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【1444】続・生きていたNEOPAN SS
 乙訓の老人  - 08/7/1(火) 16:49 -
  
夢に出た土佐電600形3重連

土佐電の方はダットサンで駅へ送って下さった。3等車の一隅でうつらうつらしていたら車掌がやってきて、2等車に案内された。後で当時の時刻表を調べてみたら、130レ16:11発だったようだ。なぜなら「ロ」連結だったからだ。車掌は高知で引き継いだ時、土佐電の方から要請があったと語ってくれた。善通寺20:11着のはず。徒歩20分ばかりの四国学園宿舎までタクシーで向かった。扉をあけたら姉が「たぁーちゃん、どうしたの」とびっくりであった。この時の計画は御免より東行、安芸、室戸、牟岐、徳島、高松、松山、仁堀航路、呉、広島、尾道を経て帰京の予定であった。従って善通寺に立ち寄るつもりはなかった。だから、びっくりだったのだ。
<フィルムから推察するに31、1日と寝て、2日午後には足ならしに琴参と土讃線の並行区間へ行っている。電車と汽車が並んで走っているシーンがないのは、チャンスに恵まれなかったのだろう。DF50先頭の列車があるが、普通列車で準急“南風”ではない。珍しい列車はC12牽引のもので、本来、この筋はキハ17の2連×2、高松→豊浜、琴平なのだが、多度津〜琴平間はC12+客車3両となっていた。客車は戦前のスロネ格下げ車であったように思う。朝の通勤列車に琴平→高松間8620牽引があったが、その客車がそれだった。C12は多度津工場入換用のものだろう。大麻(おおさ)から琴平まで歩いている。>
3日は高松。写真少なく、きっと仏生山で向井工場長相手に話し込んでいたか、図面筆写に没頭していたに違いない。65号、230号の図が残っている。4日、琴参善通寺車庫。5日、昼行列車で帰京。

翌年3月、卒業を前に四国のやり残しを達成しようと思っていたら、就職先から呼び出しを受け3月1日繰り上げ入社となった。tsurukame君を呼び出しNEOPAN SSを5本渡した。「四国へ行くなら可能な範囲で電車を頼む」と言った。その時のフィルムを今も預かったままだが、だんだんカールがひどくなってきた。缶を開けると、あの臭いが・・・・・・。
安芸まで600形で行けたのは5年後で、室戸で現場打ち合わせのためであった。勤務先は1967年に京都に変わったが、担当先の四国巡りは1963年11月から継続中で、大阪万博を前に関西の建設業界は空前の活況状態になった。1969年10月、儲からん四国は切り上げ時と判断し、高知のお得意先へ挨拶に行ったら「安芸発の朝の急行は3両連結だよ。」と、店主に言われた。だが、行けなかった。この悔しさを20年後、今出川浄福寺君にぶつけたら当時、3連急行は朝3本あったと教えられ、1970年11月30日撮影の姿を送ってくれた。

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【Jun27#76.JPG : 65.8KB】

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【Jun27#77.JPG : 85.6KB】

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【廣瀬車両製.JPG : 103.8KB】

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【善通寺工場製.JPG : 132.7KB】

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【夢に出た3重連.JPG : 131.3KB】
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【1443】写真展「京都の特急」終了
 総本家・青信号特派員  - 08/6/30(月) 0:04 -
  
クローバー会有志で行なわれていた写真展「京都の特急いまむかし」が本日、千秋楽を迎えた。大雨が降りしきるこの日は、さすがに来場者は少なかったものの、名古屋から新幹線で駆け付けた老鉄道ファンが来場されたほか、会員では、今回の企画・指揮・資金を一手に引き受けた乙訓老人、満身創痍の体ながらも口だけは衰えを知らない仁連上人、展示の近鉄特急を執拗に追い続けたT会員が集合、午後5時を持って終了、一ヵ月の会期を滞りなく終えた。
そもそもこの企画は、ギャラリーの店主から持ちかけられたもので、地元に密着するギャラリーとしては、身近で、とくに子供たちにも受け入れられるテーマにしてほしいという要請を受け、京都に出入りする特急に決まった。検討の結果、会の厚みを出すためには、古い写真も見せて新旧対比で京都と特急の関わりを見せようとなった。そこで山科の人間国宝にもお願いして、東海道線の未電化時代の貴重な写真を提供いただいた(写真1)。
特派員も老人からの依頼を受け、現状の写真の撮影に走り回ったが、よくよく考えたらロクなものを撮っていない。プリントを手配する前の日に、自転車に乗って近くの東海道線へ撮りに行く有様で、今さらながら一夜漬けのクセが抜けきらない自分を痛感させられた。
開催に当たっては、非公式な会員有志の行事ということもあって、積極的なPRは行なってこなかったが、京都新聞にも紹介され(写真2)、次第に来場者は増えていった。
その中には、子供さんの来場もあり(写真3)、店の目論見も当たったようである。目を輝かせて写真に見入る子供たちの姿を見ると、思わず微笑んでしまった。
そして、6月15日(日)には、この店の伝統行事、朝粥の会で、当会員の元・米っ子氏による「中国の新幹線事情」を聞くという、またとない機会に恵まれた。多くの会員が集まり、お粥さんをすすりながら、有難く拝聴、食後は地元の後期高齢者の方々と、会員が交流するという光景も見られたのであった(写真4)。
とかく趣味活動というのは閉鎖的、グループ限定の交流に終始しがちだが、地域の方とも交流できたことは、会の社会貢献が多少なりとも果たせたかなと思っている。また、今回の写真展では、撮影だけでなく、額の貸与、プリント、運搬と多くの会員の世話になった。会の結束力を痛感した次第である。店主の「楽しそうな、ええ会ですなぁ」という声が今後とも続くこと願っている。
なお、新聞掲載に関しては、無断掲載を厳しく諌められている向きもあるが、許可を得た上で掲載しているのでご心配なく。

