厳冬決死の蒸機撮影

 猛暑お見舞い申し上げます。梅雨明け後の連続酷暑で、日頃お元気な皆様もバテ気味のことと思います。こういう時は極寒の写真でもご覧下さい。1996年暮れ、某私鉄系大手旅行会社主催で中国東北部(旧満州)の蒸気機関車撮影の団体旅行に参加した時のことである。この旅行では2回えらい目に遭った。1回目は北京到着後ホテルで両替中に若い女性の窃盗グループに買ったばかりのペンタックス67とTCトラベラーズチェックを盗まれたこと。ホテル側に盗難証明を書かせ、TCは盗難対策用の金券であり、保険にも入っていたので被害は少なかったが、最初はショックであった。このため、撮影機材は補助として持参したキャノンEOS55である。2回目は掲載写真の撮影当日がこの地区でも20数年ぶりの大雪で氷点下20度を下回り、チャーターバスの異常低温による運行不能で遭難しかかったことである。この日は元日で、非常に寒い日であった。撮影の合間には凍傷にやられないように線路に近い民家に入れてもらったくらいである。貧しい家であったが、元日(1997年1月1日)と言うことか餃子をつくってくれた。線路際でずっと撮影した若い仲間には凍傷にやられた者も出た。そして夕刻牡丹江のホテルに向かうバスが発車して30分もしないうちに故障。外は真っ暗で車内は後で聞いたら、氷点下10度であったとのこと。やばい、本当にここで満州の露と消えるかと思った。生き証人の一人に鉄道ピクトリアルに時々顔を出す山陽電鉄乗務員のY氏も居る。さて、厳冬極寒の写真は牡丹江の東約50kmくらいの所にある大観嶺(正式な地名は定かでない)と言う勾配区間での撮影である。

蜜山7:57発98車次ハルビン東行き22:00到着前進型重連

この列車は時刻表でみると98車次特快で、勾配の複線区間ではあるが、昔のニセコのC62重連を思い出す。但し、C62重連は全長42mに対して前進型は58mある。

猛吹雪で視界悪い中を登ってくる前進型重連の貨物

貨物の前補機や旅客列車の一部には東風4型ディーゼル機が入っていたが、やはり、形は不細工でも大型蒸機はいい。

 この旅行は死が予想される異常低温と猛吹雪で冷え切ったバスの中でこれは本当に死ぬかと思った。たまらず1時間に数台しか通らない車のヒッチハイクを考える。中国人ガイドは「中国の車は停まってくれない」と言ったが、そんなことを言っておれず、人民解放軍のジープを停める。運転台に運転手を入れて5人乗り込み夜中の2時頃にホテルに着く。救援バスも30分遅れて到着。翌日はナロー蒸機は諦める。最終日の北京空港も雪で中国国際機は9時出発が18時まで待たされた。この旅行では旅行会社が一人2万円の見舞金を出した。ハルビンの勝利橋で滑って骨折した北九州の友人はそのまま成田の病院へ入院した。

厳冬決死の蒸機撮影」への7件のフィードバック

  1. 目名-上目名でのまりもかと思いました。
    命をかけた撮影の成果をビール片手にクーラーの効いた部屋で見せていただくのは罪悪感にさいなまれます。
    ありがとうございます。

  2. 米手作市様
     この写真はリバーサルフィルムをDVD化したものです。米手様のご指導のおかげです。目名~上目名の「まりも」函館発釧路行き急行17列車は17時20分頃通過ですから、この様な情景であったかもしれません。スハ43系に似たズシンズシンと言う台車音はここでも聞かれましたが、前進型重連はジェット機のような音ではありませんでした。

  3. 準特急様
    そういえば現役時代に北海道のC62について「あのなー、音が違うんや、ゴーッと言うかジェット機のような音がするんや、本州のはそんな音は聞いたことがないのに」と何度も聞かされました。
    最近、蒸機のモデル制作に熱中しているので、装備の違いによる差かなと思ったりします。
    コメントを読んでそれを想い出しました。

  4. 究極の光景、撮影ですね。もう見られなくなったのが残念です。
    4ケ月も訪中していませんので、こういうなのを見せられると、もうたまりません。8月20日頃には旅立とうと思っております。暑いのは苦手ですので、満州里辺りを目指して、いつものように予定のない旅を楽しむつもりです。

