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【758】おじん2人ヨーロッパ軽便 その13-2
 湯口 徹  - 07/2/5(月) 13:03 -
  
スイス・アッペンツェール州 その2

スイスは連邦国家だから、州によって言葉も習慣も法律も異なる。この国が女性の参政権を認めたのが1971年。その中でもアッペンツェール・インナーローデン半州=よく分からんが、2つの半州で構成されているんだそうな=での女性参政権実現は、何と1993年だったというから驚きである。

そのアッペンツェール州は、直接民主主義でも天下に知られている。1年に1回か何回か知らんが、選挙権者(男子ばかり)が町のマルクト・プラット(中央広場)に参集し、全員で審議する。もっとも現在では形骸化し、単なる儀式かお祭り化しているそうだが。

その広場に面してホテルが幾つかあり、その中で地名ズバリのホテル・アッペンツェールを我々の宿舎に選択した。その実リンツ、ザンクトガレンとオーストリーでは極安宿が連続したので、ややましなホテルを、というわけである。

宿の部屋から撮った広場は狭いが現実にもこの数倍程度で、さして広いわけでもない。ここに男たちが何千人と集まるらしい。

この州は凡そ日本人ツアー(無いわけではない)と無縁だが、町中牛の臭いが立ち込めていた。かつて西部劇でお馴染みのキャトルタウンといわれたウイチタやアビリーンなどは、恐らくこんなもんではなかったのだろう。

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【757】緊急停車相次ぐ  読売新聞より
 総本家・青信号編集部  - 07/2/5(月) 10:55 -
  
D51撮影、線路侵入男まで…緊急停車相次ぐ

 JR東日本などの観光キャンペーンで18年ぶりに千葉県内を運行中の蒸気機関車「D51」(通称・デゴイチ)に、カメラを抱えたSLファンらが接近し過ぎて、緊急停車するハプニングが相次いでいる。

 線路上に腹ばいになってシャッターチャンスを狙うファンもおり、同社千葉支社では頭を抱えている。

 キャンペーンは、「D51」が6両の客車を引き、千葉―館山駅間を走り、県民に雄姿を披露するというもの。

 今月1、3日に運行されたが、1日に千葉―木更津駅間で3度にわたり緊急停車。3日も、約500人を乗せて内房線富浦―那古船形駅間を走行中に、線路わきから身を乗り出すようにして撮影していたファンがいたために急停車したほか、那古船形―館山駅間で、60歳代の男性が線路上に寝転がってカメラを構えていたことから停車した。警察官が男性を注意した。2月4日7時49分配信 読売新聞
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【756】地場、いきまっせ。その7
 67 田淵 仁  - 07/2/1(木) 14:35 -
  
番外編 二つの5000系IN東京
 先日、東京へ小用で行ってきました。家族は埼玉なので宿泊に不自由はありませんが、只今足が少々不自由なので黙って上京しようと思いましたが、東京地下鉄東西線5000系の廃車イベントを、各々用事があるなか在京の早川さん・山川さんと見に行ってきました。春日和の好天もあり、東陽町駅から車庫までの約10分の道は群れをなしており、会場内もひどい混雑で、5000系を撮るのに難儀しましたが30分後には新宿に向かい解散しました。
(写真1)向かって左は、第59編成でステンレス製、29日からはこのヘッドマークを付けて東西線を走っているようです。3月で廃止とか。右は、第90編成でアルミ製、これで廃止とか。千代田線の北綾瀬支線はまだ走るとか。
 第2の5000系は、渋谷に登場の東急の5001.昭和28年製、長津田工場に保管してあったが、今回東急渋谷駅(東急百貨店)前の広場(忠犬ハチ公銅像のある)の玉川線地下出入口の西横に、約2/3に短縮で設置され、まもないのでピカピカだ。しばらく佇んで通行人の反応を窺っていたが、反応は半々の感じであった。渋谷にまた新名所が出来たことになる。
 東急5000形は、名車であると在京の方の喧伝はすさまじいが、本当にそうだろうか。湘南電車をさらに近代的にし、丸みをおび、車体断面が台形、窓を大きくしたデザインは抜群で、それまで角ばりのゴツゴツ感、しかも煤けて黒ずんだ車体の旧型電車群の中では、非常に明るくシャレタ電車であり、大いに人気を博し、歴史的にも日本を代表する好デザインの電車である。
実は私は東急沿線生まれで、電車ファンの原点が東急の旧型3000番台の煤けた電車であった。4〜5歳頃の記憶であろう。5000系登場時は東京にいなかったが、社会人となって再び沿線に住みよく乗った。5000系はとてもとても好きな電車である。この点では全く名車である。
しかし造りの面では果たして名車だろうか、私は疑問を持っている。東急は100両余も製造したが、この5000系の超軽量構造等でその後製造された電車は東急を含め皆無である。(デハ200形は路面電車)また満員の通勤輸送にも不向きな構造であり、なにより後に対策として窓を小さくした扉に変更し、せっかくの好デザインがブサイクとなってしまった。最近出版のG社本はもろ手を挙げて誉め上げすぎてはいないだろうか。構造(電車の出来具合)についてはもう一寸冷静になってほしい気がするが!?
(写真2)まさに東京を代表する渋谷によく似合う格好良い車体、いや電車だ。10時から18時まで、雨天中止、車内に出入り自由、写真が展示されている。