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【写真1テーマは京都の特急.JPG : 258.8KB】

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【写真2京都新聞に掲載.jpg : 69.4KB】

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【写真3熱心な親子.JPG : 254.0KB】

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【写真4朝粥会でも交流.JPG : 270.4KB】
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【1442】Re:8531
 893-2  - 08/6/29(日) 0:24 -
  
お久しぶりです、82年度生ふくしま殿。
やはり京阪ネタで登場ですね。実は小生も24日に最終日とは
知らず(恥ずかしながら)仕事中にパチリと頂きました。
時刻もわからず京橋から電車に乗ったものの各駅に撮影する人が
おり、「平日なのにすごいな。」と思いつつ、撮影者の構え方を
見て、「もうすぐ出町柳行きで来るな。」と思い西三荘駅で下車して
淀屋橋駅行きのホームの京都寄り先端に行くと私ひとりでした。
「あれ?」と思いながら待つことしばし丁度構えるホームに
列車が入線する案内があり列車が見えた時、3000系が現れました。
結果はほぼ撃沈で淀屋橋方のみはまだまともに撮れました。
どうりで誰もいない筈だと納得しつつ
返しまで待つ余裕はなかったので退散して、その日帰宅後京阪のHPを
見て愕然としました。最終日だったのね〜。どうりで人が多かったはずかと。
写真は、トリミング前後の3005先頭の写真と3055の写真です。
デジカメは写真下手には便利です。
それから過日、デカンショ祭り号氏がおおみや鉄道ふれあいフェアでの
ED62を出しておられましたので鳥居のカーブでのED62-17の貨物を
出しておきます。元善光寺の貨物は結構ED62+ヨだけとかの写真が多い
です。ホント懐かしいです。ついでにその頃の飯田線の写真もひとつ。

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【IMG_7191.jpg : 288.9KB】

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【1441】ミッション:花月園を583系で占拠せよ!
 ロギング太郎 E-MAIL  - 08/6/28(土) 22:57 -
  
583系をこよなく愛する仲間と語らいあい、只今決行中です。
 
詳細は、
http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/44907/blog_id/66892
http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/44907/blog_id/66919

ご覧ください。

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【all583.jpg : 190.2KB】
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【1440】8531
 ぴおちゃん WEB  - 08/6/28(土) 21:23 -
  
久しぶりに投稿をさせていただきます。82年度生のふくしまです。
鉄道趣味は縮小しながらも平日日中でもコソコソ活動しております。

本日より京阪電車で1971年以来特急車として君臨しておりました、3000系の最後の編成であった3505編成が、新車3000系に番号を譲る形で8000番台に編入され8351編成として稼働をはじめました。
当会先輩方には過去現在にわたりこの3000系に係わられた方がいらっしゃいますので、若輩者は移り変わりを写真で報告させていただきます。なお、初日である本日は出撃できませんでしたので8531稼働中の写真がないことをお許し下さい。
写真1=末期の三条地上駅に到着したミシガン連絡特急
写真2=車内 寝屋川区(DRFC現役時代の車庫見学の折りに撮影)
写真3=8000系中間車を併結し全編成7連化した時代 萱島
写真4=更新&ダブルデッカーが連結された 八幡市最終日
写真5=新ナンバー発見 寝屋川区(敷地外より撮影)

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【1439】Re:天然色で振り返る40年前の日々−14...
 井原 実  - 08/6/28(土) 14:07 -
  
