唐突に何のこっちゃ、と思われるでしょう。でも、これが理解できたら、よほどの“デジ青通”です。丸太町かわみち屋は、京都で「そばぼうろ」「蕎麦饅頭」の製造、販売を手掛ける会社として知られていますが、5月20日で廃業のニュースが、地元新聞に流れ、衝撃が広がりました。聡明なデジ青読者なら、ひょっとして頭の片隅に残っているかもしれません。今を去る5年前、私と勘秀峰さんの2人で、京都市電写真展「市電が出会った街 河原町丸太町」を行ないました。丸太町かわみち屋は、その河原町丸太町の交差点にあり、地域を代表する店舗でもありました。▲これが「そばぼうろ」、決して高級な京銘菓ではないが、京都ではとくに粗供養に選ばれることも多く、昔から市民の定番の菓子だった。
写真展では、皆さんから「そばぼうろ」の差し入れをいただき、会場でそばぼうろを食べながら、そのルーツや本家分家争いなど、時ならぬ“そばぼうろ論争”が巻き起こったことを懐かしく思い出します。
京都市電写真展 明日からです! | DRFC-OB デジタル青信号
展示写真の中にも、丸太町かわみち屋の看板が写ったものが数点ありました。ところが、2021年には、店舗が、製造所のある円町へ移転し、同じ丸太町でも、山陰線の車窓から見える丸太町かわみち屋となりました。そして、このたび、種々の理由で、廃業に至ったものです。
▲写真展ではエントランス部に、ギャラリー店主の厚意で、タタミ一畳大の大型カラーを展示した。その左、タイトル下にも、丸太町かわみち屋が写っていた。
▲勘秀峰さん撮影の同交差点では、奇跡的に3方向の②系統が顔を合わせて、タイトル通りの“出会った街”となった。背後の丸太町かわみち屋の看板も決まっていて、案内はがきに使った。
▲ “そばぼうろ”の記憶は、この黄色の缶にもつながる。しっかりした缶で、京都では、どの家でも、一つか二つは、収納缶として活用されていたはずだ。私は、記念切符や乗車券の保管に使っていた。
馴染みの菓子屋が消える、そういえば、吉本興業のお笑いの常設劇場だった、よしもと祇園花月も、8月になくなると聞きました。鉄道だけではない。町並みも変わって行くことを感じています。
総本家様
丸太町かわみち屋の閉店・廃業は元春日学区民としては、市電の廃止や小学校の並行にも匹敵する衝撃の出来事です。私が6年だった1967年にはかわみち屋のビルはまだなく通りの角に店を構えており、春日校では、先生方の出張や会議など、そばぼうろは手土産や贈答用に幅広く使われていました。
あれから幾星霜、観光客に主眼を置いた「映え」狙いの商品が幅を利かせる中で、見た目より甘くて美味しく日持ちのするそばぼうろは販売が振るわなくなったのでしょう。地元で永く親しまれた店の廃業は残念というしかありません。
写真は1973年9月。隣の銀行は第一銀行→第一勧業銀行の看板です。
勘秀峰 さま
小さい頃の「かわみち屋」の思い出、ありがとうございます。たしかに、その頃は、木造二階建ての建物でしたね。小学校の新館の3階の窓から、かわみち屋の看板・建物が真正面に見えました。そばぼうろの缶の製造所ラベルを見ると「京都市上京区河原町丸太町西入信富町331」と誇らしげに記されていました。
総本家青信号特派員さま
かわみち屋廃業は聞きましたがこちらの方でしたか。確かかわみち屋には本家ともう一つあって、一時熾烈な正統派争いをして話題になったように記憶します。どちらがどちらか私にはわかりませんが、どんな事情があるにせよ馴染んだ味が無くなるのは京都人としては寂しいですね。何かにつけて贈ったり貰ったりしたものでした。両者のそばぼうろは味も形も少し違ったと思いますが今でも思い出すことができます。写真の缶函は家にも絶えず数個はありました。私はHOゲージ車両の保管に利用していました。最近はこの手の適当な大きさのカンが少なくなりました。
街並みが変わるといえば四条通りや河原町通りの変貌ぶりに数十年前から心を痛めてきました。具体的にはここでは申し上げられませんが、別に此処に無くてもいいような業種や店が次々に侵食してきて、子供の頃に家族で出かけた折にブラついた時に見た京都でも老舗の店がドンドン消えていくのに寂しい想いを抱いたものです。観光客にウケそうな施設に変貌してゆくのは時代の流れなのでしょうが、かつての京都らしい街並みを構成していた老舗がほとんど消えたのは私の中では形を変えたシャッター通り化に思えてなりません。
1900生さま
日頃食べていた菓子も、見慣れた街並みも、どんどん変わって行きますね。とくに京都の場合は、インバウンド観光客に受けそうな、“映え”だけの菓子や、珍奇な商店が多くなりました。“おもてなし”など聞こえの良い言葉の裏にある、商魂が見え隠れして、暗然とした気持ちになります。
それに、保管に適した“カンカン”も少なくなりましたね。みんな簡易な紙箱になってしまいました。缶製造に携わっておられる、タマちゃんのところは、どうかな?
