遠江に消えた鉄路・・・いま、それは  光明電鉄の巻

 ホームとトンネル跡だけで話は簡単に済むと思っていたのだが・・・昨年の10月31日から始めたのであるがなかなか奥が深くて長くかかってしまった。

 昨年の東西会員交流旅行は天浜線、かつての国鉄二俣線である。なかなか行くことができなかった路線である。東海道本線との接続がとにかく悪いのである。これは今でも同じで東京へ行くときに乗ろうとして考えてみたがうまくいかない。今回も早く出発して新所原から集合場所の西鹿島に行こうとした。残念!接続が悪くてダメ!結局のところ、浜松から遠鉄でということになった。

 

 西鹿島近くの天竜川橋梁での撮影や天竜二俣駅での転車台ツアーなど、皆さんと一緒の行動以外はどうするか。なかなか決まらなかった。天浜線沿線で気になるのは湯口先輩が訪れた静岡鉄道秋葉線。その時の、湯口先輩の写真を見ていると何とも言えないホッコリとした気持ちになる。廃止されてからもう57年になる。今はどうなっているのだろうか。あまりにも時がたっているので期待できないが行ってみよう。そしてグーグルMAPで天竜二俣駅辺りを見ていると「光明電気鉄道二俣口駅跡」とある。これも興味深い。駅から近いのでホーム跡は簡単に見ることができるようだ。ネットで見ているとトンネル跡もあるようだ。ところがあまり詳しく廃線跡を調べるでもなく、物ぐさを決め込み、本やネット上の写真などを漠然と眺めるだけで出発したのである。ぶんしゅうさんがせっかく現地まで出向いて投稿された案内をしっかり見なかったのがあだとなり、現地でウロウロしてしまった。まあ、それはそれでしかたがないこと。

 国民宿舎奥浜名湖に泊まり、次の日は天浜線気賀駅から思い思いの所に行くことに。天竜二俣駅でさらに掛川方面へい行く人と別れ、下車をする。昨日、行ったのであるが再び光明電鉄の二俣口駅跡に行ってみる。昨日はあまり時間がなかったが、今回は駅跡を出発点として、トンネルの遺構があるらしいので探してみることにした。

光明電鉄の線路は多分写真の家族連れが歩いている方向だろう。とにかく、同じ方向にトンネル遺構を探しに行くことにした。ところがである。十分に下調べをしなかったのと、地図などの資料を持たずに行きあたりばったりで、一度だけ見たネットの廃線跡めぐりの写真をあやふやな記憶をたどりながら探したのである。その結末は・・・

 二俣口駅跡から黄色の矢印のように歩いた。ホーム跡の向きから線路があった方向は検討が付くのであるが、もはや家が建っているのでわかりにくい。多分、川を渡っているはずなので橋台跡でもあるかと探してみたが、そんなものはなかった。行く手に山があるので、そこにトンネルがあった気がするのであるがわからない。そうこうするうちにお寺の前に来た。立派なお寺である。山の斜面を利用して墓地がある。まさか墓地の下をトンネルを掘って、電車が走っていたとは思えないのだが・・・結局、トンネルは発見できなかった。

 見つからなかったので当てずっぽうに山が見える方向に歩いてみたが、なぜか二俣城跡辺りに来てしまった。そして二俣本町駅に着いてしまった。これでは光明電鉄のトンネル跡があろうはずがない。まあ、まもなく列車が到着するので撮影をすることにしたがちょっと撮りにくい。何とか撮影をした。

 トンネル跡はあきらめて次の訪問地へ向かうために天竜二俣駅に戻った。列車に乗ろうと改札口を通る時にふと見ると、駅事務所の窓に案内図があり、廃線跡の所も書かれている。

これを見ると、「なんや、さっきにとおったところやないか。」ということでもう一回行ってみることにして、まず天竜警察署の所へ行ってみることにした。ところがトンネルがどこにあるかわからない。近くにおられたおばさんに聞いてみると、「わかりにくいので案内しますよ。」ということで案内していただいた。行ってみると確かにわかりにくい。