▼総本家・青信号特派員さん:
>◎C62重連「ていね」
総本家・青信号特派員氏と同様、私にとっても「ていね」は特別な憧れであった。
見たい・乗りたいという思いは廃止ギリギリ寸前で叶った。
昭和43年9月8日、北海道旅行最終日、C62重連区間に往復乗って楽しむのと、「ていね」の名を手元に残すため座席指定券を購入した。食堂車(4号車)の隣でうれしかった(下りは指定席が取れなかった)。
その日、補機はC622で、札幌〜長万部〜札幌と乗車し(上りが少し遅れたので森まで行かず長万部で折り返した)、食堂車でホタテの定食を食べた。食堂車の領収書を探したが見つからない。コーヒー・紅茶は70円、カレーライスは180円だった。
小樽築港でC622と別れ、札幌まで戻り、約2時間半後また同じコースで本当に北海道をあとにしたのが「たるまえ」である。
10月から食堂車がはずされ、「ニセコ」と名前を変えた列車は魅力がなくなり、その後も何度か北海道に行ったが、C62重連を撮影したのは1度しかない。

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【ていね.jpg : 300.0KB】

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【1438】生きていたNEOPAN SS
 乙訓の老人  - 08/6/27(金) 15:48 -
  
使命を帯びて土佐電車庫へ

老人にとってDRFC設立50周年にふさわしい出来事が、2008年1月末にあった。旦那ことU代目会長から一通の厚みある封書が届いた。中には光楽堂のフィルムフォルダーと共に、「最近、少し古い…と言いましても、かれこれ半世紀も以前のものもありますが…整理をする傍らでCDへの転写可能なものを選択して、と言う作業?をしておりましたところ、沖中さんが撮映なさったと判断できるネガを発見するに至りました、(以下略)」と、半世紀前と変わらぬ筆跡で記されてあった。
フォルダーには60−3−30.4−2.高知.善通寺―琴平.Konidolfine 19℃ 10分
とある。昨秋、tsurukame君から、NEOPANN SSのクレームについて、化学的な原因追究の成果が本掲示板で発表され、さすがは「襄の子」と耳目を集めたが、送られて来たフィルムはしゃんとしているNEOPAN SSである。この時、他に2本一緒に自家現像している。そのうち1本は【760】変なもの探検隊その17で紹介した、琴参電鉄無蓋電動貨車撮影のもの、もう1本は宇野→京都間昼行普通列車の車窓からの分である。この旅のメモ帳がなく、スタートからの断片的な覚えしか思い出せないままであった。今回やっとフィルムの駒を追い、思い出すことが出来た。以下、思い出した部分を<>で括ってみる。
 1960(昭和35)年3月29日21:05京都発247レ宇野行。
<30日5:33高松発105レ窪川行、8:45御免着。御免8:46発、御免町8:48着。安芸行準急602+601を撮影。御免西町から電車で領石通まで電車で移動。安芸行608+609を撮影。土讃線土佐大津へ移動。上り108レ準急南風DF5046以下5連、遅れ115レ普通DF5021との離合の姿を撮影。再び土佐電領石通に戻り知寄町へ急ぐ。電停前の食堂で昼食。新設なった知寄町車庫訪問。前回(1958年9月)訪問時は未だ留置線であった。撮り忘れの300形・ブリル21E改造台車を撮影。>
ここから覚えている。車庫東北隅2階建、階上の車両課を訪問。前回、向かいの若松町工場時代に、開業以来の車両調査でお世話になった方々の迎えを受けた。目的は連結車600形の車体組立図を筆写させて貰うことにあった。この頃、奥野利夫さんの門下生として京都鉄道趣味同好会特派員役?を務めていた。会誌“急電”の売り物の一つに車両形式図(3面図で各箇所の寸法入り)があった。つまり模型を作る時には絶対必要とするものであった。奥野さんと交流あるメーカーや鉄道会社からは、1/50の図が提供されていたが、地方鉄道の自社工場の手になる車体図は現地へ行かねば、細部は不明であった。奥野さんは活気ある土佐電鉄紹介のため若き日の老人を派遣、3面図の筆写を命じたのであった。
方眼目ノートにほぼ写し終えた時、悪感を覚え机の上にうつ伏せになった。土佐電の方が驚いて声を掛けて下さった。額に手を当て「熱が高い」とおっしゃった。気が付いたらベットの上であった。注射で熱は下った様である。流感だったのだ。「これからどうする?」となったのは当たり前のこと。義兄の実家である南与力町教会が頭に浮かんだが、「善通寺の姉のところへ行きます。」と言った。

添付画像
【びわこ形クハニ.JPG : 69.4KB】

添付画像
【600形重連.JPG : 116.0KB】

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【準急”南風”到着.JPG : 51.6KB】

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【初の全面広告車.JPG : 135.4KB】

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【ブリル21E改.JPG : 117.8KB】
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・名前 : ブリル21E改.JPG
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【1437】Re:天然色で振り返る40年前の日々−14...
 K.H.生  - 08/6/27(金) 3:00 -
  
▼総本家・青信号特派員さん:

