白棚(はくほう)鉄道跡を訪ねて

今年6月に佐竹大先輩が企画された三陸鉄道の旅に参加した際、気仙沼から盛までのJR気仙沼線BRTに乗りました。気仙沼線BRTとは東日本大震災で寸断されてしまった気仙沼線の代行バス(バス高速輸送システム)のことで、舗装された線路跡をバスで盛に向かいました。この気仙沼BRTに乗っていて思い出したのが、白棚鉄道のことでした。かつて東北本線の白河と水郡線の棚倉を結んでいた鉄道で、国有化された挙句に廃線となり、国鉄バス白棚高速線として生き残った異色の線区です。学生時代に東北本線は北海道への往き帰りなどで何度も乗っていますが、殆どは夜行列車での通過が多く、ましてや水郡線は関西人にはなじみが薄い路線で、私にとって白河や棚倉あたりは永年空白地帯となっていました。そこでこの空白エリアを埋めるべく、小旅行をしてきました。とは言え家内との鉄分少な目の旅であることと、雨に降られっぱなしでしたが、知らない土地を訪ねるのは新鮮で、充実した旅を楽しみました。

白棚鉄道は大正5年(1916)11月に東北本線白河から棚倉まで開業しました。この鉄道の設立趣意は白河から水戸を結ぶ目的だったそうです。棚倉は江戸時代前期1622年に幕府の命で城が築かれ、丹羽長重が初代城主となり、幕末1868年の戊辰戦争によって落城するまで16代にわたって続いた城下町で、今も城跡の外堀と石垣が残る古い町です。開業当初は白河を経由して東京とも結ばれたこともあって、客貨とも輸送量はあったようです。一方国鉄水郡南線が水戸から北上しながら、逐次開通してゆきます。昭和7年(1932)に水戸・磐城棚倉間が開業すると、白棚鉄道の貨物はすべて国鉄にもってゆかれてしまい、白棚鉄道の貨物は皆無となって経営難に陥り、昭和16年5月に国有化され、国鉄白棚線となりました。ところが国鉄になったのもつかの間、戦況悪化に伴い不要不急鉄道として昭和19年12月に廃止され、レールは剥がされてしまいました。ようやく昭和32年になって線路跡を専用道路とする国鉄バス路線として復活したわけです。

さて今回は始点の白河駅からではなく、新白河駅(かつての磐城西郷駅、東北新幹線の開業で新白河と改称)からJRバスに乗車しました。

平成29年10月14日 新白河駅前 白棚線乗り場

白棚線路線図

新白河駅発7:55のバスに乗ったのですが、土曜日とあって通勤・通学客はなく、乗客4人で出発。実業高校前で2人が下車してしまい、我々2人の貸切状態で棚倉へ向かいました。現在は全線が線路跡ではなく、一般道も走りますが、関山口から先は専用道路に入りました。

真っすぐ伸びるバス専用道  (関辺・古関間)

専用道に交差する一般道は一般道側が一旦停止となっていて、バス優先となっています。

白河行きバスとすれ違い (古関・白河東工業団地間) ピンボケ写真でスミマセン

専用道にはバス1台分の行違い場所が数多く設けられていて、バス用の信号機などの保安設備は何もありません。

松上バス停を通過

専用道のバス停には必ず両方向用の待合室(簡単な屋根も含む)がありました。しかしどのバス停にも人影はありません。時間調整のため少し停車することもあり、運転手さんも気軽に話しをしてくれました。我々のようにわざわざ白棚線に乗りに来る物好きな人も結構いるとのことでした。

高木・三森間  そろそろ専用道路も終わる

専用道路の両側には専用道路の範囲を示す「工」と彫られた境界杭が数多く見られました。新白河から約40分で水郡線磐城棚倉駅に到着しました。

磐城棚倉駅に到着したJRバス

雨の中、棚倉城跡や城下町の街歩きを楽しみましたが、水郡線の列車まで時間があるので、駅前にある棚倉町図書館を訪ねてみました。すると「白棚高速線開業50周年 記念写真集」がありました。

JRバス関東 東北道統括支店棚倉営業所 平成19年発行

大正5年11月 開業時点の磐城棚倉駅の様子

開業時、鉄道省3253号が白棚鉄道1号機として譲渡されました。その開業時の磐城棚倉駅の様子ですが、この乗り場が今も残るプラットフォーム跡だと思われます。

磐城棚倉駅    乗用車が停まっているのが白棚鉄道の線路跡。緑色のフェンスがあるのが白棚鉄道ホーム跡。右手の島式ホームが水郡線のホーム。

白棚鉄道棚倉駅のプラットフォームが先にあり、その後に水郡線が開通して跨線橋が築かれたことになります。よくあるのは先に国有鉄道があり、そのあと私鉄が開業して跨線橋が設けられることが多いのですが、この棚倉は逆だと言えるでしょう。73年前に廃止された白棚鉄道の痕跡をしっかり確認することでき、印象深い鉄道記念日となりました。

白棚(はくほう)鉄道跡を訪ねて」への2件のフィードバック

  1. 白棚鉄道→白棚線は何かと話題の多かった線区です。地方鉄道時代の1938年10月1日に国鉄が借上げて、時間表には単に「白棚線」とのみ。これは同日借上げの身延線(←冨士身延鉄道)でも同じで、両線とも買収は1941年5月1日でした。西村氏お書きの通り戦時中撤去され、敗戦後復活するに際し、機関車にDD11、旅客車にレールバスのキハ10000が計画されました。後者は途中駅にプラットホームを設置せず、道床面から直接乗降するよう、2段のステップを持つ設計だったのですが、途中でレール敷設を止め、アスファルト舗装をしての専用自動車道方式に変更されたのでした。そのあおりを喰らって行き場を失ったDD11は結局半端な入換用に、キハ10000はステップを1段に変更し、急遽投入線を探して結局は木原線に納まった、といういきさつがあります。白棚線がもしレールを敷いて復活していたら、当然他のローカル線同様、今に姿を残してはいないでしょうから、かえって良かったのか?

    • 湯口 徹様
      コメントありがとうございます。キハ10000と白棚線との関係はなんとなく知っていましたが、道床面からの乗降用にステップが2段で設計されていたことや、ましてやDD11も関係していたことは全く知りませんでした。仰せの通りレールに戻されておれば、とうの昔に廃止されていたに違いありません。本文中で少し触れましたが、JRバス関東発行の写真集には国鉄バスを改造した鉄路も道路も走れる試作車などの写真も載っていましたが、コピーしていません。またバス路線の記念誌ゆえでしょうが、白棚鉄道の写真は文中で紹介した1号機の写真だけしか掲載されておらず、雨宮のガ1の写真は見つけられませんでした。

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