梁は、南海本線に平行し競合線として初代の阪堺電気軌道が、明治44年12月に恵比須町〜大小路(旧市ノ町)間の開業時に供用された複線橋である。橋桁に「明治44年 横河橋梁製作所大阪」の銘版がある。昨年に塗り替えられ(紅殻色系)輝きを放っている。「住吉鳥居前」の次ぎの「細井川」から車庫のある「我孫子道」、南側の「大和川」そして堺市街の「綾ノ町」までは専用軌道である。橋の下流側の堤防脇に国土交通省の小さな石柱があり、「河口から4.0Km やまとかわ」の表示がある。臨海工業用地で埋め立てられたので、完成当時の海岸線はもっと近くて1Km以内ではなかったかと思われる。下流の南海本線橋とは300m位で橋長はともに200m位である。
 3.南海電鉄・高野線橋梁は、大阪から高野山をめざした高野鉄道が、明治33年8月に汐見橋(当初、道頓堀)〜堺東(当初、大小路)間の開業時に単線供用された。その後高野鉄道は明治40年11月に高野登山鉄道に合併され、その後大正4年に大阪高野鉄道と商号を変更、さらに大正11年9月に南海に合併され、高野線となる。大正14年6月には複線化され、張付け線増されている。
南海本線(初代)、高野線、阪堺軌道線の各橋梁に共通するのは、すべて明治期の建設で、橋脚は鉄管製で、橋桁も重厚なリベット仕上げが特徴である。
阪堺線は当初より複線仕様であり、現在も架線鉄柱を除いて建設当時そのままと云われている。初代の南海本線橋梁は写真で確認できるが、ほぼ高野線橋梁と同系であるようだ。ともに単線橋梁で完成したが、どちらも張り付け線増で複線化されている。その様子は高野線橋梁でうかがえ、単線時は2本の鉄管橋脚に橋桁が架かかり、線増は並んで上流側に1本の鉄管橋脚を増設し、線増の橋桁を載せる梁を新旧橋脚上部でリベット接合してある。旧橋の梁より大きく、また橋脚の足元に巻かれている水流保護のためにコンクリートは旧脚より大きい造りとなっている。
 4.JR西日本・阪和線橋梁は、阪和電鉄が昭和4年7月に天王寺〜和泉府中間の開業で供用された複線橋梁である。橋脚は重力式のコンクリート製で華奢に見える1.〜3.と異なりまさに重量感あふれている。また先の阪和線美章園で紹介したと同じようにこの橋梁部の架線鉄柱はガントリータイプであり、丸ごと阪和時代の状況と思われる。ちなみに阪和線最大橋梁の和歌山の紀ノ川橋梁は現在すぐ上流側でトラス橋が建設中で、JR西日本の儲けぶりが感じられる。3月には完成であろう。橋梁の南端には浅香駅のプラットホームがあり昔から終日編成写真が撮れることで有名の地点である。ただ東側に大きなマンションが建っており、午前中の東側は影となるようだ。また駅ホームの西外側の河川堤防からも格好の撮影場所である。大和川はここより西北に流れを変えているが川面でさえぎりがないので1Km先に高野線橋梁が見遣れる。
写真(4)南海高野線橋梁 明治期の鉄管橋脚がみてとれる。
写真(5)同 左側が貼り付け線増部
写真(6)JR阪和線橋梁 阪和時代そのもの

添付画像
【地場4.jpg : 219.1KB】

添付画像
【地場5.jpg : 165.3KB】

添付画像
【地場6.jpg : 212.7KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 地場4.jpg
・サイズ : 219.1KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 地場5.jpg
・サイズ : 165.3KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 地場6.jpg
・サイズ : 212.7KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv:1.4) Gecko/20030624 Netscap...@152.64.113.221.ap.yournet.ne.jp>

