冬 早朝の大嶺支線 客車1両の列車が行く 

 総本家青信号特派員さんが「客車のある風景 ~フィルムの片隅から~」を連載されていて、その〈5〉で最短編成として大嶺支線について書かれていました。tsurukameさんがその写真をデジ青に発表されていると知りました。私もO君のことで思い出すのが美祢線南大嶺駅周辺で大嶺支線の列車を撮ったことです。O君の年賀状にあった写真の撮影場所のことについて投稿記事の冒頭に南大嶺でのことに少しばかりふれましたがまだ未公開でしたので、その時に撮った写真をお見せしたいと思います。たった4枚しかありません。初公開であります。そんなたいそうな写真ではありませんが。

 まずは最初に撮った写真です。

 機関車はバック運転でした。デフ板にJNRのマークがあります。早朝なのでシャッタースピードが遅く自然と流し撮りになりました。

バック運転のC58が客車1両を引いて走り去って行きました。シャッターを切ったもののちゃんと写っているか撮ったすぐはわかりません。まあ、フイルムカメラではしゃあないです。

走ってくる方向から美祢方面からやって来たセキ連結の貨物列車です。

この列車は先ほどの美祢駅からのセキ連結の列車が南美祢駅から機関車を付け替えてバック運転で大嶺へ向かったかもしれません。次の長門市行に乗るまでのしばしの撮影行でした。

冬 早朝の大嶺支線 客車1両の列車が行く 」への12件のフィードバック

  1. どですかでん様
    私も総本家青信号特派員さんの最短編成の客車は興味を持って見ていました。はて自分は1両だけの客車列車は撮ったことがあるのかと自問してみましたがとんと記憶にないのです。そこへ相変らずアクティブな、どですかでんさんの写真を見せて頂きました。大嶺支線どころか美祢線自体乗ったことがないのいでコメントするに値しませんが、こんな風景があったのですね。ところでどですかでんさん昔、南海のサハ4801とかいう客車が紀勢本線の新宮あたりまで乗り入れていたと思いますが、これは南海の和歌山市から国鉄の東和歌山(現在の和歌山)までの間上り、下り共にC58かC57が客車1両を引っ張っていたのでしょうか。なお、南海本線上は特急として2000の3連がサハ4801を連結して走っており撮影したことがあります。時々天リウのオハフ33に変更されたこともあるようです。

    • 準特急様 コメントありがとうございます。短編成列車の写真んは多分これしかないのです。美祢線もO君が誘ってくれなかったら乗っていないと思います。なんせアクティブでなくなまくらですから。南海の客車は難波駅で見たと思います。南海電車はあまり乗ったことが無く、乗るとしたら祖母と学文路大師に行くときぐらいです。たぶん、その時に見たことがあるとのでしょう。ちょっと話はそれますが、学文路の駅には川砂利(紀ノ川の川砂利)を貨車に積み込む設備がありました。そして高野線の下をくぐって紀ノ川までトロッコ(トロッコと言っても簡単なケーブルのようなもの)があったのを覚えています。しかし、ほんとうにあったのか一度調べてみたいと思っています。あまり、南海電車にはなじみがないのですが、最近は新今宮から南海に乗り換えてなんばに行く回数が多くなりました。ちょっとだけですが違う電車に乗るのは楽しいものです。しばらくは南海電車乗り換えが続くようです。

      • 準特急様 あれからネットで調べていると「鉄道ホビダス」のところで「最短の蒸機急行列車」として写真と共に記事がありました。意外と客車1両の列車はあるものですね。

        • どですかでん様
          早速の調査、報告有難うございます。気になっていたので1964年10月の交通公社時刻表を見てみましたが、例えば串本発113列車、新宮発115列車、亀山発の117列車は和歌山市、天王寺行きで東和歌山(現和歌山)で到着後C58、C57あるいは後にDF50が直ぐに1両か数両なのかよくわかりませんが、そのまま直ぐに和歌山市に向かい、残った数量の客車をED60かEF52が牽引して天王寺に向かったものと思われます。客車の準急「南紀2号」と週末準急の「くろしおも」難波、天王寺行きでこれらが東和歌山から蒸機+客車1両で和歌山市まで行ったことが想像されます。お騒がせしました。

  2. どですかでん様
    C58のバック運転の写真を見て、私も同じような光景を撮っていたことを思い出しました。高校生の頃によく遠出感覚で出かけていた草津転向給炭所でのひとコマです。昭和42年12月9日 草津線をC58がオハユニ61を牽いて通り過ぎました。草津線にはまだC57が牽く客車列車が残っていた時代ではありますが、信楽線も気動車化されていましたので、多分回送列車だろうと思います。写真右端にかすかに写っているのは梅小路所属のハチロクで、浜大津から野洲あたりまでの入換えに出張して草津で休憩していた頃です。客車1両だけの列車に乗ったのは倉吉線の混合列車くずれのオハニ61 1両の列車だけでした。