SL世代最後になる小生からの感想は
ひとこと
羨ましい
です。
山陽線が全線電化になる前の広島以西、オリンピックの前ですから
小学校に上がる前の記憶、C62の想い出は殆どありません。
呉線のSLが広島で息継ぎしていたのを少し覚えています。
それもみな大阪〜広島〜九州の移動の途中の車中
キハ82のかもめやみどりから見た風景です。
引用なし
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【1436】天然色で振り返る40年前の日々−14−
 総本家・青信号特派員  - 08/6/26(木) 22:24 -
  
◎C62重連「ていね」
北海道の鉄道はC62抜きにして語れない。函館本線小樽〜長万部間、通称“山線”の急行「ていね」を牽くC62重連の力闘ぶりは、当時の蒸機ファン最大の憧れだった。
高校生のころだったか、東海道、山陽の幹線を走ってこそC62は相応しいカマと思っていた身に、北海道のC62はどう考えても不似合いに思えた。しかし、『鉄道ファン』などに紹介されるC62の記事を読むにつけ、次第に心のなかに定着してきた。いつかは北海道へ行き、撮影名所の上目名に立ってみたい、そう思うようになってきた。

少し北海道のC62の歴史を振り返ってみよう。
日本の表街道で特急、急行の先頭に立っていたC62も、東海道線が全線電化されると大部分は山陽筋に移ったが、7両だけは軸重軽減工事のうえ昭和31年に北海道に送り込まれた。その中には、デフにツバメのマークを付けた2号機も含まれていた。
それまで小樽〜長万部間はD51が急行列車を牽いていたが、動輪径の小さいD51を高速で走らせるなど運転条件はたいへん苛酷で、逼迫する旅客需要に対しても輸送力強化は急務だった。
こうした事情を背景にC62の転用が実現した。結果、D51と較べると、牽引力、速度とも遥かに優れ、乗務員の作業環境も大幅に改善されたという。急行「大雪」「あかしや」「まりも」がC62牽引となり、小樽築港〜長万部間ではC62重連同士の交換が何回もあったという。その後、DCに置き換えになるなどC62の運用は次第に減少、急行としては「まりも」1往復のみとなった。その「まりも」も運転区間の短縮によって昭和40年に「ていね」と改称している。

昭和43年8月時点では、小樽築港〜函館間の「ていね」のほか、いずれも夜間ではあるが、長万部〜函館間で急行「すずらん」、小樽〜旭川間で急行「石北」もC62が牽いていた。小樽築港機関区所属のC62は、2,3、30、32、44の5両で、呉線電化で転属する15、16はまだ来ていない。
C62重連の迫力については、これまで多くの書物で喧伝されているので多くは書かないが、未体験世代にはずいぶん大仰な表現に聞こえるかもしれない。しかし、実際この目で見て、乗って体験をした身には決してオーバーには映らない。その迫力はC62重連ならではのものだった。

ひとつだけ印象を記しておこう。
北海道へ来て第一日目、長万部から待望のC62重連「ていね」に乗った。目指すは倶知安、ユースで一週間ぶりのマシな食事と風呂が待っている。一緒に乗ったのは一学年上の小池さん(途中で退部、その後に早世された)、ワンボックスの空席が見つかり窓を全開してC62を堪能した。ところが、すごいシンダーが入ってくる。粒状になっているからトンネルに入ろうものなら、バラバラッという感じで降り注いでくる。小池さんは途中から口を開けたまま爆睡してしまった。進行方向に向かって座っているからじかにシンダーの攻撃を受ける。倶知安に着いたとき、私は言葉を失った。赤いはずの舌が真っ黒になっているではないか。
これほど左様な煤煙で、「ていね」は一般の乗客からは極度に嫌われていた。その当時、札幌から函館方面への通しの旅客は、時間も本数も優る室蘭本線経由に流れ、小樽、倶知安などの中間駅から渋々乗ってきた客だけだった。

写真は北海道最後の日、最後の仕上げにと2回目の上目名に向かった。撮影地を求めて線路沿いを歩いていると、どこからか自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。見上げると、はるか崖の上に、へばりつくようにして同行していた山川さんがいるではないか。誘われて、私も90度近い絶壁を何度も滑り落ちながら登って写した。
期待の煙はほとんどなく、あっけなく目前を通り過ぎていった。C6232+C623、前照灯が三つ目の時代である。
今回の撮影は様子見と言った感じだったが、その後も北海道へ行くたび、「ニセコ」と名前を変えたC62重連を追い続けた。
C62、ていね、上目名は、青春時代の北海道のキーワードとして、いまも心の中に刷り込まれている。

これで、初めての北海道での撮影は滞りなく終わった。あとは帰るだけだが、それはそこ好奇心旺盛な身、途中、東北や北陸の要所にも立ち寄り、まだまだ撮影を続ける、若き日の自分だった。