【738】地場、いきまっせ。 その5
 67'田淵 仁  - 07/1/18(木) 14:12 -
  
大和川を渡る鉄道めぐり (1)−1

今回から趣向を変えて、この大和川に架かっている鉄道橋の全ての探訪を試みた。
大和川は、その名の通り、大和の国の中心、奈良盆地の水を集め、その南西部の生駒山地と葛城金剛山地の境目から大阪平野に抜けて大阪湾にそそぐ、約70Kmの一級河川である。大阪と堺の境界でもあり、奈良へも近いため、大阪の都心から南や東方向に伸びる鉄道線のほとんどが大和川を渡っている。
1.南海電鉄本線 2.阪堺電軌阪堺線 3.南海電鉄高野線 4.JR西日本阪和線
 最も大阪湾に近い、つまり最下流に架かっている鉄道橋は、1.南海の南海本線大和川橋梁で、この上流約1Kmの間に2.阪堺電軌・阪堺線、3.南海高野線の各大和川橋梁と、三つの南海系鉄橋がほぼ東西に一直線に並んでいる。この海辺あたりは昔からの大阪〜堺間のメイン通路であり、中間部の市街化も早かったこともあり、1Km強の区間に道路橋4、鉄道橋3の計7橋が集中している。また高野線橋から大和川は上流に向けて南西にU字形を描いているが、ほぼ1Km先に4.JR西日本・阪和線橋梁がある。この4鉄橋の地区は大和川鉄橋の1番目のハイライトである。徒歩でなら河川敷を行けるので、4路線を撮れる都合のよいコースである。
 1.南海電鉄・本線橋梁は、大和川に架かる鉄橋の中で一番古く架けられた橋で、日本で最古の私鉄、南海の前身阪堺鉄道が明治18年12月に難波〜大和川(大和川北岸)間の開業に引き続いて、明治21年5月大和川〜堺(吾妻橋)間開業時に供用開始となっている。しかし昭和52年4月に大和川北岸以北の高架化に伴い橋梁のレベルが高くなるため、当初の橋梁の両外側に単線並列の新橋が複々線の外側線の高架化と同時に完成(複々線はこの大和川橋梁以南は複線となる)し、2代目となっている。
南海本線は当初、釜石鉱山の廃線施設を再用したため、軌間888mmの蒸気鉄道で発足したが、明治30年12月に1067mmに改軌、同時に住吉〜堺間が複線化されている。鉄橋も複線化されたが、張付け線増である。明治31年10月に南海鉄道となり、明治40年8月に電化された。現在の橋梁の大きな景観の特徴として、昭和50年の阪神高速道路15号堺線の開業に伴い、コンクリート製の高速道路橋がこの橋梁の直上を西北側から南東側に45度の角度でX字上にオーバーパスしている。高速の下り車線でこの橋にかかると右手(東側)に直下の南海本線橋を始め高野線橋までの5橋が一目で見渡せ、壮観である。運転には注意を!!
写真(1)南海電鉄・本線 大和川橋梁 ワーレントラスそして騒音低減のためか下路プレートガーダの腹板部が深くなっている
写真(2)阪堺電軌・阪堺線 大和川橋梁
写真(3)同 冬空のなか、生駒山脈を背景に

添付画像
【地場01.jpg : 223.9KB】

添付画像
【地場2.jpg : 132.6KB】

添付画像
【地場3.jpg : 159.3KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 地場01.jpg
・サイズ : 223.9KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 地場2.jpg
・サイズ : 132.6KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 地場3.jpg
・サイズ : 159.3KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv:1.4) Gecko/20030624 Netscap...@152.64.113.221.ap.yournet.ne.jp>

