北海道は遠かった、広かった

私は学生時代に3回、その後3回の計6回津軽海峡を渡りました。学生時代の3回はすべて春休みで、厳冬期から雪解け期でした。残りの3回は雪の季節ではなく鉄道メインでもない旅でしたが、やはり冬の北海道の印象は強烈で、もう一度流氷を見てみたいナアなどと半世紀前のことをなつかしく思い出しています。特派員殿のすばらしい連載投稿を見るにつけ、当時 ある日は仲間とともに、ある日は単独行動で思い思いに均周を手に道内を巡った中で、あまり皆さんが訪ねておられないであろう鉄道も紹介しておこうと思い立ちました。とは言え、いざネガやスライドを出してみるとカビや変色もあって見苦しい写真が多く、お恥ずかしいのですが、それは気にせず投稿させて頂くことにします。多分3回から4回の連載になるのではと予想しています。

京都から北海道へは東京まで新幹線で行くとしても、上野から随分長い時間をかけて青森へ、そして青函連絡船と1日がかりでした。それだけに乗船名簿を記入し、荒れる津軽海峡を渡ると「はるばる来たぜ函館へ」という実感がありました。連絡船の売店でも売っていたように記憶していますが、まず「道内時刻表」を買うのがお決まりでした。仮駅、乗降場も漏れなく書かれており、バス路線図やバス時刻表は大変重宝しました。3回目に渡道したときの、昭和50年2月号の道内時刻表が手元にありますので、その巻頭地図を載せておきます。

鉄道弘済会 昭和50年2月発行「道内時刻表」より

運炭を役目とする国鉄支線や私鉄の多くがすでに消滅していたとは言え、昭和50年にはまだ多くの路線が健在だったことがわかります。

では第1回目は「三美運送」からご紹介します。昭和46年3月9日に訪問しています。美唄から美唄炭山までは三菱鉱業美唄鉄道があり、4110が活躍しており有名でした。一方美唄から南美唄までの3.0Kmの国鉄支線があり、その南美唄から先 三井美唄鉱業所までの1.2Kmの専用線がありました。訪ねた頃には、国鉄の盲腸線の旅客輸送は廃止されていて貨物線になっていました。わざわざ三美を訪ねたのは、タンク機関車B6がまだ動いていたからです。前夜は札幌の「タイムスホステル」に泊まり、美唄駅でリュックを預け(40円)バスで南美唄に向かったようです(片道20円)。

昭和46年3月9日 南美唄 三美運送構内

この日は1号機(2代目)に火が入っていて、元気に走り回っていました。

1号機のプレート  三井の社紋入り

入換えに励む1号機

構内はきれいに除雪されていた

この2代目1号機は、1905年ボールドウイン製の 省2500型2649号機で日本甜菜製糖士別工場から美唄に来たカマでした。ここにはもう1両のB6がいたのですが、ツララの下がった機関庫の中にいました。

庫の中の2号機

この2号機も2代目で、同じく日本甜菜製糖士別からやってきたカマです。但し生まれは同い年の1905年ですが、ノースブリティッシュ製で省2120型2248号機でした。もう予備機になっていたのでしょう。

国鉄機が石炭を満載したセキを取りにやってくるということで、待っていましたら単機でD51がやってきました。岩見沢一区のD51328でした。

D51328

セキ群に連結

出発準備完了

このD51328ですが、戦時型でもないのに船底テンダーです。更に煙突を見るとギースルエジェクタ機のようです。この日の三美での写真はここで終わっていて、この逆行の発車シーンを写していません。帰りのバスの時間が迫っていたのか、道内も1週間目で疲れていたのか、さっぱり覚えがありません。この日は札幌に戻り、円山ハウスで一泊し、翌日は真谷地鉱業所に行ったようです。

グーグルのストリートビューで最近の南美唄の様子を見てみると、炭鉱街の中心にあった三井劇場の建物が残っていたり、線路跡なのか三井通りという立派な道路があったりと、それなりに往時をしのぶことができます。僻地の日曹炭鉱や雄別・尺別炭鉱のように原野に戻ったわけではなく、業態を変えて人の生活が感じられ、少し安心しました。北海道や九州の炭鉱ではまだ採炭が行われ、長大な石炭列車を見ることができた最後の時代でした。孫たちに石炭を見せてやろうと思っても、日常、身の回りでは石炭を見ることも触ることもできなくなりました。

では次回をお楽しみに。

 

北海道は遠かった、広かった」への7件のフィードバック

  1. 運炭鉄道の貴重なカットで感激しております!
    三美の庫内の鮮明な写真は、見たことが無いです。
    有っても暗くて不鮮明だったり、情景写真で極端な露出だったり・・・
    模型ファンには、苦しいモノが多かったのです。
    シリーズを期待しています!

    • 廣瀬様
      早速のコメントありがとうございます。私も模型に手を染めています(いました)のでお気持ちはよくわかります。今のデジカメであれば手あたり次第写真に収めているでしょうが、当時の貧乏学生にはフィルムとその現像費用はバカにならず、どうしても車両中心で、情景写真までは残せておりません。北海道の私鉄、専用線で少し情景写真があるのは、日曹炭鉱、雄別炭山、大夕張炭山、尺別、夕張鹿の谷ぐらいです。このHP上ではお互いにメールアドレスは公開できないルールですが、右上「問い合わせ」から入って頂いて管理者経由であれば連絡しあえますので、貴殿のメールアドレスをお教え頂けば、写真データを送信することは可能です。

      • 西村様
        願っても無い事です、早速管理者様にMAILさせて頂きました。

        三美や、日曹の風景を再現したいと夢想してます。写真は、似てないですが、三美の2500を参考に製作した拙作です。TMS758に掲載頂いたモノです。

  2. 西村さん、お久しぶりです。
    三美運輸は、昭和42年9月8日と44年9月9日に訪れました。42年は1号機、44年は2号機が稼働していました。1号機です。

  3. 昭和42年9月8日の1号機です。
    1号機、2号機ともに個人の方が保存されておられますが、今後陽の目を見ることがあるのでしょうか?

  4. D51 328の船底テンダですが、水戸区に所属していた昭和33年頃、同じ水戸区のD51 1068と交換していました。
    常磐線では石炭の使用量が多く、ストーカーを取り付けたD51がいたようですが、D51 1068もその仲間でした。テンダの交換はストーカー取付工事に関係していたようです。
    また、ギースルエジェクターは追分区に移動した昭和40年7月以降に、取り付けられた模様です。

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