添付画像
【上目名C62ていね.jpg : 489.7KB】
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【1435】103系3000番台 前身の車両
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/6/24(火) 22:20 -
  
【1431】と【1433】で旧形国電の車籍を引継いだ「103系3000番台」を2編成(ハエ52、53)紹介させていただいたが、旧国鉄→JRにもこのような特異な電車があったことを記憶の一端に留めておいていただければ幸いである。

「103系3000番台」の活躍の舞台は、川越線・八高線の川越〜八王子間であったため、関西の方には馴染みが薄かったと思われるが、種車は【1431】でも述べた通り、団塊世代以前の方々にとっては懐かしい車両ばかりで、今回その一部を紹介したい。

写真上から
1.クハ79342(→クハ79608→クモハ102−3004)
53年10月近畿車輛製。下十条区に配置され京浜東北線で使用後、66年8月高槻区に転属、京都〜西明石間の各駅停車(以下大阪緩行と略す)に使用後、74年3月銚子電化時に津田沼区に転属、76年3月郡山工場で車体更新、85年9月大船工場で103系化された。(69年2月20日 大阪駅)

53年製のクハ79は316〜352の偶数車19両が作られ、この年度から戸袋窓、前面窓、運行窓がHゴムになった。

2.クハ79368(→クハ79610→クモハ102−3003) 
54年9月近畿車輛製。当初三鷹区に配置、その後品川、池袋、蒲田、東神奈川と転属し山手線、京浜東北線で使用後、66年9月高槻区に転属、大阪緩行で使用後、74年3月、銚子電化の時に津田沼区に転属、76年3月郡山工場で車体更新、85年9月大宮工場で103系化された。(68年7月7日 大阪駅)

54年度製のクハ79は354〜390の偶数車、301〜335奇数車の38両が作られた。このグループから正面窓に10度の傾斜角度を付け、101系、103系まで引継がれた。

3.クハ79451(→クハ79605→クハ103−3003)
56年9月近畿車輛製。当初三鷹区に配置で中央線、その後池袋区に転属して山手線で使用後、62年4月高槻区に転属、大阪緩行で使用後、75年3月郡山工場で車体更新、85年9月大宮工場で103系化された。(74年1月31日 京都駅)

56年製クハ79は1次車として、422〜436の偶数車、337〜387の奇数車39両、2次車として438〜488の偶数車、421〜488の奇数車の50両、合計89両作られた。このグループからヘッドライトが幕板上部に埋め込まれ、2次車からは屋根が鋼板屋根となった。

4.モハ72502(→モハ72971→サハ103−3001)
52年12月東急横浜製。下十条区に配置、京浜東北線で使用後、65年12月明石区に転属、大阪緩行で使用後、75年1月郡山工場で車体更新、86年3月大井工場で103系化された。(74年1月4日 京都駅)

52年度製モハ72は72系新車の第一弾として79300〜314(偶数車のみ)と共に500〜512の13両作られた。63形と比較すると、屋根が薄くなり、台車は新型となった。東急横浜製の500〜505の6両は窓にHゴム類は一切使用されずすべて木枠であった。(72501のみ後日戸袋窓のHゴム化が実施された)当初は京浜東北線に投入されたが、全車大阪緩行用に関西に転属、103系化の進行により、500、501、503、510の4両は74年呉線用に広島に転属、506〜509、511、512の6両は銚子電化に伴いやはり74年に津田沼に転属した。

5.モハ72612(→モハ72975→サハ103−3003)
55年3月近畿車輛製。津田沼区に配置、総武線各駅停車で使用後、68年1月阪和形置替時に鳳区に転属、以降阪和線で使用後、75年3月郡山工場で車体更新、86年8月大井工場で103系化された。(73年11月18日 鳳駅)

55年製モハ72は72610〜648の39両作られ、この年度より車内に扇風機が付き、後位(パンタのない側)に構内運転用の簡易運転台が設置された。

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【1434】おじん2人ヨーロッパ軽便 その22-5
 湯口 徹  - 08/6/23(月) 16:24 -
  
IL TRENINO VERDE サルディーニャ島鉄道「緑の列車」その5 イシリ〜ヌオロ

翌朝町を散歩したが面白くも何ともない、単なる街道町であった。イシリ駅で確かめた(といっても言葉が不自由だから、中々用を果せないが)季節列車は日曜だけしか走らないことが分かりがっかり。

イシリに到着する最初の列車を撮るべく待ち構えたが、待てど暮らせど来ない。ギリシャ(ペロポネソス半島)での悪夢?が蘇る。と、すぐ傍の街道をFDSのマークをつけたバスが。ついさっき駅員が確約?した列車とは、バス代行だった。