上の写真をご覧いただくとわかりにくいのがよくわかると思う。そして、その反対側もわかりにくかった。この反対側は以前はトンネル内に入れたのであるがいたずらをされるので入れないようになったとのことである。下の写真がその反対側のトンネルのものである。

左側に墓地が写っているが、新しい墓地のようだ。電車が走っていた時はなかったのであろう。下の図の赤い線が終点の二俣町駅までの線路があった所と思われる。航空写真をよく見ると線路跡の赤い線(二俣口駅跡から南側のトンネル入り口までの区間)に沿って家が並んでいるのがわかる。区画整理された土地に建てられている家であればこのような線路に沿う並び方はしないのだが、

ところで、光明電鉄について二俣口駅ホーム跡にあった説明板は下の写真のように書かれてあった。そして、電車の走行写真もあった。栄林寺前を通る写真である。

せっかく栄林寺の所に来たのであるから、走行写真をしっかり見て、頭の片隅にあれば違った見方ができたのではないかと思う。

 光明電鉄は二俣口駅から下の図にある赤い線のルートで終点の二俣町駅まで線路があった。説明板にあるように鉄道建設の目的はさらに北側にある久根鉱山(現在の佐久間駅東方2.8kmの所にある銅鉱山)の鉱石や木材の運搬にある。創立趣旨書には「国鉄中泉駅(現磐田駅)から磐田郡光明村(現浜松市天竜区の区域)に至る電鉄を敷設する。」とある。ところが最初に開業したのは二俣町駅で、これでは鉄道の目的は達成できないであろう。せめて「船明(これはふなぎらと読む。)」まで線路があればなんとか目的はかなうと思うのだが。

 二俣町駅から船明までの延長線ルートは下の地図にある赤色の破線のように推定されている。地図で見ると船明は天竜川の東岸にある。天竜川上流から水運で運ばれてきた物資を鉄道に積み替えるにはもってこいの場所である。

その船明であるが民俗学者宮本常一著の「私の日本地図 天竜川に沿って」には以下のように書かれてある。

「また、天竜川を下す筏夫は、二俣のすぐ北にある船明の者が多かった。この川すじの材木のほとんどは船明の者が筏にくんで流したといわれている。その起源は平安、鎌倉のころまでさかのぼることができるのではないかと思う。天竜の奥には遠山荘、加志保(鹿塩)大河原などというところがある。山中にありながら荘園として成立していたのは特殊物産のあったためである。特殊物産というのは榑木(注:くれきと読む。)のことである。楢の妻木などとも言っているが、屋根にふく木で、それを貢納した。その木を筏にのせて船明まで運び、そこで川からあげて棚に積み、昔は京都まで送ったのである。船明の筏夫は天竜川ばかりでなく、信濃川の筏流しなどの仕事をした。」

これからわかるように船明は材木を含め物資輸送で重要なところであったことがわかる。だから光明電鉄はなにがなんでも船明まで伸ばしたかったのだろう。その光明電鉄のことであるが詳しいことが書かれてある本がなかなか見つからなかった。ついに見つけた。この本は大阪府立中央図書館に蔵書している。それは静岡新聞が出版した森信勝著の「静岡県鉄道興亡史」である。この本によると現磐田市出身の財産家田中寿三郎が天竜川東側の周辺部の有力者に地域の広域開発と鉄道敷設の重要性を説いて回ったことが光明電気鉄道敷設のきっかけとなったと書かれてある。田中寿三郎は明治末期に朝鮮半島で仕事をしていたが帰国後、光明電鉄実現に向けて力を注ぐ。大正12年7月に光明電気鉄道株式会社の敷設免許が許可された。周辺地域の有力者の支持を次第に受けていったのであるが一部の有力者には構想はいいのだが大資本が参加していないのでいずれ挫折するのだろうと反対されていたようである。それは久根鉱山の鉱石運搬をして稼ごうとしているのに鉱山を所有している古河鉱業は出資していない。当初計画の船明まで開業したとしても古河鉱業にとってはメリットはなかったのであろう。それもそのはずである。船明から天竜川の上流にまだ29㎞ぐらいのところに鉱山があり、船明までは帆掛け船で運んで積み替えとなるのだからである。