【737】変なもの探検隊その12
 乙訓の老人  - 07/1/17(水) 10:40 -
  
まとめて責務を果たすことにしよう。
【728】先ず荷電だが、高松電軌(1067mmゲージ・現長尾線)のもので、琴電合併後に標準軌へ改軌された。戦後の混乱期には人を乗せたと伝えられている。2枚目は1000形。3000形とは台車が異なる。3枚目は志度線の50形。ガソリンカー並みの簡易連結器があり、戦前は栗林公園以東の鉄道線で簡易総括制御器(機構は忘れた)による重連運転をやった。戦後は志度線、長尾線でラッシュ時には重連となった。
【729】に移り、最初の2枚は5000形。貫通扉が車掌台の方への片引き。このため運転手は扉開放で運転、かぶりつきの探検隊にはとても涼しかった。
次の2枚は1000形重連と1000形+2000形。大人撮影半年後の姿を御目に掛ける。先頭がクハ2000形、買収国電の成れの果て。台車は改軌されている。クローバ会写真展では長尾線74号の溢れている高校生が紹介されたが、琴平線の方もこの有様。(P34、35)義兄に聞いた1963年頃の話だが、着膨れで4連では収まらなくなり仏生山からの増結を1両増やし5連としたところ、太田だったか三条で押し込まれた学生がポロリと反対側の扉から落ちた事が報道され、当局から大目玉を喰らい慌ててドアーエンジン工事に着手したという。幸い両駅は単線区間の片側ホームで、落下者が若者だけに事なきを得たとか。
次の6枚、上段はステップレスとした時のままの未改造車、当局の指導により鉄道線では扉を設けなさいとなり、6両が簡易鋼体化と共に改造された。この時、改番があったが、4,5は改造なしで旧番号のまま今橋車庫の裏に放置されていた。
下段、鋼体のみの2両。帝国車両に発注するも金がなく、電装品は勿論、台車その他が調達不能となり、帝車で雨ざらしとなっていた由。1955年夏の訪問の時はなく、1956年は行けずで、大人訪問の1957年3月迄の間に運び込まれたようである。その後、1958年から艤装に着手、台車はTR11を今橋車庫で改軌、電装品は国電の中古品(CS4とMT7やったと思う)、MG(新品)等かき集め仏生山工場で車体内装工事と共に仕上げた。1960年春訪問の時は夏には走ると聞かされた。客用扉間5窓分は対向クロスシートで、「こんぴら2号」と名付けられた。竣工届を当局に提出したら、片原町上手のカーブ(堀端へ向かう方向)でこの車同士がすれちがうと、規則より10mm限界よりはみ出すと当局お達しがあり、運転まかりならぬとされた。カーブでの線路移動工事は巨額の費用と日時を要するので、窓に保護棒を付けることで「堪忍してください」となり、とりあえず1960年10月の金毘羅大祭に間に合わせた。2両1編成しかないのに、当局は意地の悪いことをしたものだ。1961年春、「こんぴら2号」を追い掛ける筈が果たせず、改造後しか写真を撮っていない。幸い鶴君がキャッチしているのでお目に掛ける。(P36)
さて、大人から次は何が出てくるか、楽しみにしている。

添付画像
【変34.JPG : 92.4KB】

添付画像
【変35.JPG : 122.3KB】

添付画像
【変36.JPG : 96.4KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 変34.JPG
・サイズ : 92.4KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 変35.JPG
・サイズ : 122.3KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 変36.JPG
・サイズ : 96.4KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv:1.4) Gecko/20030624 Netscap...@112.64.113.221.ap.yournet.ne.jp>

【736】変なもの探検隊その11
 乙訓の老人  - 07/1/17(水) 10:34 -
  
須磨の大人よりまたしてもあいくちを突きつけられた。しかも老人の領域で元新兵以下に引き摺られてか、詳細不明なるが寸暇を惜しんで酒を食らっていたとは!
最初に一つ、長尾線は当時600Vであった。瓦町〜高松築港間は異電圧単線並列であった。600V区間は志度線、長尾線共用だが、ラッシュ時は志度線が優先で、長尾線はほとんどが瓦町折り返しであった。現在は逆転で、志度線はぶち切られてしまった。
半世紀前のこととなるとあやふやな覚えしかないかも。
先ず大型単車。志度線の前身、四国水力の1形がプロトタイプ。台車は富岩鉄道デ10と異なるブリルのラジアル台車であった。過去形としたのは、この時はラジアル機構を殺していた。戦後も残っていたものは簡易鋼体化の車体更新を行い、志度線と長尾線で走らせていた。鶴君が1961年3月に行った時は1,2号の2両が、長尾線で平木折り返しやトレィラーで走っていた筈。ステップレスとしたのは、高松市内線が戦災で全滅したため、鉄道線型とした。他の車両は大人の説明通りだが、元山陽は簡易鋼体化された後の姿。
さて、探検隊は1954(昭和29)年、洛北高校1年の夏休みには2度目の一人旅の地を四国とした。姉が善通寺で所帯をもったからである。高松琴平電鉄での探検目標は事前に立てていた。それはTMS38号で紹介された、電車に化けたワフ25000に乗ること。
8月初旬のある日、京都21時発四国連絡宇野行きオハ35で出発、高松着は5時過ぎ。関西汽船や加藤汽船の到着風景を横目に高松築港駅に向かう。駅は仮駅で現駅より南寄り、今もある踏み切りの北側に2両連結用の木造ホームが2本。ややあって鋼製の琴平行きと木造の志度行きがやってきた。単線並列となっており、駅員に尋ねたら電圧が違うとのこと。学割の切符は高知行きとなっている。徹夜で汽車の旅を楽しんだこともあり、睡魔が襲ってきたので善通寺へ向かうことにした。
翌日、琴参電車で先ず琴平神社へ。そして昨日仕入れた情報に従い瓦町駅へ。居るぞ目的のワフ改造の電車(P31)が。そして明治の電車の残骸(P32)が。出入りする電車も素晴らしい。それよりワフは動けそうにない。こいつは問題だ、仏生山車庫へ行くことにした。
車庫を訪ねたら、向井哲一郎工場長が応対してくださった。前(1953)年、買収国電である元宮城電鉄300形3両を購入し、制御車2000形としたのでワフを廃車にしたとのこと。ワフは11000形となり、瓦町に1130,1140号、残る1110、1120、1150、1160号が仏生山に役目を終え安置(P33)されていた。その中で1120号の車内に入れさせてもらったが、車掌室が運転台となり貨物室には木のベンチが客用扉を中心に4列、裸電球のソケットが4個ぶら下がっていた。多客時には1000,3000形の前後につなげて運転したとのこと。この当時の最大運転速度は時速65km。沿線のカーブに差し掛かると、ワフ50の速度制限表が立てられていた。向井工場長とは、その後6年間もお付き合いが出来た。