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【755】消えたファイルの復元
 管理者  - 07/1/30(火) 23:52 -
  
先日の沖中先輩写真展のうちあげ会?にて、ご指摘のありました消えた掲示板の掲載写真の復元方法が、ようやく分かりましたので、只今懸命の復旧作業を続けております。
管理者ジュニアは、先週木曜日に自宅近くで暴走車にはねられ、重傷を負っての作業です。痛みの気晴らしにしては、ちょっとハードと思われますが、会員皆様方のお喜びを叶えられる事を楽しみに頑張っております。しばらく、お待ち下さい。全ファイルが、復元出来れば最高ですので、判明していない写真の再提供に、ご協力いただけますよう、よろしくお願い申しあげます。
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【754】おじん2人ヨーロッパ軽便 その13-1
 湯口 徹  - 07/1/29(月) 16:35 -
  
アッペンツェール州その1

先回が元日の [725] だったから約1か月休載した。やれやれ、また性懲りもなく始まったのかと嘆く手合いには呪いあれッ!

ウイーンから乗ったウインナー・ワルッアー号夜行寝台は、6時30分チューリッヒ着。列車を乗換え、ヴェインテルデンへ、さらに私鉄に乗換えてボーデン湖畔のクロイツリンゲンへ。

こんなところにやって来たのは、この町がドイツのコンスタンツと接し、というか同じ町がスイスとドイツに分かれて、名前も違う。国境を歩いて渡る経験をしようという趣向で、相棒のウメムラ旅行社のアイデアである。

ドイツとスイスはボーデン湖をはさんでいるのだが、このコンスタンツのみ、ドイツ側が河(ウンターゼー)を越えスイス側に越境?した飛び地になっている。古来こんな地形は関税徴収の要地だったはずで、いわく因縁が尾を引いたまま国境が確定し、ドイツ側利権が現在に残存しているのであろう。

間にはちゃんとした検問ブースがあり、コンスタンツが終わってスイスであるとの標識、税関の標識 "ZOLL" もあるが、住民は平気で行き来してパスポートコントロールもない。しかし住宅街の間は金網で仕切られていた。

記憶には残っていないのだが、駅も金網で2つに仕切られている由。

ところでメーターゲージといってもスイスのそれは独特の雰囲気を持っており、我国でもファンが多い。精巧かつ正確な模型がたくさん発売され、その筋の専門家が大勢いるから、当方など出る幕はない。(誰だ、そんならやめとけと云ったのは)

ともかく驚くほどカーブと勾配がきついのは、かつての京阪京津線も顔負け。それにスイスの電動車とは、その実客室付電気機関車と称したほうがいいほど力持ちで、しかも1両の室内がモロハニに分かれていたりする。客車を3両、4両と平気で牽引する。

スイス国鉄(SBB)のアルトシュテッテン駅は町外れで、アッペンツェラー鉄道(AB)の発駅アルシュテッテン・シュタットまではバスに切り替わっているが、ユーロパスで乗れた。

アルトシュテッテン・シュタットを出たとたん、電車はびっくりするぐらいの勾配を、びっくりするぐらいのガラガラガラという音と共にラック区間をグイグイ登る。

我国でもおなじみのアブト式は歯が少し食い違った3列だが、ここは1列のみのシュトルプ式であった。

それだけではない。テニスコートに毛の生えたぐらいの狭いところで完全に180度向きを変えるU字型カーブが、しかも160パーミルの勾配を伴って展開している。

その狭さは事前に相棒から聞かされていたから、これだけのために24mm超広角レンズ(35mmカメラ)を持参していた。水平を保たないと極端に歪むから、かなり苦労した。