 最終的には飯田線で運ばれるようになるまでは資料(地質ニュース481号 古い写真から 天竜川の鉱石運搬船)によると絵にあるような一艘4トン積みの帆掛け船で運んでいた。

久根鉱山は最盛期には10万トン以上を生産していたということだから、数多くの船が 天竜川を行き来していたことになる。だから光明電鉄が久根鉱山の鉱石を運搬に目を付けたのはよかったのだが・・・

 

 船で下流まで運ばれた鉱石は東海道線天竜川駅から運ばれていた。また、今の二俣町鹿島辺りに陸揚げして、すでに開通している遠州鉄道で運ぶというルートもあったようである。遠州鉄道は大正12年4月に、現在の浜松-西鹿島間を改軌電化している。そのような状態であるから光明電鉄は開業しても不利と思うのだが、とにかく昭和3年11月に新中泉(現在の磐田)から田川(現在の天浜線豊岡駅辺り)までが、そして少しずつ延伸して昭和5年12月に二俣町駅まで開通した。しかし、昭和8年に裁判所から破産宣言を受けることになる。何とか破産は免れたが電気代を滞納した為に送電を止められ運転ができなくなった。そしてついに営業廃止となる。

 ところで光明電鉄が当てにしていた久根鉱山の鉱石運搬はどうなったかというと、昭和9年11月に三信鉄道が中部天竜まで開通した。これですでに開通している豊川鉄道、鳳来寺鉄道を通って豊橋まで鉄道が開通したことになる。中部天竜まで鉱石を運べば鉄道での運搬ができるのである。中部天竜までどのようにして運んだか。それは索道にて運んだのである。どのあたりに索道があったのかというと総本家青信号特派員さんが投稿した「地図を携えて線路端を歩いた日々 -16-」にある地図に記載されている。これにより鉱石運搬コストは大幅に下がった。

どう頑張っても船明までしか開業できない光明電鉄の利用ではどうしても帆掛け船で船明まで運搬するしかない。メリットがないのである。考えてみれば消えるのが当たり前のような鉄道であったようである。それが名前と不釣り合いな光明電鉄であった。

3 thoughts on “遠江に消えた鉄路・・・いま、それは  光明電鉄の巻

  1. どですかでんさん、
    ご苦労様でした。
    今までこんなナショナルのCMのような鉄道があったとは知りませんでした。
    言われるように接続が悪く天浜線にも乗ったことがありません。先日の旅行は絶好のチャンスだったのですがヤボ用で欠席してしまいました。クローバー会の企画を欠席して悔やんでいるのはこの旅行と大仏鉄道廃線跡ハイキングです。残念!

    • 光明電鉄でナショナルのCMを思いつかれたのですね。確かに「明るいナショナル・・・」のような感じですね。私はやはり奈良に住んでいるので聖武天皇の御后である光明皇后となります。天浜線に乗れなくて残念な気持ちよくわかります。とにかく乗りにくい路線です。国民宿舎奥浜名湖には2回目の宿泊です。最初は家族旅行で長野県の大鹿村にある温泉宿から途中、山肌にへばりついたような分校をロッジしたところで泊まり、とんでもない山道を1500ccのセダンで大人2人子供3人乗せての自動車旅行です。とにかくとんでもない旅行でした。二俣から天竜川上流に向かって鉄道を建設するなんてとんでもないことです。そんな感じがしました。

  2. 先日テレビを見ていたら、『きさらぎ駅』という怪談をやっていました。これはyoutubeでは有名な話で、ある女性が帰宅のため、「新浜松から最終電車に乗ってうたた寝をしていたら、40分以上停まらずに走り続けていて怖い」とSNSに書き込みをしたことで始まるミステリーです。やっと停まった駅名が『きさらぎ駅』という名前で、駅に続いてトンネルがあり、それを抜けると太鼓の音が聞こえた、と続きます。番組では、この『きさらぎ駅』がどこかを追求しますが、結果は『昔あった「光明鉄道」ではないか?根拠はきさらぎ駅に似た名前の駅があり、トンネルも存在するというのです。番組を見てこの投稿を思い出しました。
    因みに『きさらぎ駅』で検索すると容易に見つけられますから蒸し暑い夜はお試し下さい。

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