栄枯盛衰はこの世の常と申しますが、見慣れた風景が消えてゆくのはさみしいものです。昨年だったと思います。河原町丸太町を歩いた時、かわみち屋のビルが建て替わっているのに気づきました。著名な名建築ではありませんが、長年見慣れた建物でした。自宅近くの千本三条にある信用金庫も建て替えられ、市電時代から見ていた風景がまたひとつ消えてゆきました。
丸太町かわみち屋は当初5月31日限りで廃業すると発表していたようですが、買い物客が土日に殺到して20日に早まったのだとか。なくなる直前に殺到するのは、鉄道ファンだけではないように思いました。創業300年を超える総本家河道屋にも注文が殺到し、商品の製造が追いつかないのだとか。
私は2019年の写真展を思い出しました。1900生様にお目にかかったのは、アノ時が最初でしたね。会場は人であふれ、あちこちで市電談議が飛び交い、楽しい時間を過ごせました。当時の投稿を読み返すと、写真展会場の雰囲気が目に浮かんでくるようです。
添付の画像は写真展の帰りに写した丸太町かわみち屋です。勘秀峰様の写真で見る市電時代は遠い過去の風景になり、今も残るのは第一銀行の建物を受け継いだ京都中央信用金庫くらいでしょうか。
葬式鉄ならぬ、葬式菓子なのでしょうか。商品が無くなり、廃業を早めたようですね。かわみち屋のかつての建物は、隣の京都中信丸太町支店との調和も考慮したのでしょうか、ベージュの上品な建物でした。よくぞ撮っておられました。いまは、私がときどきお世話になる医院が一階に入った高級マンションになりました。
“そばぼろろ”のお蔭で、写真展会場の熱気を思い出しました。紫の1863さんも、毎日のように来ていただき、私としては幻の人だった、紫高先輩にも会うことができました。
こちらは昨年6月の祇園石段下で、よしもと花月が入る祇園会館は、市電時代からの建物が残っています。落ち着いた色合いを使う店舗に混じり、そぐわない看板も見えますね。
「そばぼうろ」に対する恨み節が、米手さんから吐露されていました。リンク「京都市電展 明日からです」のコメント欄に載っていました。当日の忙しくも楽しい1日が眼に浮かびます。以下、原文ママ
米手作市 2019年3月2日 9:05 PM より:編集
今日は朝からてんてこ舞いの忙しさ!
まず、下鴨の府立歴彩館で開かれる「鉄道史と地域をつなぐ」と題した講演会に参加してきました。一部と二部から成る3時間以上の長丁場で、一部だけで退席しましたが、一部は京都新聞連載の「夢幻軌道を歩く」を執筆している浅井記者、「丹波の鉄道と観光」の井尻氏、そして「廃線歩きと記憶の継承」と題して中村浩史氏、最後は「伏見チンチン電車の会の活動について」を代表の竹場氏の各氏が報告しました。特に中村さんの話は聞くに値するものでした。
第二部の討論会も興味がありましたが我らの青信号特派員氏と勘秀峰氏が満を持して開催した写真展へ行かねばならず中座して205系統電車代行バスに乗って荒神口へ急ぎました。
急いだ理由の一つは特派員氏が用意してくれているはずの「蕎麦ぼうろ」を食べることでしたが時すでに遅し!大挙押し寄せた観客の皆様に供された後でした。後に残ったのはタマちゃんが作ったというおなじみのブリキ缶だけ。
食べ損なったのは少し残念でしたが千客万来で、ご両人とも17時現在昼食もとれずの有様は万々歳の盛況の証です。ご来場に皆様、ありがとうございます。まだの方はお早めにお出かけください。
総本家青信号特派員さま
かわみち屋蕎麦坊路さんの訃報に接し、懐かしい素朴な味を思い出しました。以前、近くの寺町通り竹屋町で河道の仕事をしていました。いまは都から500kmほど離れた田舎住まいです。村に1軒だけある萬屋に駄菓子コーナーがありまして、150g入の袋詰のが売られています。
棚に少し在庫が残っていたので買って帰り、近くを過ぎゆく蒸気の汽笛とドレン音を聴きながら食しています。覚えている近畿放送ラジオのCMとといえば、この河道屋とかしわの鳥京です。
takaginotamagoさま
たしか以前にもコメントを頂戴したと思いますが、いまは500キロも遠く離れたところから、デジ青をご覧いただき、コメントも頂戴し、ありがとうございます。たしかに、ひとつの菓子店の廃業ですが、われわれにとっては、たくさんの思い出がありました。「そばぼうろ」を名乗る菓子は、ほかからも出ていて、別に味が違う訳でもありませんが、私にとっては、黄色い包装紙の「丸太町かわみち屋」と墨書された、あの「そばぼうろ」でなければなりません。近畿放送でもCMやっていましたね。