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【753】名鉄の雑型車両
 弘津 興太郎  - 07/1/29(月) 10:10 -
  
少し驚きました。3番目の写真の廃車体は80年代によく名鉄の旧型車を写しにいった際、目撃しております。琴急1型が話題になったときに、廃線の年代が早いので当然貴重な鋼製車両ゆえどこかに流れただろうと推測したのですが、まさか自分が成れの果てを目撃していたとは。
ところで名鉄の雑系車両ですが、僕が興味を持ち始めた頃は日車の流線形気動車改のクハ(22百の何番だったか)が最後の活躍をしていました。
ところが手元にある最古の資料が79年のピクトリアル増刊でそれ以前の資料が非常に少ないんです。その番号も思い出せないほど。
60年代に誠文堂新光社から出ていた灰色表紙のガイドブック、あれは今は非常に貴重な本で少年時代に図書館で読んだ記憶はあるのですが、頑張って後年求めていまやっと3册です。
とりわけ近鉄と名鉄は前身の鉄道が複雑多岐で車両の形態もバラエティーに富み、持ってたら面白いだろうなと思うのですが、古書で見たことがありません。
この2社は70年代中ばには整理を終えて、規模が大きいこともありピクも連載記事くらいで手頃な纏まった研究史料がありません。
転籍の経緯、どの線でどんな運用に就いていたか、戦後から50年代、60年代の新性能車が交じるようになった頃、70年代の晩年、それぞれきちんと後年の研究家のためにも纏められないものでしょうか。
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【750】変なもの探検隊その16
 乙訓の老人  - 07/1/27(土) 10:49 -
  
【742】、【746】でどえらいものが出てきた。琴電に関しては【742】の14号が超貴重品だと「その15」で紹介した。と共に琴急の1型も貴重品である。こんなに鮮明なものに始めて御目にかかった。感激している。撮影は坂出駅と断定できる。琴急については、1954年に琴電琴平駅で2000形を撮り、榎井の方に歩き出し土讃線ガード下を潜る時、複線構造になっているのに気づき「ひょっとして琴急の線路敷ではないかと」と思った。金谷川べりに出てみるとコンクリートの橋脚が2本、川中に突っ立ていた。その先を確かめようとするより琴電の方が気になり、先を急いだ。
翌年、国土地理院「丸亀」を手にし、麦藁帽を被って琴急のルート探検に出で立った。猛烈な陽照の中、田圃の中に残る小川や畦の水路にある橋桁を一つ一つ追った。琴平から東北方向、飯野山に向けまっしぐらである。土器川築堤を前に、ばててしまった。小川に足を浸してぼんやりしていたら、田圃で草取りをしていたおばさんが「さっきからなにをしているの」と声をかけてくれた。「かくかくしかじか」。驚くと共に「おやつにするから家にいらっしゃい」。そこで西瓜をご馳走になった。広縁でしばらく昼寝をさせてもらい、陽が傾く頃に善通寺に向けトボトボと帰路に着いた。
次いで坂出方面である。国鉄駅南側、駅西の踏切を渡った所が琴参の乗り場、その奥に倉庫らしきものあり。周りは完全に整地されており草ボウボウ、で駅跡とは感じられない。しばらく歩いて右へ回り込むような畦道がある。こいつだなと思い歩くうち学校の裏に出た。そこから小さな橋桁をみつけたが、やはり飯野山を目掛けている。これでだいたい見当がついたので、ばてる前に歩くのはやめた。
瀬戸大橋線開通のG.W.に金谷川畔へ行ってみたら、橋脚は撤去作業中であった。琴急琴平駅跡の琴平郵便局は健在であった。坂出駅高架工事中の現場を訪ねたのは7〜8年後。琴急、琴参駅跡は資材置き場となっていた。
琴急1形6両は、1944年戦時不要鉄道として線路をめくられた後、名古屋鉄道に送られた。これを知ったのはTMS46号の記事であった。大人は同志社入学決定で四国に渡ったのだが、老人は洛北高校卒業なのに、学割証で東京電車見物に出かけた。最終夜行で名古屋へ。夜明けとともに揖斐線へ急いだ。黒野へ琴急1形(名鉄モ180形)に乗り、宿願をはたすことが出来た。老人のピンボケ写真でなく、鹿島雅美氏に頂いた1960年撮影(P44)のものを紹介しよう。そして弘津君が良く似ていると言っている熊本電鉄71号(P45)も。1957年9月、老人の撮影である。1989年に熊電にいったら、別番号のものが北熊本車庫の牽引車として残っており、懐かしくて暫く眺めたものである。
10年前、岐阜市内線と揖斐線を直通運転するための780形が登場した時、探検隊の一員である堀さんと行をともにした。「おきさんの喜ぶものがあるよ」と言って名鉄岐阜工場に連れていってくれた。工場東南隅に鎮座していたのは、なんと180形の達磨さんであった。
(P46)後に解体され、市内線終焉の時にはなかった。

