飯田線 乗って 降りて 歩いて  ④

天竜峡で折り返し

大嵐駅周辺の探索を2時間で終えて、13:14発の519Mで、折り返しとなる天竜峡へと向かいました。

天竜峡は、昭和2年に伊那電鉄の起点として開業した。そのあと、南から延びて来た三信鉄道と接続して乗継駅となった。飯田線になってからも運輸上の中枢駅となったが、機関区などの現業機関はなく、今まで乗り換えることはあっても、下車したのは初めてだった。開業当時の面影を伝える切妻の方形造りに、マンサード屋根を組み合わせ、風見鶏やステンドグラスも見える逸品である。この様式は、伊那電の好みのようで、ほかにも伊那八幡駅でも似た建築が見られると言う。

構内は二面三線の構造、私鉄駅らしく、ホーム端には踏切がある狭い構内。乗車予定の313系が停車している。

郵便局で押印のため、駅の西側を歩いてみる。旅館やスナックなどが並んで、観光地らしい街並みだが、全く人気は感じられない。

駅の東側にも行ってみる。すぐ天竜川で、歩道橋からは、よく見かける天竜峡の渓谷美が見下ろせた。遊歩道もあるが、ここも人気はない。最近人気なのが、三遠南信自動車道の天竜峡大橋の桁下を遊歩道にした「そらさんぽ天竜峡」で、鉄道利用では絶対に行けない、クルマのみで行ける観光地づくりになっている。長居は無用と、さっさと折り返し電車に乗って、最後の訪問駅へ向かった。

温田の今昔

温田といえば、われわれの世代、私は参加しなかったが、夏の狂化合宿が行われたところとして有名だ。たまたま、以前の飯田線乗車時の風景と、今回、車内から定点対比できた。

昭和53(1978)年の温田駅ホーム、駅前には旅館や日通など、賑やかな街並みがあり、「売木」の行き先を掲げた信南交通バス、大きな風呂敷包みを二人で持つオバちゃんまで、いかにも昭和の駅前だ。

いまの温田駅、日通は無くなったが、その右の2棟はそのまま残っているようだ。バスは、信南交通は撤退したものの、地域のコミュニティバスとして、売木村行きがまだ運行されていることが分かった。

車内から発見、温田駅前の気になる物件、とうの昔に商売を止めたように見える文具のクボタに掲げられた「旅&」「古書店」「☆鉄道」の気になる3文字。▲▲駅前で買い求めた「秘境駅最中」で遅い昼食とした。

 飯田線 乗って 降りて 歩いて  ④」への10件のフィードバック

  1. 更に徒歩5分先です。
    クモハ54+クモハ50+クハユニ56の豊橋機関区40番代の運用です。41~44の4運用あり、道路状況が劣悪な山間部の郵便、荷物輸送に大きな役割を果たしていました。

  2. 急行「伊那」です。豊橋~上諏訪間の列車の豊橋~飯田間は、豊橋寄りに3両増結車が連結され、7両編成でした。

  3. 温田町内のバス停で撮影した、信南交通の売木行です。バスは、昭和39年式BT71です。

  4. 天竜峡駅、いいですね!
    総本家様のレポートを拝見し、興味を持ったのが運の尽きでした。ストリートビューで駅の周辺を見れば、私の好みにぴったりの雰囲気です。のんびりと歩いてみたい気持ちになりますが、今の私は謹慎中。訪問はいつのことになりますやら。
    温田駅は飯田線に数ある難読駅の一つで、駅名表を見ないと読めません。人の姿が見えるホームといい、駅前の日通事務所といい、昭和の時代は鉄道が輸送の主役だったことを感じます。対岸には病院や学校もあり、集落の中心は駅から離れているようですね。地方へ行くほど車のない生活は考えにくく、残念ながら鉄道の将来が明るいとは思えません。
    文具のクボタに見える看板は、30年ほど前に「旅と鉄道」という雑誌のバックナンバーを求めて、古書店を巡り歩いた日を思い出します。

    • 紫の1863様
      いつもコメント、ありがとうございます。飯田線は、人家が何もなく、道路すらない“秘境駅”が有名ですが、私はこんな生活感のない駅より、駅前にある程度の街並みがあって、人々の生活が感じられる方が好きです。いつも“運のツキ”ばかり提供して、1863さんを混乱させていますね。今日は、高校先輩のSさんと、例によって1863さん宅近くで飲んでいますと、文中に「謹慎中」と、気になるワードを見つけたとのこと。まさか、ネットを賑わすような破廉恥なことだけは、1863さんに限っては無い! と二人で酒の肴にしていましたよ。

  5. 総本家青信号特派員様
    「飯田線 乗って 降りて 歩いて②」の中で『周遊指定地』という言葉が出てきたので昔の周遊券制度を思い出しました。私も1995年11月18日に天竜峡で下車をし、指定地接続線となっていた「天竜ライン遊舟」の天竜峡乗船場を確認に行きました。当時から全国の鉄道に沿った河川には観光資源としての「舟下り」が運航され、代表的な組み合わせとしては大船渡線と猊鼻渓、陸羽西線と最上峡、秩父鉄道と長瀞渓谷、高山本線と日本ライン、山陰本線と保津峡、土讃本線と大歩危峡、肥薩線と球磨川などがあります。
    いずれも船上から見上げると風光明媚な場所ですが、学生時代は現在のような情報もなく地図を片手に幾つかの駅間を歩きましたが、道路からの適当な足場がなく、ここという場所で鉄道はトンネルに入ってしまうので思ったような写真は撮れませんでした。
    1995年の飯田線の車両は国鉄から継承した飯田線専用の119系電車が使用されており、天竜峡のホーム上屋は現在とは異なり木造でした。

    • 快速つくばね様
      いつも暖かいコメント、ありがとうございます。「周遊指定地」と言う言葉も懐かしくなりましたが、観光地にも栄枯盛衰があり、指定地も解除されることを、佐久間ダムの例で知りました。30年前の天竜峡駅、写真で拝見しました。こんなに長い上屋があったのですね。紅葉に119系、にぎやかな飯田線時代です。いま、こんなに高速バス網があること、現地で痛切に感じました。日本アルプスをブチ抜いて、最短で東京、名古屋を結ぶ高速バス、天竜川に沿って、縦へ縦へと下りて行く飯田線は全く勝ち目はありません。

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