半世紀前に秋田市電を訪ねて

昨年「どですかでん」氏が秋田市電の事を話題にされたように思う。その時に1959年9月23日に訪問した時の写真が出てきたら紹介するとコメントした。正月に古い写真を整理していたら出てきた。訪問時在籍していた車両は16両、内訳は4輪単車6両(22、23、25、26、111、113)ボギー車10両(31~35、60~63、201)の計16両であった。営業距離7.3kmにしては両数が多いのは、実はこんな運行方法をとっていたのであった。

営業区間は秋田駅前-土崎間で、全線単線で片道運転所用時間は30分であった。初発6:10、終発23:10、終日20分毎で、朝ラッシュ時は続行運転があり、秋田市の外港である土崎からやってきた列車(何両が一群なのかメモなし)は、車庫近くの大工町停留所から続行車を含め6両がぞろぞろと足並み揃え、秋田駅めがけて走る光景が見られたのであった。この姿を車庫訪問に向う途中で気付き、福島よりすごいなあ-と、カメラを向けたのであった。新大工町車庫(本線から少し離れていた)へ所属車両調査に伺うや、先ずこの続行運転の事が質問となった。黒板には9月4日から7;20発60、61、33号車、7:40発201、34、31、32、23、25号車、8:00発63、35、26号車の3群の車号が記入されていた。始発地の土崎で何両が1群となり出発しているのか聞き漏らしたが、大工町停留所で6両打ち揃ってぞろぞろ走りだし壮観なものであった。更に気付いたのは末尾の四輪車が空車であったことで、恐らく途中の停留所で積み残しが無いように配慮したのではないかと思う。

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車両について概説すると、4輪車の半鋼製20型4両(1930年汽車会社東京支店製)は、元旭川市街軌道のものであったが、戦後軍隊解体で一部路線廃止となり余剰車発生にともない、それを1949年に購入したものだ。旧番号のまま使っており、ボギー車増備で朝の続行専用となった。110型2両(112号欠番)は秋田電車時代の1930年と翌年に3両新製(新潟鐵工所)されたもので、1958年に鋼体化工事を受けた。これも20型同様の運用であった。ボギー車は3形式4タイプで、先ず30型31、32号は東京都電3000型の車体鋼体化工事を聞きなれない日本建鉄で受け、1953年3月に入線した。33~35の3両は都電150型となった元王子電軌200型の廃棄車体を再用し、日本建鉄で電装の上、1953年3月(33号)、8月(34、35号)に入線した。60型4両は都電6000型の狭軌型で、1951年2月日立製作所製とあり、土佐電200型初期車(1950、1952年日立製)と同型と思われる。200型(201号)は1959年2月日本車両東京支店製で、初めての全鋼製、新型台車付の触れ込みで入線した。202号は同年12月の入線であった。

秋田市電は1966年3月末に廃止された。6両続行の話はあまり知られていない。いまなら福島の5両続行と共に話題になるであろう。特にテレビ番組の対象として追いかけられるに違いない。廃止後、6両が西下(北前船で?)し、60型4両は南海電鉄和歌山市内線251~254号として、200型2両は岡山電軌1001、1002号として再起した。その後、和歌山の4両は1971年4月に廃線となり車体は魚の住処となった、と聞く。岡山の2両は、1981年走行装備を利用してアルナ工機で冷房車体新造、7101、7102号として現在も健在である。

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半世紀前に秋田市電を訪ねて」への3件のフィードバック

  1. 乙訓の長老様 興味深く拝見させていただきました。写真を拡大してみると乗客が多く乗っているのがわかりました。なるほど、これでは続行運転をしないと書かれてあるように停留所で積み残しがあると思いました。ところで土崎は雄物川河口の港で江戸時代の北前船が出入りしていた日本海航路の重要な港で、私が秋田を訪れた時の新日本海フェリーはこの秋田港に入港しました。現在の港はかつての港の所と同じ所とのことです。その土崎から秋田へ鉄道が開通したのも当時としては当然だったと思いました。さらに調べていると秋田県最初の火力発電所が土崎にできたとありました。電車化されたのもよくわかります。大正11年のことですから、信貴電が開業した年と同じで、登記上のことかもしれませんが秋田電気軌道株式会社の本社が大阪市西区南堀江にあり、秋田は秋田支店と言うのも興味深いものと思っています。考えてみれば秋田の郊外電車としての役割をしていたのではないかと想像します。その秋田の電車ですが、博物館の展示パネルでは昭和20年代後半から30年代頃からバスが走りだしたため乗客が減少していったとありました。長老様が行かれた頃はまだ十分に郊外電車としての役割をしていたのではないかと思います。ところでその続行運転は電車ではありませんが、富山で富山駅前から金沢行の高速バスで駅前を発車した時に残席数わずかで
    途中の停留所で積み残しの乗客があったので、運転手が連絡してもう一台続行するバスを手配していたことを思い出しました。

  2. どですかでんさん、コメントありがとう。秋田には早朝3:50に到着しております。弘前電鉄で大栄車両で鋼体化中の工作図面の筆写が許され、それで秋田終着列車に遅れてしまいました。弘前駅の待合室寒く、新聞を拾って身体に巻きつけて514レ0:48発大阪行を待ちました。秋田で寝過ごす訳にいかず転寝の繰り返しであった事を思い出しました。秋田駅は暖かく寝たものの2時間ばかりで構内の人の出入りで目覚め、そば一杯50円食って7:10発電車で大工町にある車庫に向いました。この電車は1両でしたが、大工町では1両引きつれ土崎に向け出発でした。その後で確か3両続行がやってきたのが7:40発大工町発だったように思います。当時持っていたカメラは本体レオタックス、レンズはキャノン・セレナー沈胴タイプF3.5、50ミリレンズで、これを早朝であったのでF4.5、1/100の露出で撮っていたのではないかと思います。フィルムはNEOPAN・SS、自家現像でした。ピントが悪く走行車両がぶれているのは撮影条件が悪かったと言う事です。201、34、31の3両は高橋さんが苦労して薄い陰影を増し焼きして下さったもので、残りは7年前に行きつけの写真屋がモノクロフィルムもプリントできるという機器になったと言うので、プリントしたものです。東北シリーズの劣悪なフィルムを、須磨の大人は苦労してプリントして、善良な青年であった乙訓の老人に「生ビールの味」を教えてくれたのでありました。
    秋田電車の本社が大阪似合ったとは初耳で、ピクの旧号などからまとめてみたいと思っています。出来たら送らせていただきます。

  3. 乙訓の長老様

    秋田市電の貴重な写真を拝見させていただき有難うございます。

    電車の運行は昭和40年12月末で終了したため、訪問は叶いませんでした。
    全車両17両で4輪単車が約半数の8両を占め、戦後製の車両は和歌山に行った60形4両と岡山に行った200形2両の6両でした。

    市電廃止後は市バス1本になり、早くからバスロケを導入し、トルコン車やグレードの高い車両を導入する等積極的な経営をしていたのですが、乗客減による財政の悪化に伴い、平成12年4月から段階的に秋田中央交通に路線、車両を移管して、平成18年3月31日をもって交通局そのものが廃止されてしまいました。

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