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【749】変なもの探検隊 15
 乙訓の  - 07/1/27(土) 10:40 -
  
18切符の旅を楽しんだ5人は瓦町駅の変貌ぶりに驚いたようだ。ここで在りし日の路線の変化を少々解説することにしよう。とはいえ、老人は1954年以後のことしか知らないが、諸先輩の記述動員となることは、あらかじめお断りしておこう。
1.)1911(明治44)年11月18日、東讃電軌・今橋〜志度間開業。1913(大正2)年10月15日、出晴〜今橋間延長、1915年公園前〜出晴間延長。以上は地方鉄道法による。1916年12月25日、四国水力電気に吸収合併。1917年7月13日、築港前まで全通。高松市内線は軌道法による。これで屋島と官線高松駅、船便と結ばれた。開業時の車両はラジアル台車付1〜12号。高松市内線全通時に新造されたのが、変1形と称する13〜16号の4両。1形は川崎造船所兵庫工場製、変1型は長崎電軌製。変なものではなく、変形1形とされたようだ。【742】の14号は本邦初公開のものと思われ、貴重なものである。1928年には50形51〜56号を梅鉢鉄工所で新造している。
2.)1912年4月30日、高松電軌・出晴〜長尾間開業。軌道法。1形1〜5号を梅鉢鉄工所で新造。これとは別に貨物電車1両も新造。番号不明。これが【728】で紹介された31号である。翌年1形4両、貨電1両を増備している。共にシングルルーフの木造単車。
3.)1926(大正15)年、琴平電鉄・栗林公園〜滝宮間開業、1000、3000形5+5=10両新造。1927年滝宮〜琴平間、栗林公園〜高松(現瓦町)間開業、翌年制御車5000形3両新造。なぜインフレ形式、車号となったのか不明。
この時点での瓦町駅界隈の路線図をTL25号から拝借、転載する。(図1)
戦時統合で四国水力鉄道線は、讃岐電鉄として1942年4月30日分離独立。同年11月1日、琴平電鉄を中心に3社合併、高松琴平電鉄となる。1945年6月、長尾線の改軌工事が行われ、高松市内線とつなぐが、1ヵ月後の7月3日夜の空襲で高松市内は壊滅状態となり、市内線復旧の見込みがたたず、市の都市計画により築港線建設のうえ市内線廃止とした。高松築港まで単線で延びたのは1948年11月26日、1953年6月には単線並列となり志度線も築港に顔をだすようになった。この後に老人は訪ねたのだが、このような経過を辿ったことを知ったのは後の話。この時の瓦町の配線図は(図2)の通り。大人が披露してくれた電車の撮影地点は、この線上のどこかである。
バブル崩壊で琴電は会社更生法の適用を受けることになり、と共に近代化を図っているが、事の発端はJR線交差地点から築港までの高架化にある。片原町から北進、浜辺へ出てJR高松駅前につなげる計画であった。その中に瓦町駅再開発事業が組み込まれ、百貨店誘致となり高島屋、大丸が名乗りを上げた。高島屋が有力であったが、いつの間にか「そごう」となり泡を掴み損ねた。京王帝都5000(1100形)系入線時の外部塗色は「そごう」の包装紙色であり、社員は見たくもない!と言っていたが、その気持ちは良く分かる。(P43)

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【748】LRT導入へ実験バス走る 京都新聞より転載
 総本家・青信号編集部  - 07/1/24(水) 16:35 -
  