致し方なく貨車などを撮り、地図上直線距離で32km程北、レールはグニャグニャグルリと曲がりに曲がって延々83kmのソルゴノを目指す。途中は当然山岳地ばかりだが景色は悪くなく、この鉄道がご執心のマンダス〜アルバタックス間よりこっちを観光路線で売り出した方がいいのでは、と思ったぐらい。

ソルゴノは海抜約700m(マンダスが457、イシリが523m)で、駅は斜面の町の一番上にあった。例えば石切神社は近鉄駅より下にあり、社寺と駅の関係では我国では珍しい立地だが、戦乱に明け暮れた国では防御上町が山の上にあるケースが少なくない。

異民族に攻め込まれたのが元寇だけという水稲民族には理解を超える。というより、異民族支配が目まぐるしく入れ変わった地域から見れば、日本の方が俄かに信じがたい程の希少例なのであろう。

やっとたどりついたソルゴノ駅は当然ながら(列車がないのだから)人気はなく、ブレダ製標準1Cタンク機が1両赤錆で放置されていた。ここから更に約80km北東のヌオロを目指す。ここで4日後に泊まるホテルを探し回って結局駅近くのモーテルを予約。

この日はヌオロ〜マコメール間の現役路線ロケハンを兼ね、ほぼ並行する国道129号線(これがすばらしい無料の自動車専用ハイウェイ)を55km西へ。このマコメールも海抜534mという山の上の町で、線路はU字型に上って行く。マンダスからの国鉄線(標準軌間)の駅があり、やはり大きく迂回して登ってくるが、その手前の駅が394mだから推して知るべし。

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【1433】103系3000番台 ハエ52編成
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/6/22(日) 22:19 -
  
【1431】で平成17年10月まで川越線・八高線、川越〜八王子間で運用されていた103系3000番台のハエ53編成について解説した。

宮ハエとは「何処の電車区の略号か」という質問をいただいたので解説すると、「宮」はJR東日本大宮支社、「ハエ」は川越の旧仮名遣い「カハゴエ」の略で「川越車両センター」が正式な名称である。場所は川越駅の一つ大宮寄りの南古谷駅の指扇寄りにあり、上りの埼京線直通の出庫電車が指扇発、下りの高麗川方面の出庫電車が南古谷発であるのは、このためである。

103系に詳しい方の話によると「3000番台は編成毎に特徴があり、遠くからでも編成番号が判る」ということで、私も当初は判らなかったが説明を聞くと成程と思った。知人に103系の熱狂的なファンの方がおられ、全車両撮影されており、転属、車体更新、その他変化の都度撮影されて記録に残ざれている。鉄道趣味の先輩Sさんは、一世代上の方であるが、新車の時から、転属、冷房改造、塗装、車体更新等の詳細な記録を全車両一両毎に写真と共に残されている。その方々の影響で私の103系に興味を持つようになり、大阪出張時には時間の許す限り撮影するようにしている。

我が勤務先は、東京・大阪間は日帰りが原則(昨今はテレビ会議が推奨されている)で、東京駅まで時間のかかる人のため、朝は10時頃に設定されることが多い。「のぞみ1号」に乗り、新大阪駅で急ぎ乗換えると、大阪駅で関西線から直通の103系4+4の8両編成を撮影することができる。直ぐに外回り電車で桜の宮駅に行き、内回りホームへ、先程大阪駅で撮影した関西線から直通が京橋行で戻ってくるまで外回りを撮影し、急ぎ会社に行くと丁度10時である。その間に桜島線のユニバーサル塗装車を2本撮影することができる。103系がどれだけ撮影できるかは正に運次第で、日によっては、内回りに集中していることもある。

案件によっては、仕事が次の日にまたがることがある。その場合は、出来るだけ仕事を早く終わらせて阪和線上野芝駅に行く。今のように日の長い季節であれば、夕方5時頃からでも十分撮影可能である。阪和線には両端がクハ103−1とクハ103−2の編成がいるが、未だ撮影のチャンスには恵まれない。103系で感じることは、1両毎にどこか違っており、103系ファンの方が言われる「車両を見ただけで車号が判る」というのは決して誇張でも何でもない本当のことであるが、私はまだその段階ではない。

今回は、平成17年5月まで運用されたハエ52編成を、前回のハエ53編成とほぼ同じ位置で撮影した写真紹介するので、違いを見つけていただきたい。

また、各車両の車歴は、前回同様、鉄道趣味の先輩である故芝生將行様の調査を引用させていただいた。

写真はすべて、平成17年4月13日高麗川駅で撮影。
1.ハエ52編成の全景
クハ103-3002+サハ103-3002+モハ103-3002+クモハ102-3002

2.クハ103−3002
クハ79349 (55/5近畿車輛)東モセ→62/4東ウラ→66/4千ツヌ→67/9天オト→クハ79603(75/2郡山工場)仙リハ→クハ103-1002(85/8大宮工場)宮ハエ