  5. ぶるぶる様
     先程まで京都烏丸六角から大事な模型の荷物を抱えて戻ってきたばかりのロギング太郎さんと山科の人間国宝さんご夫妻、それに京阪大好き人間のP社Mさんと飲んでいました。太郎さんからもD50製造中のお元気なぶるぶるさんの話を聞きました。
     北海道のC62は東海道電化で海を渡り、東北・常磐筋のC62と同様軸重軽減されていましたが、まりも、ていね、ニセコ時代に撮影された方はあのジェット機のようなブラスト音が耳に残っていることと思います。山陽本線や常磐線の特急列車等のC62単機牽引ではジェット機のような音は感じたことがありません。長万部・倶知安・小樽まわりの通称山線の客車列車牽引のD51もジェット機音はしませんでした。専門的なことはわかりませんが、ニセコ等は急行列車であり、勾配区間をある程度高速運転し、しかも重連であったためあのような音になったのかなと思っています。常磐線急行「みちのく」でC60+C62を撮影したことがありますが、通常の蒸機の音であったように思います。従ってジェット機のような音は函館本線山線のC62重連に限って聞くことができたような気がしますが、皆様如何でしょうか。

    ぶんしゅう様
     最近の中国(中華人民共和国)、四国、九州、北海道の連続激写、頭が下がります。人吉の桜や宇和島方面ローカル線には印象深い作品が多く見られ羨ましく思います。
     さて、その中国は行く度に発展しているような気がします。最初に行った時は北京空港でも板張りのベンチで、外は街灯が少なくて街が暗い感じ。この時の中朝国境付近は真っ暗でしたが、終戦後の日本もこんな風景であり、懐かしい感じもしました。最近の中国の新幹線や高速道路の発達はぶんしゅうさんの専門分野ですが、国が大きいだけに雄大な風景は数多くあるはずです。ぶんしゅうさんの訪中回数は桁外れで、中国は第二の故郷のようなものです。国の事情が異なり、不安な部分がありますが、それに気をつけて、ますますのご活躍を期待しております。

  6. すごい話ですな。蒸気機関車を世界中撮り回った斎藤晃氏はケープタウンでホールドアップに会い、パスポートから何から、身ぐるみ剥がされたと聞いたが、ケースは全く異なるが、汽車撮影決死隊は同じ。零下30度といえば、小生が重沢旦那と小海線の最高地点付近で1月に野宿し、夜中に寒気と言うより、体が締め付けられるような、表現の言葉が見つからない恐怖に襲われたことを思い出します。その寒気の中で、カメラはちゃんと作動したんですか。電池がやられたんじゃないかと思うが。また作動したとしても、フォーカルプレーンシャッターは、左右同じスリットで走ったのか。挿入写真で見る限り、露光もちゃんとしていて、サンパチ豪雪時の露出オーバーもないようですな。カメラが進歩していることは確かです。
    かつて満州に在住していた叔父は、ともかく顔以外露出していると凍傷になる。頭も毛皮帽で保温しないと、血管が切れる虞がある、といっていました。バスにも暖房がなく、あっても排気暖房だから温まるはずもない。で、長旅の際は体の要所に新聞紙を巻き、その間に干した鷹の爪唐辛子を入れるんだとか。
    日本陸軍の戦車は、世界でも珍しい空冷式エンジンで、冬季夜間はオイルパンの下で練炭を焚き続けたそうです。
    昭和30年代の北海道では、やはり冬季の夜間、ディーゼル車は建物内で終夜アイドリングを続けるか、あるいは冷却水を全部抜き取り、朝に蒸気機関車のボイラーから湯を抜いて入れ、セルモーターも必ず外部電源で回していました。この時点不凍液はまだ一般的ではなく、バッテリーも寒さに著しく弱かったのです。

  7.  湯口徹様
     カメラは大丈夫でした。同行の諸氏からもカメラ、フィルムの不具合は聞いておりません。 ただ、この旅行には北海道の若いご夫妻がおられ、もう一人寒さで気分が悪くなった人を含め計3人だけが、どうした訳か先に車で救出されたような記憶があります。この人は夜中のホテルで我々を出迎えて「先に逃亡して申し訳ない」と泣いていました。残されたバスの車内ではシンシンと来る寒さで駆け足をして暖をつくろうとしましたが、この様子を須磨を走る山陽電車の乗務員Yさんがよく見ており、帰国後「早川さん死にそうな顔しとった」とよく言われます。極寒の地で小便をするとそれが出る時に凍るような話を聞いたことがありますが、これは嘘でした。
     斉藤晃さんは鉄研三田会の重鎮であり、蒸機機関車の著作もある方ですが、先日のワールドサッカー開催国南アフリカでホテルを出た途端に暴漢に襲われた話はご本人から直接お聞きしたことがあります。
     毎年定例で行われている三田会写真展では湯口さんの写真が招待選手として出ており、拝見させていただいたことがあります。また、軽便等で有名な会長の高井薫平さんからは三田会にも湯口さんの信奉者が居るよと言われたことがあります。

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