京都市、今出川通で初実施
 京都市が導入を検討している次世代型路面電車(LRT)の交通社会実験が24日、今出川通の北野白梅町−出町柳間4・1キロで、初めて行われた。路面電車に見立てた実験バスが道路中央部に設けられた専用走行車線を走り、一般車両や沿道にどのような影響が出るのか調べた。
 京都市は公共交通機関優先のまちづくりのため、四条通などを循環する「環状線」と「今出川線」の2路線でLRT導入を検討している。
 午前10時、市職員が今出川通の車道の中央部にカラーコーンを置き、一般車両を通行禁止にする実験バス専用走行車線を確保。バス8台が10分間隔で東西方向に往復した。途中の北野天満宮前と烏丸今出川に停留所を設け、約300人のモニター客が乗り降りした。
 モニター客の竹下豊子さん(78)=上京区=は「時間はバスと変らないように感じた。付近が渋滞して気の毒に思ったが、ゆったりと乗ることができました」と話した。
 この実験で一般車両の通行が片側2車線から1車線に減少したため、信号待ちの車の長い列ができた。烏丸今出川交差点では地元の室町自治連合会が「今出川線」導入に反対する抗議活動をした。
 市は今出川通や北大路通、丸太町通の10カ所での交通量を調べるとともに、沿線住民にもアンケート調査し、導入の是非を検討する。
1月24日13時57分配信 京都新聞

※なお、この実験には当編集部より調査員が潜入しており後日写真とともに詳細が報告されるであろう。
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【747】変なもの探検隊その14
 乙訓の老人  - 07/1/22(月) 14:48 -
  
12000形は「やしま」と名付けることが候補にもあがったとか。この頃、志度線を昇圧させ琴平線と直通運転とし、高松―屋島―琴平のデルタ運行で観光客の足となることを目論んだ。例え志度線を昇圧したとしても、春日川〜湯元間の春日川、新川橋梁強度を考えると無謀な企画となるだけに、沙汰やみとなったようだ。この企画はその後も生き続け、65号更新車は複電圧車であり、ドア間には対向シート2組2列のセミクロス車となった。ちなみに志度線昇圧は1966年、話を聞いてから8年後の事であった。
さて急行運転が始まり、急行用に指定されたのは10000形「こんぴら1号」(P40)、12000形「りつりん号」、500形の3車種となった。500形は1928年、制御車として竣工1953年に電装された時、100HP×4となり琴電最強力車となり、これが買われた。10000形は客用扉間をクロス車とした。手法はバス用2人掛けパイプ椅子を2列750mmピッチで11列、運転台方向に並べたものであった。つまり集団離反型。
急行運転所要時分は高松〜琴平間32.9km、下り39分、上り41分であった。途中停車駅は瓦町、栗林公園とした。表定速度は下りでは時速50.6kmとなり、まずまずである。普通の下りは6時を初発として毎時0、30分発、上りは5時51分が初発、毎時21、51分発で、所要時分は下り66分、上り65分、この間隙を縫って急行ダイヤが設定された。
高松発5:58、10:58、16:58、琴平発8:17、11:47、20:47となった。下りは普通2分前に発車、上りは4分前に発車。陶信号所をつくり、対向する普通と離合することになったが、走行したままではなく一旦停車をした。閑散期は500形単行とした。
今回の変なものは、自社製品のパンタグラフとしよう。初訪問時、志度、長尾線の集電装置は既に大人が訪問した1952年3月同様にYゲルであった。それが1957年9月には変わっていた。なんとも面白いパンタグラフである。(P41)こいつはと思い、今橋車庫へ聞きに行った。自社考案のもので、廃物利用であると言う。Yゲルは押し上げ力が不足したのか、廃車になった01形のポールのスプリングを利用して組み立てたという。自社製パンタといえば岡電の重力利用のものが知られているが、この時期に高松でもあったわけだ。50、60、80形全車に及んだ。50形重連も紹介する。(P42)
今回はこれ位にして、次回は瓦町駅周辺の変化を取り上げようと思う。

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【746】高松・琴平近辺電車古写真一束 パート2
 某ぼけかけ老人  - 07/1/21(日) 10:10 -
  
昔々職場忘年会の席上一同かなり出来上がり、1人が床に空の徳利を転がし、課長様に「その上に足を乗せてください」とやった。率直な課長がそのとおりやると、「アホが銚子に乗りよった」と囃し立てたことがある。温厚な課長は一緒に大笑いしたが、内心は?