3.サハ103−3002
モハ72561(54/7日車東京)東ミツ→58/7東イケ→61/9大タツ→61/10大アカ→69/9大タツ→モハ72973 (75/2郡山工場)仙リハ→サハ103-1002(86/8大井工場) 西トタ →96/2宮ハエ

4.モハ103−3002
モハ72504(53/1東急横浜)東モセ→65/12大アカ→66/10大タツ→モハ72972(75/1郡山工場)仙リハ→モハ103-1002(85/8大宮工場)宮ハエ

5.クモハ102−3002
クハ79374 (54/11近畿車輛)東ミツ→56/10東シナ→62/4東モセ→71/6東ヒナ→クハ79606(75/3郡山工場)仙リハ→クモハ103-1002(85/8大宮工場)宮ハエ

【お詫びと訂正】
【1431】の写真5は、クハ103−1003(クモハ102−3003は誤り)でした。お詫びの上訂正します。

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【1432】雑感
 K.H.生  - 08/6/22(日) 13:54 -
  
「平成の買収国電」のことは今まで知らず、興味深く読ませてもらいました。
仙石線の体質改善車が2段階更新で新性能車になりそろそろ
年季奉公が終わるとのこと、感慨深いです。
トータルで考えたら、新性能化した意味はどれだけあったか
吊り掛け追放の名目が大きかったか、
都市部に転用できたから、「出世」というのでしょうか。

琴電にも吊り掛け時代の方が圧倒的に長く、新性能化して
数年後に廃車になった電車がありました。
技術の研究は大切ですが利用客は恩恵を感じるのは冷房化や
アコモ改善の方なのでしょうか。
近鉄の特急車18000のことも今思い出すと面白い、反対に
奈良電出身の680も。

ところで関東の川越線あたりにうちの大学出身で縁の深い方は
少ないと思います。
上の世代で9600を撮りに行って飯能の読み方を覚えた人たち
くらいではないでしょうか。
私は数年前、武蔵高萩駅が改築される前に貴賓室のあった
旧駅舎の写真を撮りに関東訪問のさいに訪ねてみました。
その時乗ったのが緑色の103系でしたが、番号を控えていません。
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【1431】103系 3000番台について
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/6/21(土) 0:18 -
  
【1426】で「平成の買収国電」209系3100番台を紹介したが、代替で廃車となった103系3000番台について解説する。

103系3000番台は、旧形国電のモハ72とクハ79を仙石線のサービス改善を目的に103系並みの新製車体に乗替えたモハ72970番台とクハ79600番台の足回りに、工場予備品の103系の主電動機と台車及び廃車された101系の付随台車を組み合わせて新性能化した車両で、下記の通りTc−T−M−Mcの4両編成が5本在籍した。

ハエ51 クハ103-3001+サハ103-3001+モハ103-3001+クモハ102-3001 
ハエ52 クハ103-3002+サハ103-3002+モハ103-3002+クモハ102-3002
ハエ53 クハ103-3003+サハ103-3003+モハ103-3003+クモハ102-3003 
ハエ54 クハ103-3004+サハ103-3003+モハ103-3004+クモハ102-3004
ハエ55 クハ103-3005+サハ103-3003+モハ103-3005+クモハ102-3005
←川越                 八王子→

もう少し詳しく書くと、昭和50年仙石線用としてモハ72971〜980(種車は車番順に、502、504、561、543、612、544、509、560、511、566)クハ79601〜610(種車は車番順に435、378、349、456、451、374、305、342、949、368)の4連×5編成の20両が車体更新車として郡山工場(実際は富士重工に委託)で作られ、主に快速運用に使用された。車体は103系ATC車に準じ、クハは高運転台で、一般の人から見れば正しく新車であった。

種車は、関西のファンの方には馴染深い車番がずらりと並んでおり、関西地区の車両が中心であったことがお判り頂けると思う。

昭和54年から仙石線にも103系の投入が開始され、車体だけを取り上げれば遥かに古い車両が中心であったが、昭和60年3月のダイヤ改正で全面的103系に置き換えられた。

昭和60年9月30日川越線電化に伴い、大宮〜川越間は埼京線との直通運転となったが、高麗川〜川越・大宮間の線内折り返しは3両編成で運用されることになり、クハ79600番台全車両がクモハ102−3000番台(車番順に604、606、610、608、602)とクハ103−3000番台(車番順に609、603、605、607、601)、72970番台の内5両がモハ103−3000番台(車番順に974、972、980、978、976)に改造された。

また、昭和61年には、未改造のモハ72970番台が青梅線増結用にサハ103−3000番台(車番順に971、973、975、977、979)に改造された。

平成8年3月16日、八高線の八王子〜高麗川間が電化され、八王子〜川越間の直通運転開始に伴い、4両編成化されることになり、サハ103−3000番台5両が青梅線から宮ハエに転入して4両編成化された。