添付画像
【変31.JPG : 105.7KB】

添付画像
【変32.JPG : 104.5KB】

添付画像
【変33.JPG : 63.8KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 変31.JPG
・サイズ : 105.7KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 変32.JPG
・サイズ : 104.5KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 変33.JPG
・サイズ : 63.8KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv:1.4) Gecko/20030624 Netscap...@112.64.113.221.ap.yournet.ne.jp>

【735】あるブログより
 田野城 喬  - 07/1/15(月) 15:43 -
  
とあるブログにおもしろい地下鉄ネタが有りましたので掲載します。
原因が分かる方は書き込みをお願いします。

>久しぶりに地下鉄ネタを。本日も利用路線は乗り入れている別鉄道のトラブルとかで、30分以上の遅れでした。

朝の通勤時間帯、通常でも本来の所要時間で着くことはまずなく、15−20分は余分にかかるのですが、最近は怒るのも馬鹿らしくなり、なすがまま状態です。

ま、駅員に声を荒げてみたところでどうなるわけでもなく、無駄に労力を消耗するだけですから。でも、なんだかなあ・・・という気持ちは相変わらずです。

前がつかえているからと、停滞するのはまだ理解できるんですが(これも本当のところは、つかえの原因が除去されてもつかえ続けるのは車の渋滞と同じだとわかっていても、あまり納得できない)、最近、しばしば遭遇するのは、遅れている電車を待つというパターンです。

「後続電車が遅れているので、当駅で〜分間停車します」って、なんでやねん! ダイヤがますます乱れるだけやないか、と思うんですけど、僕だけでしょうか。

あと、「停止信号です」とかいって、ホームに入って本来の停止位置の数メートル手前で止まるのもよくわかりません。コンピューター制御によるものなんでしょうけど、目の前に先行電車がいるわけもなく、それならすんなり、数メートル進んで止まればいいのにと思うんですけど。

人の数が違うと言ってしまえばそれまででしょうが、大阪時代には地下鉄(東京ほどではないにしろかなり混んでます)でこうした経験をしたことがないので、ついつい比較してしまいます。
引用なし
パスワード
・ツリー全体表示
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv:1.4) Gecko/20030624 Netscap...@85.64.113.221.ap.yournet.ne.jp>

【734】半世紀前の高松琴平電鉄 その4
 某ぼけかけ老人  - 07/1/13(土) 12:27 -
  
【726】で「半ぼけ老人」とお呼びになった御仁がおられる。老人は「ぼけかけ」であるのは間違いないが、まだ「半ぼけ」までは到っていないと自覚しておったから、無闇やたらと落ち込んで、昼間から酒を飲まにゃならん仕儀に立ち到った。誰だ、それ自体が「半ぼけ」の証拠だと抜かした奴は。

とはいえ撮影日や場所を記さなかったのは、確かに「ぼけかけ」には違いないと、早速自省したのが余人と根本的に違う謙虚なところである。かくして老人は淋しく老い込み、呆けて、余命幾許もなくなっていくのであろうから、あわてて追記をする。

撮影は全て1952年3月9日。一筆書きの連続乗車券で岐阜、名古屋、関西線、奈良線で一旦京都に戻り、栄養を補給し、京都発21時00分、247レで宇野着3時13分、4時05分の連絡線で高松着5時20分であったと記憶する。

夜が明けるのを高松駅で待って瓦町へ。その1【726】でご覧いただいた単車の1はまだ現役である。55、84、21、71が瓦町の留置線での撮影。

3は今橋車庫で撮影。といっても、このあたりは線路や始発駅の変更等で全く姿を変えているから、どなたか新旧の路線図でも描いてくださらんか。大体が電車にあんまり興味を持たぬボケかけ老人には難儀じゃて。