全然関係ない話ではあるが、ボケかけ老人も調子に乗ってきた(今は素面だが)。

今回も滅茶苦茶写真を並べただけである。塩江温泉鉄道(川車ガソリンカー第一作)は我国では珍しい車体で、窓間吹き寄せの部分にもガラスがはめ殺されている。

これは恐らくヨーロッパの古い客車の構造を真似たと思われる。前後の絞りは路面電車の急カーブ通過の為ではなく、単なるデザインである。それが証拠に足元の踏み板はちゃんと出張っている。

塩江温泉鉄道は琴平電鉄仏生山経由・高松から貨車を直通させる目的で1067mm軌間での免許を1435mmに改めて建設し、とりあえず旅客だけで開業。その後トラックとの競争に勝てず、結局貨車は導入せず仕舞に終わった。

1938年5月1日琴平電鉄に合併し、41年廃止。5両のガソリンカーは車体を生かしブリル単台車に履き替え、2軸電車に化けて満州国新京の路面電車に復活した。

他の電車は乙訓のご老人におまかせする。よしなに。

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【塩江温泉他.jpg : 155.3KB】

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【743】琴急1型?
 弘津興太郎  - 07/1/21(日) 3:47 -
  
って、広浜の1型(省モハ90、後の熊本電鉄71)にそっくりですね。
初めて知りました。
設計図を流用しているくらい似ています。
でもあちらさんは原型時はへそライトのポール集電だったから
戦前の姿では印象ががらり異なります。
えっと、琴急は多度津じゃなくて丸亀から出ていた一番最初に廃止に
なった鉄道でしたっけ?
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【742】高松周辺の電車古写真
 某ぼけかけ老人  - 07/1/19(金) 20:59 -
  
電車にあまり興味を持たぬボケかけ老人が何でこんな写真を持っているのか、いぶかしく、かつ胡散臭く思う人が結構いるらしい。さらには乙訓老人が息を吹き返し?たのは大いに結構なことである。

ともかく順序を考えず写真を片端からお目にかける。乙訓老人も黙ってられまいて。解説は彼の老人に任せよう。撮影は西尾克三郎御大、谷川義春氏(推定)=共に故人=である。

ただ、現在は琴平電鉄→高松琴平電気鉄道だけだが、かつて東讃電気軌道→四国水力電気→讃岐電鉄、琴平参宮電鉄★、琴平急行電鉄★、高松電気軌道★、それに標準軌間非電化で唯一の塩江温泉鉄道が高松・琴平近辺に目白押しに存在していたのである。(★は1067mm軌間、他は1435mm軌間)

この一連はけして乙訓老人とボケかけ老人との馴れ合いではなく、一方的に後者の仕掛けである。結果的に掲示板を占拠していることは心苦しいが、老い先短く焦りの毎日を送り、余命を指折り数える毎日の老人に免じご寛容を乞う。

話はころっと変わるが、昨年2〜3月延々とこの掲示板を占拠し、顰蹙・催促・突込み・冷やかし等を大いに頂戴した「サンパチ豪雪中横断記」のリライトが、1月21日発売のRail Magazine 3月号に全編一挙(18頁)に掲載されておるので、ご笑覧賜れば幸甚でありまする。写真の選択やキャプションは流石プロの仕事と感心させられる。

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【高松琴平他.jpg : 156.6KB】

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【741】中国特派員便り”天津のLRT”
 ’67小西啓文  - 07/1/19(金) 12:01 -
  
天津のミニコミ誌”津(JIN)”の1月号に興味深い記事が出ていました。
”現代電車”???、聞いた事がないが、写真からみると、これは、まさに中国ではじめてのLRTでは、ないかと、早速”軽軌”の始発駅”中山門”まで、タクシーを走らせ行って来ました。
中山門の駅員に、どこで下車すれば、乗れるかを確認しましたが、誰も知りません。そんな電車なんか走っていないです。
車中から、掲載しているJINの編集長に電話をして、直接記事を書いたライターとコンタクトを取ると、”洞庭門”で下車して直ぐとのお返事でした。
高架駅を降りると、直ぐに現代電車の駅がありました。なんと、1本線路です。架線も張ってあります。電車は、いずこに?
駅員の返事は、”走り出したが、天津特有の強風が吹き、架線が切れて、対策中と聞いている”です。仕方ありません。タクシーに乗って、線路に沿って、全線を走りました。途中で車庫らしき物が見つかりましたので、終点でUターンして戻って見ました。
車庫といっても、線路と屋根付き検査場らしき物が出来ているだけで、門も未完成で、入庫許可を受けるにも人影が見当たりません。恐る恐る入り、検査場らしき建物の窓から中を見ますと、開通時に取付けたのでしょう赤いリボンとたすきをまとった、黄金色に輝く正面は卵型の2編成を確認できました。
多分、記事のとおりフランスで製作輸入された車両に違いありません。
見事に綺麗な車体ではありませんか!!!! 実際、走っているところを見たかった。乗ってみたかった。
車庫の奥に進むと、工事人らしい人達が、土を掘り返していました。
線路は出来たが、保守検査場は、未完成で建設途中なのでしょう。
これ以上、ここでうろうろすると、公安でも呼ばれそうな雰囲気もありましたので
散策は諦め、待たしておいたタクシーに乗って、上手い海鮮料理屋へ向かいました

