阪急900型

私のような者でもよければ出します。但し、白黒です。コメントでもいいのですが、2枚の載せる方法がわからないので別項としました。赤い特急マーク付きのこの電車は神戸や大阪に行く時はいつも速いなと思っていました。残念ながら私の撮影時の900型は普通列車の運用ばかりでした。そして最晩年は20両全車が920,800型6~7連の中間車になっていました。ファーストナンバー900は中間電動車で残っていました。現在は116とともに正雀に保存されておりイベント運転で見た方もおられると思います。

 

1966年12月2日今津線仁川進入の今津行き900です。▼

 

1968年10月21日 六甲。中間電動車となった900。▼

 

 

 

 

阪急900型」への15件のフィードバック

  1. 準特急様
     懐かしく、貴重な記録を有り難うございます。
     900型も本線の花形の時代から、晩年は今津線に回ってきていましたね。今津線にはリベットが沢山の600型(イボ電と呼んでいました)も走っていました。現在今津線は全車6連ですが、当時は4連ですね。仁川駅からのシーンは変わりませんが・・
     仰るとおり900は正雀で原型に復され動態保存され、レールウェイフェスティバルには、p-6と共にファンに乗車展示されています。ちなみに座席は2800の流用らしいです。
     武漢発ウィルス騒ぎでいろいろ大変ですが、一日も早く収束して貰いたいものです。

    • マルーン様
      今津線は朝の梅田行き準急か急行かよく列車種別がわかりませんがそれや競馬臨時列車を除くと各停ばかりでその意味では神戸線の花形特急時代とは別世界の走り方でした。そしてこの900先頭を今津線で撮った1967年頃は500、300あるいは310で320、380型を含め小型車の5連と900、920型等が4連で共通運用で走っていたと思います。600、810型、試作車1000系の4連もよく見かけました。そしてこの後に900型は全社国鉄でいうモハ、サハと同じ中間電動車、付随車に改造されています。まあ趣味的には面白い時代でした。ところでかつてこの辺りにお住まいであったマルーンさんの娘さんもこの踏切を渡り、左に少し見えている弁天池の横の線路下の道を通学に利用されたのではないでしょうか。

  2. 準特急さま
    阪急900系は、昭和50年、宝塚市立長尾小学校に中山~山本間電車通学していた当時、よく乗りました。撤去された乗務員室に陣取り、一駅車掌気分にひたっていました。
    その後、今は亡き宝塚ファミリーランドで解体部品セールがあったとき、始発電車で駆け付け、913の側面の社紋と車番がそろったものと車内の検査表記を購入しました。913は、モーターも外され付随車になっており、920系の中間に903+913のユニットを組み運用されていました。
    名車だったのに、晩年、中間車に封じ込まれ、残念な車生でしたね。

    • でかんしょ祭り号様
      運転台が撤去された場所に入り込み車掌気分になった経験は皆さんおありと思います。でかんしょさんのお宝とは番号が前後賞ですが中間付随車となった914号です。同じく1968年12月2日の六甲での撮影です。

      • 準特急先輩
        ありがとうございます。万博ステッカーが懐かしいですね。そーいえば、1000~1003も中間に封じこまれてましたね。

  3. 準特急 様 マルーン 様
    現役仁川駅ユーザーです。古い写真拝見させて頂きありがとうございます。私が仁川に移ったのは1985年の秋ですからすでに35年が経過しました。線路の形は今も同じです。左に見えている弁天池の小径は震災後立派な遊歩道になり一部は公園になり我が家の子供たちの格好の遊び場でした。私自身も毎日通勤で利用しています。出発信号はおそらく今も同じような感じです。ただ架線柱の右側の煙突?みたいなものは記憶にありませんが銭湯か何かでしょうか。

    • 893-2様
      弁天池のやや北西より~撮った写真です。後ろ2両は320か380かよくわかりませんが前3両の500+300+500含めて今津線では小型車両ですが最大5両編成でした。煙突は風呂屋(銭湯)です。右の池田銀行では阪神の村山実投手のサイン会が行われたことがあります。池のほとりの遊歩道は電車から見たことがあります。今から思えばのんびりとした時代でした。

      • 準特急 様
        すごい写真ありがとうございます。こんなところに銭湯があったのですね。池にボートが浮かんでいるのは話にしか聞いたことがありませんが、貸しボート屋さんが復活するとの噂があり池の畔にボートが積まれて期待していたのですがボート屋さんの方が体調を崩してしまいそのまま帰らなかったので幻に終わってしまいました。今もボートだけは積まれたままになっています。池田銀行は駅前にありましたね。今も再開発のビルに入っています。遊歩道?(生活道)は昔セメント舗装でした、ガードレールは薄ら記憶があります。写真は阪急仁川マンションの敷地からでしょうか。画像の左あたりに今も浮御堂があります。

      • 脱線ついでにお邪魔します。弁天池は、私も準特急さんに教わって行きました。ところが行ってみると、天気が悪く池の水が減ってゴミが露出していてボートどころではない残念な状況でした。準特急さんの真似をして待っているとやって来たのが4207で、アオリ戸を開けたまま走って行きました。こんなものが来るのだったらもっと近寄っていればよかった。この日は600の4連×2本と1000の4連が走っていました。

        • 井原 実様
          私も今津線で10年近く通学しいろいろな車両を見たり乗ったりしましたが、この様な車両は見たことがありません。西宮北口の車庫では事業用車やだるまさんとかいう足回りのない廃車体は見たことがあります。失礼ですがちょっと変わった車両がお好きな井原さんに神様がめぐり合わせてくれたものと思います。今はどうかわかりませんが弁天池が干しあがったような状態はみたことはあります。ありがとうございました。

          • 準特急さんに教えていただいたおかげです。こちらこそありがとうございました。本当は「おっぱい電車とボート」を目当てに行ったのですが。

  4. 井原 実様
    「おっぱい電車」なる専門用語(?)を使われるとそんなんあったんかなーと思ってしまいます。ベンチレーターの形がおっぱいに見える600型と思います。1969年3月4日雪の日に仁川到着の宝塚行き655です。

    • ありがとうございます。お椀を伏せた形の通風器が屋根上に並んでいる様子が犬のおっぱいに似ていることから、300他をおっぱい電車と呼んでいると教わったのは準特急さんからだったと記憶していたのですが、藤本さんかもしれません。いずれにしましてもDRFCの古くからの言い伝えだったと思います。
      4207と同日に撮影した ←651+601+650+600 です。600は晩年に伊丹線でも撮りました。

      • 井原 実様
        この600型は各地に同じタイプの車両ができたことで有名ですが、私の記憶では戦後は主に宝塚線専用で今津線は500型中心の時代が長く続きました。古い写真を見ますと神戸線でも使われていたようです。井原さんがおっしゃられる通り最後は伊丹線で610型と4連を組んでいました。阪急は小刻みに形式が変わっていましたので600と610は外観上は全くの別物です。神宝線の800と810、京都線の700と710も別物です。ところでお椀といえばこの弁天池の歩道あたりからは阪神間のシンボル甲山がよく見えます。電車と一緒に撮るには甲陽園線の方がいいようです。309mの小さな山ですが昔はトロイデ式の死火山と聞いたような気がしますが今はそういうことは誰も言わないようです。

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