その2【728】の31荷電も今橋車庫で。半鋼ボギー電車は当然仏生山。Yゲルの堀端52は瓦町−片原町間。

その3【729】の510は仏生山。21+71は瓦町−片原町。オープンデッキの残る5、4は今橋車庫。手当たり次第にスキャンしたため、こんなめちゃめちゃ配列になった。これもボケの表れか。悲しいのう。

仏生山での電車右側にチラリと写っているのは、高琴名物の2軸クハである。之を見せないとは、との非難の声が巷にあふれると老人は困惑し、余計寿命を縮めるから、改めて添付しておく。

誰が見たって国鉄のワフ23000だが、高松琴平は1435mm軌間である。国鉄非動力車両はかつての広軌論争以来、原則長軸を採用している。これは軸箱守を支える縦梁間隔が広く、車輪と車軸が接する部分(ホイールフイット)を外側にずらせば簡単に1435mm化するのである。

貨車を代用客車として使うのはそう珍しいことではなく、大量の軍隊輸送は有蓋車が当たり前だったし、敗戦直後は無蓋車も動員された。私鉄で有蓋貨車を客車化したのは熊延鉄道が有名だが、高松琴平ではクハにした。1両は足回りをブリル台車に交換している。

せっかく写真が3コマ添付できるので、まとめてと予定していた戦前・先輩の写真を2枚もお目にかける。撮影は小生よりさらに17年早い1940年4月11日、撮影者は若林美雄氏。場所は高松桟橋で、画面左に国鉄客車が覗いている。

この路面電車がステップを切り取り、高床化して(その1、2)でご覧いただいた52や55の姿になったんじゃぞ。写真はほかにもあるから、次回をお待ちあれ。

乙訓老人よ! いつまでも黙っとると、おまはんもボケてまいまっせ!

添付画像
【高松琴平クハ1110.jpg : 138.9KB】

添付画像
【高松琴平クハ1130.jpg : 113.5KB】

添付画像
【四国水力電気.jpg : 150.4KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 高松琴平クハ1110.jpg
・サイズ : 138.9KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 高松琴平クハ1130.jpg
・サイズ : 113.5KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 四国水力電気.jpg
・サイズ : 150.4KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.0.3705; .NE...@gl07-068.gl07.cilas.net>

【733】半ぼけ老人に告ぐ
 準ぼけ老人  - 07/1/12(金) 11:26 -
  
なんだか古い電車ばかりが出てくるが知識のない者にはさっぱり分からん。
そこでお手数じゃが写真に車番(型式でも可)と撮影日(記憶混濁なら大体で)をお書きいただけまいか。
さすれば我輩も当時の若かりし頃の自分とダブらせて懐かしがろうものを。
ゲホッゲホッ(と煎餅布団に再び臥せる)
引用なし
パスワード
・ツリー全体表示
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv:1.4) Gecko/20030624 Netscap...@227.64.113.221.ap.yournet.ne.jp>

【732】Re:半世紀前の高松琴平電鉄 その3
 弘津 興太郎  - 07/1/11(木) 23:23 -
  
琴電1011+1012(形式10010)は
車体が昭和30年、就行が昭和35年という世にも珍奇な運命の
車両です。
私が昭和58年に高松の鈴木君の家に遊びにいった折は
正面は当初の湘南2枚窓で無く貫通式のHL車でした。
その後昭和63年春の休刊日に松山の竹葉君を訪ねた帰りの
再訪時にはSミンデンを履き高性能車に昇格、その割には
冷改されず2年前に姿を消した、ある意味試験車両としては
長命だった不思議な電車です。
最初の多段式制御機については往時の電気車の科学を持って
いるので時間があったら調べてみます。
引用なし
パスワード
・ツリー全体表示
<Mozilla/4.7 [ja] (Macintosh; I; PPC)@softbank221075078154.bbtec.net>

【731】京成電鉄「開運号」34年ぶり復活!
 総本家・青信号編集部  - 07/1/11(木) 15:40 -
  
 京成電鉄は28日、人気列車「特急開運号」を34年ぶりに復活運転する。現在、一般車両として使われている3200形電車が来春引退するのに伴い、ファンらに“最後の晴れ姿”を見てもらおうと企画された。

 使用される車両は、同社に唯一現存する「開運号」として使われた3200形4両編成。昭和42年に1600形開運号の後継車両として新造され、48年に「スカイライナーAE形」が登場するまで活躍した。その後、トイレを撤去しシート配置を変更するなどして一般車両となったが、「片開き式1枚扉」の姿は今も健在だ。