添付画像
【JIN_1月号&軽軌.jpg : 178.3KB】

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【740】変なもの探検隊その13
 乙訓の老人  - 07/1/19(金) 11:14 -
  
琴電シリーズが続行なので楽しい老人です。やいやいと尻を叩かれようが、「三八豪雪」で呆けているとやられたから満を持して受身となっている。玉座に胡坐かける時間が少なく人指し指一本でキイを押す時間に制約を受け、即座に反応できない。打ち終わったところで写真を、と思っても過去に高橋弘さんにプリントしてもらったものは、吉川、藤井両氏を始め各氏にプレゼントしたので手元にない。慌ててフィルムを探し、出入りの写真屋(コロナでなく、ごめん)で、ネガカラーのプリンターのお世話になっている老人である。
【734】で格調高い大人のワフを見せて頂き、ありがとう。だのにピンボケを編集氏に送りつけてしまった。単バネの貨車や客車に乗ったことのある御仁なら、今も忘れられない思い出をもつであろう。ワフ1140になんとか柔らかいクッションをと、戦災車の01形のブリル台車に変更したところ、今度はバウンドが酷くなりスピードを上げるや、いてもたってもいられないものになった、との話を工場長から聞いた。
【728】堀端の52は高松築港〜片原町間。【732】弘津君の書き込みで思い出した。10010形の制御器は日立のMMC。10000形と重連が出来るようにせよとのことから、次に紹介する変なものと一緒に買ったCSは使わなかったのだろう。
さて変なもの第2弾は12000形である。1957年9月、買収国電2両を仏生山工場で整備していた。この年の春、東京電車見物の帰途に見た、大垣電車区で留置してあった元富士身延鉄道のものであろう。これを「こんぴら2号」にする計画だと聞いた。なに、こんなオンボロを急行に! 急行は1953年に端を発する。この年には国体が高松中心に開催され、そのため琴電も62号を鋼体化、複電圧車として屋島〜琴平間を臨時急行で走らせている。その急行は、その後も高松築港〜琴平間で金毘羅大祭や正月に臨時列車として健在であったようだ。これを関西汽船、加藤汽船の定期便に接続させ、「こんぴらさん」へ参詣客を送り込もうとする算段なのだ。1958年から定期便で走らせる計画だとのこと。それには、10000形の「こんぴら1号」では接客設備に劣る、クロス車にしようとなったようだ。
さっそく整備中の車内に入ってみる。なんと天井、床をのぞき淡いピンク塗りつぶしで、シートモケットは臙脂色。まるで京阪1800系生き写しだ。(P37)いや特ロを意識したものであろう。元クハユニの方に移り、売店カウンターらしきものがある。(P38)乗務員室を仕切る開き戸には〒マークと共に差し出し口まである。将に変な電車だ。飯田線のような長距離を走るのにうってつけの電車に変身中であったが、WCはなかった。事務所に戻り、「売店営業するつもりですか」と聞けば、「営業の方で考えているらしい。戦前、食堂電車を走らせて評判になった。それを復活させたいと重役さんは思っているらしい。陶〜滝宮間は駅間距離が長いので中間に信号所をつくり、離合させる。」と工場長は語った。
1年後、再び訪問。この時、琴平から急行に乗った。「こんぴら2号」ではなく(P39)、500形単行であった。陶信号所では琴平行き普通列車と離合。なんと「こんぴら1号」ではないか。瓦町から仏生山へ戻ったら、12000形は「りつりん」のヘッドマークとともに一番西の留置線にあった。どうやら登場前に改名されたらしい。(つづく)

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【変37.JPG : 79.3KB】

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