  3. 西村雅幸さま
    草津線でオハユニ61とは珍しく、亀山か伊勢区の吹田入場回送なのでしょうか。であれば草津から吹田までEF58が牽いたとか、妄想が拡がります。昭和42年といえば加太詣でをしていた頃ですね。草津線のC58といえば、定期運用では亀山→貴生川間貨物レ補機~信楽線貨物往復~再び補機で帰区というのがありましたが、草津には来ていなかったと思います。当時夕方に亀山発草津行727レというのがあって、加太乗車時にC58牽引を現認したものの、草津ではD51が給水に離れて行ったような記憶がありますので、C58がどこまで牽いたのか判然としません。

    • 1900生さま
      昭和46年になりますが、亀山発草津行きの727列車をC58が牽いたのは柘植までで、草津線内ではD51に交代していました。
      「ピク」に出ていた運用表によりますと、亀山⇒柘植727レ(駐泊)⇒草津721レ⇒貴生川単762レ⇒信楽591レ⇒貴生川592レ(逆向き)⇒草津単761レ(逆向き)⇒柘植726レ(駐泊)⇒亀山782レ(後補機)となっており、行きと帰りに柘植で夜を明かす二泊三日の行程だったようです。朝の721レ、夕方の726レともにC58を確認しております。
      西村様が撮影されたオハユニ61を引くC58は逆向きで、昭和46年とは違う運用だったと思いますが、小生には昭和42年の運用は分かりません。中途半端な追跡で申し訳ありません。

      • 紫の1863さま
        貴重な情報を有難うございました。小生が記した運用を見たのはいつの頃だったかもう忘れましたが、後年には草津へ顔を出す運用もあったのですね。やはり柘植でD51に交代していましたか。朧げな記憶は間違ってはいなかったようです。727レには多分昭和46年(47年?)の夏に、カメラとテレコをぶら下げて柘植→加太間を撮り(採り)歩いた帰路に乗車したもので、中在家信号場通過時に空転を起こしたのを録音しています。加太駅で727レを待つ間に先行の貨物レが発車してゆきましたが、停車中に機関士の方たちと録音していることを話したことがキッカケか、発車時に良くいえば「大サービス」悪くいえば「余計な」長時間の汽笛を鳴らされ、マイクからの音は割れてしまいピークカット操作に慌てました。30秒近く鳴らされ(いや鳴らしてくれ)ました。まだ日常的にSLの牽く列車にも乗れ、乗務員とも親しく話ができた古き良き時代でした。

  4.  客車1輌の列車は東北の日中線という短い盲腸線にも走ってました。C 12にスハフ43特別三等車だった特急用客車が流れ着いて仕事をしてました。熱塩というのが終点で機回しを撮っていたことがありますが、写真が出てきません。
     南海サハ4801の座席は廃車後五年程、自宅に置いていたことがあります。背もたれを中心に両側にシートという一脚で、部品販売で買ったものの、直角の着座姿勢では休息もできず持て余しました。
     部品販売では現ヒラパーへ京阪特急の鳩マーク の抽選販売に行ったら1900生さんが売場におられたことがあります。抽選には外れました。

    • 訂正です。スハフ43はスハニ35が正しいです。特急用であることは同じです。一方向の固定クロスシートで座席ごとに窓があり、駅弁が買いやすかったでしょう。

      • C12とスハ二35でしたら川俣線ですね。
        亡父が購入していたシーナリーガイドという本に載っていて、昨年C12の模型を手に入れたので連結して楽しんでいます。

    • 大阪通信員さま
      えっ、そんなことがありましたか。それはどうも失礼いたしました。鳩マークの抽選販売ということは昭和54~55年頃のことですかね。(57年頃にもやったような?)ひらかたパーク(これが正式名称だと今でも思っとります)の管理部署に居た同期生からイベントの相談を持ち掛けられました。当時流行りかけていた「部品バザールをやりたいが価値(値段)がわからん、お前はマニアやからわかるやろう」と強引に引きずりこまれ、値決めをするハメになったものでした。とはいえ個人的価値観だけでは決められず、業界レベルを調べたりしましたが、基本的には皆さんに喜んでもらえるようにとやや低目の水準に抑えることにしました。しかしこれは却って業者さんの思うつぼにハマったようで、この経験から以後に携わった販売会では逆に強気の値決めをしたものです。どちらが良かったのかわかりませんが、本当に欲しい人に買ってもらうというのは中々難しいものだということを経験しました。それはそうと大阪通信員さまが「鳩マークが欲しい」といわれるのは勅語にも値するものであり、(ここからはオフレコですが)事前に一言連絡してもらえていたなら・・・、と今更ですが悔いが残りますね。

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