 当日は、クリームとオレンジのツートンカラーにグレーの帯を巻いた当時のままの塗装に戻され、保管されていたヘッドマークを先頭車両に付けて京成上野〜京成成田駅間を1往復する。

 運転は午前10時19分京成上野発、同11時37分京成成田駅着。復路は同駅午後1時23分発、京成上野着は3時22分の予定。専用乗車券の申し込みは終了している。

 開運号は、昭和27年に登場。同駅間を1日3往復し、翌年に新造された2代目の1600形電車は、斬新(ざんしん)なデザインなどで成田山新勝寺への参拝客らの人気を集めた。

 同社は「当時を知る市民には懐かしさを感じてもらい、開運号を知らない人にも見てほしい」としている。
(産経新聞より転載)
引用なし
パスワード
・ツリー全体表示
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv:1.4) Gecko/20030624 Netscap...@219.64.113.221.ap.yournet.ne.jp>

【730】変なもの探検隊(その10)
 乙訓の老人  - 07/1/11(木) 14:56 -
  
新年おめでとうございます。須磨の大人と共によろしくお付き合いのほどを・・・・・
昨年8月23日のこと、探検隊18名は堺市の埋立地にタクシーで向かった。噂の変なもの見学申請をしたところ平日ならOKとなり、東京、名古屋、広島、関西支部から仕事をさぼれた輩が集まったのであった。この埋立地には数年前にもバス1台で行っているが、その時にはなかった量販店その他が進出した一画があり驚いた。
さて、M物産の派遣員駐在事務所といってもプレハブだが、ここで説明をうける。そんなことより早く見せて欲しいのだが、猛暑でありみんな大人しくパンフを前に講義を受ける。なんでも「トランスロール」と名付けられているとか。腹のなかでは「そんなこと知ってるわい、はよ見せんかい!」。
汗が引いたところで案内を受ける。20cm高のホームで待つことしばし、テント張りの小屋の扉が開き変なものが現れた。パンタは下げたまま。「電力回生制動で充電しています。これで架線のないところでも走れます。」と派遣員は胸をはる。そんなことより90パーミルの勾配でも再起動出来ると言うのでテストをしてもらおうと思っていたが、テスト走行路は勾配を30mばかり上りきったところでプッツンである。150mばかりの直線路を走るのに乗せてもらう。加速は良いが、乗り心地はトロバスそのものである。次はカーブ走行となる。やっぱりトロバスである。走行路建設費をけちった結果、バウンドがすごい! ダンプカーと共用する日本の道路では、乗りごごちはえげつないものとなるであろう。車体の側板は薄いようだ。ダンプに直撃くらったら、分解するかペシャンコになるであろう。乗り場に戻って足回りを見せろと要求した結果、スカートをはねあげてくれた。モノレールに中央フレンジ車輪が食い込んでいるのがよく分かる。
噂では堺市が計画しているLRT建設に、この変なものを導入するのではないかと言われている。これでは阪堺線とつながらない。3年前に堺市のえらいさんから聞いた話と食い違うことになる。ところで、ひとわたり見学させてもらった後、事務所へ戻って質問した。
「在来鉄道と走行路を、互いにポイントなしなら共有出来るかもしれないが、あると無理があると思われる。このあたり、どの様にお考えかな?」
「じつは、それも考慮のうちの一つでして、このような交差部の模型を作りました。」
と差し出されたのは、50kgレール端切れの中央部に70mmばかりの隙間をあけ、その中にガイドレールを仕込んだものであった。わが事さえよけりゃ良いとゆうもんじゃないよ。
これで大小路の交差点で阪堺線を渡ろうと思っているなら浅はかなもんだ。変なものは変なおじさんが売り込みを図っている事がよく分かった。
琴電については、後ほど薀蓄を披露することにしよう。

添付画像
【変28.JPG : 48.8KB】

添付画像
【変29.JPG : 34.7KB】

添付画像
【変30.JPG : 52.5KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 変28.JPG
・サイズ : 48.8KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 変29.JPG
・サイズ : 34.7KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 変30.JPG
・サイズ : 52.5KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv:1.4) Gecko/20030624 Netscap...@219.64.113.221.ap.yournet.ne.jp>

