山形を旅して(その1)

クローバー会のホームカミングデーや写真展は毎年欠かさず参加していますが、そのためだけに上洛するのはもったいないので、なるべく鉄分補給の旅を兼ねることにしています。今回はホームカミングデーのあと、山形方面への旅を計画しました。東北地方は何度も訪れているとは言え、やはり訪問先には偏りがあります。近年は東北地方に限らず、県庁所在地訪問を旅のテーマにしていることもあって、今回はまだ訪問したことのない山形市をプランに組み込みました。

ホームカミングデーの懇親会を少し早めに退席して阪急電車で蛍池に向い、家内と合流し伊丹空港で1泊し、翌11月10日早朝のJAL便で新潟へ向かいました。山形県は日本海沿いの庄内地域と内陸部の最上地域、村山地域、置賜地域の4つのエリアに分かれています。今回は新潟から羽越本線で北上して鶴岡、酒田の庄内地域に入り、月山の麓を越えて寒河江、天童、山形の村山地域に入り、更に仙山線で奥羽山脈を越えて仙台から空路広島に戻るルートを設定しました。新庄の最上地域や米沢の置賜地域はパスです。

新潟・酒田間は特急「いなほ」が早くて便利なのですが、観光列車 快速「海里」でゆっくり日本海の景色を楽しむことにしました。「海里」は4両編成のハイブリッド電車(昔風に言うと電気式気動車)で、新潟寄りから①HB-E302 6(ダイニング)+②HB-E300 6(イベントスペース・売店)+③HB-E300 106(コンパートメント)+④HB-E301 6(座席指定車)となっています。この観光列車のコンセプトは地元食材による食事提供が売り物で、1号車はそのための食堂車、2号車には全く客席がなく、売店では 予約された弁当の手渡しや酒類の販売が行われ、3号車は山側通路の個室席、4号車は全シートが元々少し海側に向くように固定された座席車です。今回 海側の指定席が取れてラッキーでした。我々はグルメ旅ではありませんので、新潟で買った駅弁持参です。JR東日本は「海里」に力を入れているようで、新潟駅出発時にはホームでのお見送りがありました。しかし残念ながらこの日は平日だったせいか、乗車率は30%程度で、盛り上がりに欠けた出発となりました。

令和7年11月10日 新潟駅4番ホームでの快速「海里」出発お見送り

定刻10:11に発車、白新線を新発田に向かいます。白新線、羽越本線はかつて何度か通過していますが、北海道への通り道で殆どが夜行列車だったので、昼間の車窓風景は新鮮でした。新発田から羽越本線に入り、中条、坂町と停車。坂町はかつて1900生氏、KAWANAKA氏と豪雪の米坂線で苦労した思い出の地です。その米坂線は豪雨災害のために坂町・今泉間は令和4年8月以降代行バス運行が3年も続いていて、復旧には86億円、5年を要するとして復旧作業は進んでおらず結局廃線となる運命なのでしょう。坂町駅から分岐する米坂線の線路はどこにあるのか判らない程草ボウボウ状態でした。

村上駅に停車。新発田駅、村上駅ともホーム上屋が曲線が多い優雅な古レール構造で、降りてゆっくり観察したい駅でした。村上を過ぎると列車は日本海沿いを北上します。この日は低気圧の通過で強風が吹き、海は大荒れでした。11:32頃桑川駅着。ここは有名な景勝地「笹川流れ」の玄関口です。駅舎は道の駅を兼ねていて、「海里」はここで34分ほど停車です。「乗り遅れないようにお戻り下さい」とのアナウンスを背に、乗客は強風の中 下車して海岸の展望所に行ったり、道の駅で「海里」の時間帯だけに準備されている「味噌汁」で体を温めたりして過ごします。

桑川駅に停車中の快速「海里」。中央の建物は駅舎を兼ねた道の駅。歩道橋で海岸の展望所につながっている。「海里」先頭車はHB-E301 6。

桑川駅前の展望所から笹川流れ方向を望む。海は強風のため大荒れ。

「海里」が桑川駅に停車中に下り「いなほ3号」と吹田発札幌行き貨物列車が通過し、追い抜いてゆきました。桑川駅の次が今川駅です。デジ青10月2日付けで特派員氏が「信号場を巡る⑦」で、同じく準特急氏が「新津にいたC57達」で今川信号場や笹川流れを紹介されていました。その写真を思い出しながら、現在は駅に昇格している今川駅を通過しました。特派員氏撮影のC5719の発車シーンに写っている山側の信号場建屋に登る階段はそのまま残っていました。

今川駅通過。上りホーム側にあった信号場建屋に登る階段は健在。

今川を通過してすぐに「笹川流れ」の撮影スポットになり、列車はスピードを落としてゆっくりと進みます。このあたりから、閉塞信号はオレンジ色の注意信号となり、強風のため徐行運転となりました。鼠ヶ関、あつみ温泉を過ぎ、海岸部を離れてようやく徐行運転は解除されましたが、約20分遅れで鶴岡到着。庄内平野に入ると、両側に広がる田んぼに多くのハクチョウの群れを見ることができました。次の余目は陸羽西線の乗り換え駅です。陸羽西線も現在全線バス代行です。陸羽西線に並行する国道47号線のトンネル工事現場が線路に隣接していることから、安全確保のために令和4年5月からバス代行です。トンネル工事が難航したため代行運転期間が延長され、ようやく来年1月に3年8ケ月ぶりに鉄道の運転が再開されるそうです。米坂線が草ボウボウだったのに対して陸羽西線の線路は健全で、余目駅には「試運転」表示のキハ110が停車していました。再開が確かな陸西と再開の目途のない米坂の違いを目の当たりにしました。約20分遅れのまま終着酒田駅に到着し、快速「海里」の旅を終えました。