JR西日本では阪和線、奈良線等で、まだまだ活躍をしている103系であるが、JR東日本では新系列高性能車への置換えの対象となり、山手線E231系500番台投入に伴って捻出された205系と「平成の買収国電」209系3100番台により、平成15年12月に54編成、平成16年10月に51編成、平成平成16年11月に55編成、平成17年5月に52編成、平成17年11月に最後に残った53編成が廃車となった。

最後の53編成は廃車に先立ち、平成17年10月1日川越電車区の一般公開で展示、翌2日は通常の73運用に入りお別れ運転が行われた。これで最後と思いきや、何と10月12日、車両不足により急遽運用に入り、本当の最終運転となった。また、同年8月27日に実施された東京総合車両センター(旧大井工場)一般公開時は「山手線」の方向幕で展示された。

本来ならば、全編成を紹介したいところであるが、最後まで運用された53編成を紹介する。各車両の車歴は、故芝生將行様の調査を引用させていただいた。

写真の1〜4までは平成17年7月30日高麗川駅、5は同年8月27日、東京総合車両センターで撮影
1.クハ103−3003
クハ79451 (56/9近畿車輛)東ミツ→58/10東イケ→62/4大タツ→62/9大アカ→72/3大タツ→クハ79605(75/3郡山工場)仙リハ→クハ103-1003(85/9大宮工場)宮ハエ

2.サハ103−3003
モハ72612(55/3近畿車輛)千ツヌ→68/1天オト→モハ72975 (75/3郡山工場)仙リハ→サハ103-1003(86/8大井工場) 西トタ →96/2宮ハエ

3.モハ103−3003
モハ72566(54/7近畿車輛)大ミハ→56/3大タツ→58/2大ヨト→58/10大タツ→61/10大アカ→70/2オト→74/4千ツヌ→モハ72980(75/3郡山工場)仙リハ→モハ103-1003(85/9大宮工場)宮ハエ

4.クモハ102−3003
クハ79368 (54/9近畿車輛)東ミツ→56/10東シナ→63/3東イケ→65/7東カマ→66/4東ヒナ→66/9大タツ→74/3千ツヌ→クハ79610(75/3郡山工場)仙リハ→クモハ103-1003(85/9大宮工場)宮ハエ

5.クモハ102−3003A
平成17年8月27日東京総合車両センター(旧大井工場)一般公開の時「山手線」の方向幕で展示され、ヘッドマークは数種類用意され適時交換された。

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【1430】EF5861とあやめ91・92号、ついでに113系(...
 デカンショまつり号 E-MAIL  - 08/6/20(金) 23:39 -
  
究極の国鉄色のEF5861は、今日、田端操から大崎まで、単機で走りました。ニュースソースは明かせませんが、ロクイチに学生生活を捧げられた方(わかる方にはわかると思いますが・・・)から情報をいただき、仕事で東上できない彼の名代も兼ねて、出かけてきました。13時前に、仲間には、ランチといいながら、会社を抜け出し、一目散にりんかい線の天王洲アイル駅へ、そこから三駅目の大崎で乗り換え五反田の山手線のホームから狙おうと思っていましたが・・・・。大崎のりんかい線・湘南新宿ラインの五反田側ホームは、既に鉄チャンが集結しており、JRの方が整理の為、立っている状態でした。乗り換えのために山手線のホームに立ってみるとなかなかいい空間があり、結局、かぶりの心配のないそこで撮影しました。私のほか一人しかいませんでした。13時29分。国鉄色のEF5861が姿を現し、東京総合車両センターの方へ走り去っていきました。急いで、駅の中で、そばを食べ、大崎13時45分発のりんかい線にのり、14時に滑り込みセーフで会社の自分の席に戻り、平然としながら、午後の仕事をこなしました。
一枚目は、今日の大崎駅進入のEF5861です。
二枚目は、5月24日成田線滑河-久住間 9036M特急あやめ92号です。幕張車両センターC1編成のTc189-514をはじめとした9連です。正面のエンブレムもなく幕も「特急」という味気ないものですが、C3編成が、先日、北長野に回送され、徐々に仲間を減らしています。幕張は、「あやめ」の257系化までは、183系の「あやめ」の運用を担当しており、前頭幕に「あやめ」が入っていそうなものですが、いつも「特急」幕です。「臨時」よりはマシとしましょう!
三枚目は、二枚目の写真と同じ日、同じ場所の454M Tc111-543をはじめとしたスカ色113系です。房総地区では、一部211系に置き換わったものの、まだ頑張っています。京浜東北の209系が置き換わったら、次のターゲットになるのではないでしょうか?
四枚目は、5月25日成田線佐倉-酒々井間 9035Mあやめ91号です。前日と同じ幕張のC1編成Tc183-1011です。

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