【729】半世紀前の高松琴平電鉄 その3
 某ぼけかけ老人  - 07/1/11(木) 10:51 -
  
諸兄正月からお忙しいと見え、どなたもボケかけ老人にはかっまて下さらぬ。そりゃこっちはヒマですよ。待ってられないので押し付け投稿その3に進む。

2軸単車は先回デッキ改造後ばかりだったので、今回はオープンデッキが残る2枚をご覧いただく。50年前の手札プリントを6枚並べて一挙にスキャン。画面をクリックすると拡大する。

鋼体のみの2両は、確か(記憶が薄れたというより、電車なんぞどうでもよかったから気にもしていなかった)帝国車両だったかで製造。

キャンセルされかけた?かで、メーカーがあわてて仏生山に搬入したと聞いたような気がするが、確信はない。修正や補足は乙訓老人の責務である。

この鋼体も、確か何年かこのまま放置され(法的所有権等に問題があったのか?)、最終電車にはなった。

しかし幅員が複線様区間での線路中心間隔と抵触し、線路を若干修正し(修正したことにして?)やっと動き出したような話があった(ように記憶する=これも不確実)。

次回(また延々と続くの?とボヤく勿れ。ヨメさんと親と先輩は大事になされよ。諸兄とて立派なボケかけ予備軍なるぞ)は先輩が戦前に撮影した写真をご覧いただく所存である。

添付画像
【高松琴平5.jpg : 166.0KB】

添付画像
【高松琴平6.jpg : 154.2KB】

添付画像
【高松琴平1束.jpg : 291.4KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 高松琴平5.jpg
・サイズ : 166.0KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 高松琴平6.jpg
・サイズ : 154.2KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 高松琴平1束.jpg
・サイズ : 291.4KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.0.3705; .NE...@gl07-068.gl07.cilas.net>

【728】半世紀前の高松琴平電鉄 その2
 某ぼけかけ老人  - 07/1/8(月) 14:53 -
  
乙訓老人の腰がなかなか上がらんのは、職場しかパソコンがないためか。待ちくたびれて「その2」に進む。解説はまとめてくださって結構。

堀端は一見複線のようだが、電圧が違う単線が2本平行していたのである。

それにしても、連絡船がなくなった高松・高松桟橋一帯は、昔の面影などかけらもない。

かなり引っ込んだ新しい高松駅は、失礼だがえらく立派なパチンコ屋かと見間違えた。これもボケでありますな。

添付画像
【荷電.jpg : 80.2KB】

添付画像
【高松琴平4.jpg : 87.2KB】

添付画像
【志度線.jpg : 123.3KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 荷電.jpg
・サイズ : 80.2KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 高松琴平4.jpg
・サイズ : 87.2KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 志度線.jpg
・サイズ : 123.3KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.0.3705; .NE...@gl07-068.gl07.cilas.net>

【727】RailFan 3
 64'田野城喬  - 07/1/4(木) 20:53 -
  
今週の話題は、今月間もなく営業運転を始める台湾新幹線の話題です。
これ以上転載すると会員の産経社員からクレームがつくといけませんので次回以降は本紙を買ってご覧下さい。

添付画像
【File0001.jpg : 338.4KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : File0001.jpg
・サイズ : 338.4KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv:1.4) Gecko/20030624 Netscap...@p4078-ipbfp404kyoto.kyoto.ocn.ne.jp>

【726】半世紀前の高松琴平電鉄 その1
 某ぼけかけ老人  - 07/1/3(水) 21:31 -
  
旧ろう10日、吉田耕司氏のご発案にすぐ応じたヒマ人計5名は、当日から有効の青春18切符で四国は高松琴平電鉄へ。

周りが老人ばかりだと、己の歳を忘れてボヤキながら皆の衆は四国へ琴平へ。この連中はこんぴらさんなど眼中になく、一気に讃岐そば屋へ。それから1日乗車券で全線を走破した。その合間に寸暇を惜しんで酒を食らっている嘆かわしい老人予備軍も約1名。

ボケかけ老人はハッと想い出すことがあった。50年前老人がまだ若いころ、確か一度写真を撮ってるはずだ!と。探してみると果たしてあった。まだボケ加減は大した事ないと喜んだが、古いことだけ覚えているもんだとの憎まれ口も。

こっちは元来電車なんぞどうでもいいんだが、たまたま同志社へ入学が確定した1957年3月、山陽九州への行きがけの駄賃で立ち寄ったと記憶するが、当時確か志度線のみ600V、琴平線、長尾線は1500Vだったか。

大型単車は1型で、元来オープンデッキだが外釣扉に改造されているものもある。50型はオリジナルの戸袋窓が楕円。20/60/70型は京浜急行が供出した車両で、特に20型は5枚窓妻・側面窓上明かり窓がクラシックである。80型は山陽のお古。

