お城とゲテモノ訪問前に市電を少しだけ

1957年夏の電車を求めての旅の一端はデジ青【3992】で紹介している。そこでは熊本城の雄姿を掲載した。熊本に行こうと思ったのは奥野師匠から熊本電鉄には63スタイルの木造車、それも戦争中の統制で出来た代物があるとの話を聞いたのが発端であった。そこで熊本を折り返し点とするコースを辿ることにした。また京都の城には天守閣がなく、日本一と言われる熊本城の天守を見ることも目的の一つにした。恐縮だがその姿を再掲させて頂く。

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2JTBの時刻表を繰れば学生割引(国鉄線片道100㌔以上50%運賃)に及ばないが、連帯航路は2割引とありこれだ!となった。そこで讃岐、土佐の電車巡りを済ませるや一路伊予へと向かった。松山市内で夕食をとり伊予電で高浜港に向かい、待合室のベンチで寝ることにした。明朝5時ごろからざわつきが始まったと思ったら入港があり、多勢の乗船客の下船が済み、案内に乗せられ後部デッキの中央ベンチで日の出をめでつつ一路別府に向かった。別府港着は10時50分、腹が減っては戦が出来ぬと飯屋に飛び込んだ。そして大分交通別大線を乗り降りを楽しみ、15時頃には車庫訪問を終え、後は駅弁を抱えて大分17時20分発の豊肥本線に乗り西に向かった。道中、竹田を前にしての夕焼けが記憶に残っている。熊本着は21時20分ごろで、下車するや銭湯を探したが見付からず、商人宿のやり手婆さん相手に素泊まりを280円に値切って一泊した次第であった。

京都を出る前に奥野師匠から熊本市電は明治末期に開通した軽便鉄道を標準軌化の上、大正13年に電化したものだと教えられていた。旅館を出る時、熊本電鉄の乗り場(藤崎宮前)への道のりを訪ねたところ、市電1番の子飼橋行に乗り藤崎宮前で降りたら直ぐわかると、ついでに熊本城に行く道のりを聞けば電車で車掌に聞けば良いと教えてくれた。となったので街路を歩いて藤崎宮に向かったところ、どうも町の様子がおかしいことに気付き、行き交う人に尋ねたところ昭和28年梅雨時の大雨で白川の決壊があり、橋は流され市街地は水浸しになったことを知った。

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うどん1杯腹に納め、大江の車庫に寄ることなしで城を目指した。めでたく念願を果たし熊本電鉄訪問となったのだが、その前に道端で出会った市電を紹介をしておこう。創業期の4輪車10型が健在で、ボギー車と混在して走っていた。すでにビューゲル化されていたが木造車で、戦災ではどうなったかの話が聞けず残念である。これとは別に昭和生まれの木造車60型(60~69号)も健在であったが、1次車は昭和5年に5両を田中車両が、4両を昭和16年と18年に分け、1両を19年の計5両を汽車会社が納入している。戦争中の車両調達に苦労したことが偲ばれる。その他、戦前期には中古車をかき集め新線開業などに対応しているが、実態は調査することなしに終わっている。戦後は半鋼製車70型4両を若松車輛で、同じく80型5両を木南車両で、共に昭和23年に新造している。その時は台車や機器は寄せ集めらしく、後に標準化したようだ。

ボギー車は120型(日立製)がトップバッターで、その後も順調に増備を重ねている

熊本最初のボギー車は昭和24年日立製で、車体長は12.8M、定員80(32)人

ボギー車130型は昭和24年広瀬製で、車体長は12.8M、定員80(32)人

120型と同寸、同定員の広瀬車両製造。日立製は6両だがこちらは5両である。

120、130型と同寸、同定員150型は広瀬製。客室窓寸法が広く、中央扉が片引きとなった

160型は150型と同一ながら、163号は冷房試作車となり、4桁ナンバーになった

160型は150型と同一ながら、163号は冷房試作車となり、4桁ナンバーになった

180型は昭和29年新木南5両東洋工機2両の製造で、全長は12,000、定員は70(28)人と小ぶりだ

180型は昭和29年新木南5両東洋工機2両の製造で、全長は12,000、定員は70(28)人と小ぶりだ

続き番号の188型は2両が東洋工機の製造、寸法、定員共に180型と同じ

続き番号の188型は2両が東洋工機の製造、寸法、定員共に180型と同じ

上記以外に170型2両があるが、当日にお目にかかることなしであった。

お城とゲテモノ訪問前に市電を少しだけ」への3件のフィードバック

  1. 乙訓の老人様
    毎度貴重な記録を有難うございます。熊本市電の単車は撮ったことはありませんが1965年2月の川尻線廃止2年前の1963年3月に乗車したことがあります。全車4輪単車が郊外専用軌道を体を大きく揺さぶって走っておりました。名古屋の下之一色線とも似たムードがありました。また、1970年5月に廃止された春竹線の南熊本駅前で大阪市電900でしたか半流線型を撮っています。次に熊本城ですが、日本最後の内戦と言われた西南戦争までは天守閣も残っていたと聞いております。小西行長の宇土城の天守を移築(真偽のほどはわかりません)したといわれる宇土櫓は残っていますが今回の地震でどうなったかはまだよくわかりません。日本に天守閣は12残っているそうですが、このうち伯備線の駅からえらい遠く離れた備中松山城と彦根城は訪問したその日は改修中でテントで覆われていたりして残念ながら見ることができませんでした。

  2. 乙訓の老人様
    貴重な写真をありがとうございます。
    お見せ頂いた車両達は約59年経過した今(2016年4月現在)、そのほとんどがすでに見られなくなっていますが188形189号は1090形1097号として毎日活躍しています。
    150形4両のうち3両が電動貨車50形となり昨年まで52号53号が残っていました。
    160形3両は1060形となり1063号のみクリームとブルーの復元塗装で予備的存在で残っています。
    180形7両は1080形となり1081号1085号が毎日活躍しています。
    188形2両は1090形1096号1097号となって毎日活躍しています。
    当日お目にかからなかったとの事 170形2両は1969年に長崎電気軌道に譲渡され601形となり601号が現存しています。保存車的な存在でいつもは浦上車庫にいますが5月中は募金箱を乗せて《がんばれ!!熊本号》として一般運用されているそうです。

  3. 2年前でしたでしょうか、京王電車館にお付き合い頂いたお二方からコメントを頂戴いたしまして有難う御座います。熊本は社会人となってからもお邪魔する機会に恵まれましたが、その殆んどが別府港、熊本空港から阿蘇経由で市内に入るコースで、翌日ゴルフとなれば市内遊覧?で単独行動ができました。大阪市電900型が入った時はアレッと思いましたがその内に消えました。200型をモデルにした350型はとても洗練されたスタイルだと思いました。ワンマン改造の後で車号が4桁になったのでしたか?いや冷房改造の時でしたでしょうか?記憶にありません。大阪市電の増備と一部路線廃止で4輪車が全廃となったようですね。その結果、熊電の乗り場が変わり整備されましたね。その姿はバスの窓から確認しました。1980年代に入ると宮崎で巨大リゾート開発があり、それを目的とした伊丹からの社用族のコースに変化が見られ、熊本行きはなくなりました。テッチャン復活3年目で熊本に行くことが叶いました。いずれ・・・・・。

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