2日目(11月11日)

酒田市内で1泊した翌朝は酒田港線の貨物列車撮影を計画していました。手元には令和5年のJR貨物時刻表しかないので、これを頼りに計画しました。この時刻表によれば酒田・酒田港間には日に1往復定期貨物(コンテナ)列車があり、酒田発9:10、酒田港着9:20となっています。朝食を摂り、チェックアウトしてレンタカーを借りて酒田港線の沿線で撮影するには丁度良い時間帯なので、今回の旅のひとつの目玉として楽しみにしていました。ところが、8時過ぎには酒田駅に出発を待つコンテナ列車が待機している筈なのですが、姿がありません。運休かダイヤ変更があったのかと不安がよぎりますが、一応予定した撮影地点にクルマを走らせました。しかし9:10を過ぎても列車は現れず、仕方なく酒田港駅に向かうことにしました。

酒田港駅構内にはDD200-4がポツンと停車していました。どうやらダイヤが変わっていたようです。

令和7年11月11日 酒田港駅にてDD200-4

JR貨物の時刻表によると、DD200は平成29年に登場した電気式ディーゼル機関車で、26両全機が愛知機関区所属となっています。令和5年5月のクローバー会北九州ツアーで清水氏のご尽力によって門司機関区の見学会がありましたが、その際にDD200-5に初対面したことを思い出しました。愛知機関区所属の機関車が北の酒田や南の門司で動いているのが何とも不思議な時代になったものです。

もう一つ新しい発見がありました。酒田市内で地元の荘内新聞社 令和6年発行の「汽笛一声 庄内の羽越本線百年」という小冊子を見つけて買いました。庄内地方の鉄道の歴史を述べた好著です。酒田や酒田港への鉄道開通は日本海沿いの現在の羽越本線として開通したのではなく、陸羽西線として新庄と先につながっていたという歴史です。明治36年に奥羽線が新庄まで開通し、大正3年に新庄から酒田間が陸羽西線として開通。翌大正4年には酒田・酒田港(当時は最上川駅)が貨物線として開通。大正7年に陸羽西線の途中駅余目から鶴岡間が羽越線の一部として開通。現在の羽越本線新津・秋田間が全通するのは大正13年のことだったという順番を全く知りませんでした。特に酒田港線が早々と敷設されたのは、酒田港と最上川上流地域との最上川水運に代わって、陸羽西線を物流幹線とする必要があったためだと納得しました。(つづく)

山形を旅して(その1)」への2件のフィードバック

  1. 西村様

    西村雅幸様
    20日遅れのコメントで失礼します。HCDの集まりで、翌日から空路で東北へ向かうと聞いていましたが、さすが、西村さんらしいコースだと納得しながら読ませていただきました。私が蒸機時代に撮った、今川駅の上りホーム側の石段まで覚えていただき、ありがとうございます。石段の上の信号場の建屋はもう無いようですが、カーブした構内の様子は、蒸機時代のままです。私は羽越本線の電化後は、夜間に一度通っただけですから、羽越本線の印象は、蒸機時代そのものです。懐かしい風景、ありがとうございます。
    江悦千の上ですね。

  2. 西村雅幸さま
    東北へ行かれることは聞いていましたが、さすが西村様らしい広範囲に亘る対象に興味を持たれた内容の濃い旅程だと感心しています。私も偶に待ち時間があれば地図を片手に街歩きをすることがあります。旧い建物や綺麗な景観を観ると心が豊かになるように感じます。
    さて文中坂町駅で「豪雪の米坂線で苦労した」とありますが、この時は西村様と小生の2人だけでした。KAWANAKA氏は一週間ほど前に用事があると言い残して、我々を極寒の地に置いてきぼりにしてさっさと東京に向かわれていました。米坂線行きは北海道からの帰途、連絡船の中で「行きがけの駄賃や米坂線に寄っていこう」と急遽話が纏まって急行「津軽2号」で米沢に向かいましたね。ただそのつもりが無かったため、地図やダイヤ等の資料が一切無く、その数年前に一度乗っただけの私の微かな記憶を辿っての撮影行になりました。加えて豪雪とあって記憶と現地状況が一致せず、ダイヤもうろ覚えのため、越後金丸などもう一駅行こうと着いたら貨物レと交換して1本逃し、駅を出ても雪で移動がままならないなどで、西村様には随分ご迷惑をおかけしました。もう半世紀以上前の出来事ですが改めてお詫び致します。
    そのKAWANAKA氏とはそれから3年後の昭和47年11月5日に羽越線桑川~今川間で一緒に撮影しました。とにかく次から次へとボンボン来るので二人でこう来られては場所の移動もできんなあとボヤいたものでした。今思うとなんと罰当たりなことですが、SL天国で一日たっぷりと楽しんだものでした。ところが当初帰京予定で押さえていた5日新潟からの日本海寝台券をKAWANAKA氏に譲ったのですが、6日未明に発生した急行きたぐにの火災事故により日本海は福井止めになり、代行バスで大阪には夕刻に到着したとか。なんとも気の毒な目に遭わせてしまいましたが、「あんな寝台券を売りつけやがって。もう一日会社を休んだやないか」と随分恨まれました。当方の責任ではないにせよ、大切な友人に迷惑をかけたことにこちらも改めてお詫びしたいと思います。

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