しかし詳しい解説は当然乙訓のご老人の役目である。直ちに義務を果たされたい。

添付画像
【高松琴平1.jpg : 136.3KB】

添付画像
【高松琴平2.jpg : 134.2KB】

添付画像
【高松琴平3.jpg : 144.5KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 高松琴平1.jpg
・サイズ : 136.3KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 高松琴平2.jpg
・サイズ : 134.2KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 高松琴平3.jpg
・サイズ : 144.5KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.0.3705; .NE...@gl11-065.gl11.cilas.net>

【725】おじん2人ヨーロッパ軽便 その12-5
 湯口 徹  - 07/1/1(月) 14:43 -
  
YBBSTALBAHN その5

発駅ヴァルドホーフェンが町から外れていることは先回記したが、ここに軽便線の車両基地がある。それも標準軌間線駅前広場―本屋の前の左右に軽便線の発駅と基地が展開しており、列車が発着する度に軽便車両や列車が駅前広場を行き来するのは、以前[490-昨年2月7日]に記した旧東ドイツのツイッタウと似ている。

まさしくのどかな風景で、貨物があった頃ならともかく、クールに見れば採算の取れる線区ではありえまい。観光といっても広く海外からの客ガ集まるとも思えず、我国からの観光ツアーなどあるはずもない。

それでも立派に運行を続け、折々には保存蒸機・旧型客車列車も運行されている。

われわれ野次喜多2人はこの軽便線に充分満足し、明日からはスイスに転進すべく、大きなバックパックを預けているザンクド・ぺルテンの安宿に立ち寄り、オーストリーの首都ウイーンへ。西駅前は何やらやたらと工事中だった。

ここから21時25分発、バーゼル行き夜行列車466レ=ウインナー・ワルツァー号に乗車。

寝台車は2人部屋で、ン10年か前、琵琶湖畔のヘルスセンターと化した紅葉パラダイスが、客寄せにドイツの蒸気機関車と寝台車を10両ばかり、簡単な高架に載せホテルにし、用もないのに3人で泊まった(夕食は大広間、ショウは青江三奈だった)ことがある。

寝台車片側に共用(無料)シャワー室があったので、終日稼ぎまわって汗だらけとあって早速初体験に挑戦。椅子に座って湯を浴びるのが珍しかったが、老人、あるいはもしかの振動でのひっくり返り=脳天打撃防止か。

湯の出が恐ろしくケチで、体中に塗りたくった石鹸を落とすのに往生し、折角流した汗も車内冷房の効きが悪く、又噴出した。

夜中に国境を越えるため、パスポートは客室乗務員(1両に1人乗務)に渡し、翌朝受け取る。相棒は若干のチップを渡しビデオの電池充電も頼んでいた。翌朝は勿論有料だが朝食が盆に載せ供される。

ところで[667-10月25日]、[670-10月31日]、[699-11月24日]で繰り返した、軽便線で標準軌間貨車を運行するシステムにつき、まだ良く分からんとおっしゃる御仁が居られるので、これが最後の講釈を。

内側が1435mmになっている枠桁に軽便線の小車輪を仕込み、一段低いピットを作った場所で標準軌間貨車を受け渡しするのである。枠桁にのせた貨車が動かぬよう、その固定にはいろいろ工夫がこらされている。

枠桁同士や動力車両とは長い棒で連結し、エアあるいは真空制動機のホースも伸ばしてつながれる。

これは我国と違い、軽便線のプラットホームがあたかも路面電車の安全地帯のように低く、構築物などがぶつからないように作ってあるからこそ。さらには我国の鉄道法規なら、当然建築定規(国鉄なら建築限界)突破として、当局は認めようともしない筈である。

添付画像
【軽便線駅.jpg : 106.7KB】

添付画像
【車両基地(2).jpg : 132.2KB】

添付画像
【貨車を載せる装置.jpg : 103.4KB】
引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 軽便線駅.jpg
・サイズ : 106.7KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 車両基地(2).jpg
・サイズ : 132.2KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 貨車を載せる装置.jpg
・サイズ : 103.4KB
・ツリー全体表示
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.0.3705; .NE...@gl11-068.gl11.cilas.net>

  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃一覧表示 ┃検索 ┃設定 ┃ホーム  
55 / 102 ページ ←次ページ前ページ→
ページ:  ┃  記事番号:   
(SS)C-BOARD v3.5.4 is Free.
掲示板についてのお問い合わせはこちら。