飯田線 乗って 降りて 歩いて  ⑤

最後に水窪へ

天竜峡を15:12発の554Mで折り返し、天竜川に沿って小和田や中井侍など、本家・秘境駅を車窓から愛でながら南下します。最後に降り立ったのは水窪でした。

水窪は、③で紹介した大嵐の隣駅に当たり、昭和30年、佐久間ダム建設に伴う水没区間のため、あらたに別線建設された区間にある駅となる。

 水窪今昔① 駅前を見る。河岸段丘の上に建つ駅舎は改装されているが、そのままの姿だ。昭和の時代は、売店もあり、有人の駅窓口もあり、荷物を担いだ乗客が日陰で休んでいるのも分かる。いまは、もちろん無人駅で、下車した客も、すぐ迎えのクルマで立ち去ってしまうから、待合室に滞留することも無く人影が全くない。新しく建設された区間にある駅と言っても、地域の歴史は深く、縄文遺跡や中世の城跡もある。遠州と信州を結ぶ交易の古道である、“塩の道”も地域を通り、宿場町としても栄えた。天竜川とは水系が異なる水窪川に沿うため、飯田・伊那地方とは交流は無かったが、飯田線の開通により、あらたな交通路ができた。いまは、町村合併で、浜松市の最北端となった。人口は3000人ほど。

駅は河岸段丘の上にあるから、対岸の街へ行くためには、こんな急な石段を上下しなければならない。戻りの時は息も絶え絶えになった。クルマなら別のルートがあるが、歩きの高齢者では、もう電車に乗れない。▲▲階段を降りて歩行者専用の吊り橋を渡って、対岸の市街地へ。▲▲▲市街地は、“塩の道”に沿っている。

市街地の中心にあった、水窪郵便局で記念の押印。▲▲ “塩の道”は、急な石段となって街を抜ける。

17:05に到着した電車からは数人の高校生が下車して来た。水窪には、高校がなく、地域外への通学となり、特例として愛知県の公立高校へ県外通学も認められていると言う。  水窪今昔② 島式ホームは変わらない。以前は、山並みや市街地がよく展望できたが、今は木が繁茂して、展望が利かなくなった。電車は、クモハ51069とクモハ213-5001

以前に行った時に、電電公社の駐車場にボンネットバスの廃車体があるのを発見、交換時間を利用して撮りに行った。電源車のようで、後部にドアがあった。

水窪17:05発の特急「伊那路4号」で水窪を去った。自由席は数人、指定席に至ってはゼロ状態で、豊橋まで快適な旅とはなったが、約50年ぶりの飯田線は、予想以上に乗客数が激減していることを実感した。輸送密度は1400人キロ程度あるが、これは豊橋付近や北部の乗降数の多い区間も含んだ平均値のため、“秘境区間”は推して知るべしだろう。反対に高速バスの発達にも目を見張った。朝4時台から、飯田発なら約30分ヘッド、駒ケ根なら一時間ヘッドで、新宿行きがあり、名古屋方面もほぼ同様の頻発ぶりである。

 飯田線 乗って 降りて 歩いて  ⑤」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    一連の50年ぶりの飯田線探訪記、楽しく読ませて頂きました。実は小生も同じような想いから探訪(乗って通過するだけですが)していたことがあり、本長篠の田口線跡や大嵐の旧線跡に関心を持ったのも同じでしたから、ついコメントを投稿したくなりました。およそ①から順に記しますが、先ず駅や線路跡等の鉄道施設のみならず、途中下車して周辺の探索までされていることや、歴史まで入念に調査されていることに脱帽、敬意を表します。小生はせいぜい綺麗な景色を眺めながら懐かしんでいるだけですが。中央東線の115系スカ色としなの鉄道のスカ色・湘南色復刻車の撮影時に、運用のない日の乗り鉄として行ったもので、仮に直通するとすればその時々の前後の旅程から幾通りかの列車選択がありますが、小生は下りの豊橋8:11発511M天竜峡行~天竜峡12:33発225M茅野行に乗ることが多かったですね。上りなら上諏訪9:22発544M豊橋行に乗ったことがあります。推しはやはり511M~225Mで総本家様と同様2扉クロスシートの213系5000番代車ですね。544Mは飯田線北部(松本や上諏訪を含む)の輸送力列車に運用された313系3連を豊橋区に戻すための列車で、東京近辺からの日帰りに好都合のため、青春18シーズンには同キップの利用者の乗車が結構ありますよ。
    本長篠と中部天竜付近の旧線跡は通るたび窓から必死?で探しました。大嵐では水窪側トンネルの横に少し旧線跡と思しき用地がありましたが、こんなに奥まで線路跡が続いていたとは知りませんでした。
    温田の合宿、懐かしいですね。小生の卒業の翌年だったと思いますが参加させてもらいました。京都を新幹線こだまの一番でたち、大海、鳥居、長篠城辺りで旧国や増結2両を連結した6連の急行伊那等を撮ってから温田に向かいました。幹事が宿に向かおうとするのを少し待ってもらって、ED18 2牽引の上り貨物を撮った記憶があります。翌日は小海線(こちらも合宿だったような?)に向かい、まだ残っていたC56の夏季野菜臨を撮りました。
    水窪は下車したことはありませんが、近くの城西の渡らずの鉄橋や向市場辺りで旧国とEF10の貨物を撮りました。水窪といえば紹介されているように西鹿島間のバスですね。この区間は佐久間からの建
    設予定線(確か佐久間線といった)のルートでもあり、以前から関心がありました。建設中止となってからバスでとの思いはあったものの未だに実現していません。コミュニティーバスではますます難しくなりそうですね。
    そうそう沿線探訪になるのかどうかわかりませんが、一度だけ伊那松島の駅から少し離れた公園に展示してあるED19を撮りに下車しています。

    • 1900生さま
      飯田線の思い出、いろいろと聞かせていただき、ありがとうございます。百戦錬磨?の私も、さすがに、線路端を何キロも重い機材を担いで行くようなことば体力的にも気力的にも出来なくなりました。何も考えずにボーッと乗り鉄を続けるのもいいのですが、貧乏性の性格か、行ったからには、タダで帰る訳にはいかないと、最近は下車した駅での街歩きが好きになりました。飯田線は、まさに街歩きにぴったりの駅が続いています。街、すなわち、人々の生活、文化、歴史を知ること、そのなかで鉄道の果たした役割を感じることです。その意味で、人の住まない、“秘境駅”の小和田や中井侍などには魅力を感じません。水窪、温田、本長篠などが、街歩きには好適ですね。
      でも、ただただ乗っているだけも飯田線は魅力ですね。改めて時刻表を見ると、なんと全区間を運転する列車があるのですね。豊橋10:42→辰野17:33ほか下り3本、上りも3本あります。一度、なくなるかも知れない、青春18きっぷで行きたくなりました。

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