50年前の撮影地を歩く -25-

八瀬駅の今むかし

今からちょうど50年前の1968年(昭和43年)4月9日は土曜日でした。大学に入学した私は、入学時の手続きを終えて、キャンパスのオリエンテーションで、鉄道同好会の出店を見つけ、待望の鉄道同好会の一員となることができました。50年にわたって鉄道趣味を通じた交流の輪が続く原点となったことを思えば、私にとっては記念すべき一日でした。土曜日のため、午後からは用事がなく、入学早々にカメラ持参で来ていた私は、京福電鉄の出町柳駅から、終点の八瀬遊園へ向かいました。
現在の出町柳駅、ホームで待ち受ける人たちのカメラの放列のなか、デビューしたばかりの「ひえい」が到着した。先ごろ、全国ニュースでも紹介された「ひえい」のデビューだが、この眼で見るのは初めてだった。

八瀬へ向かったのは、桜を入れて撮ることだった。ホームの外れから、先端のカーブを望遠レンズで見ると、両側から、満開の桜が続き、その中をデオ200が到着する。いま同じ場所から比較すると、左側は数年前に伐採されて一本も桜はなく、右側の桜も衰えている。50年も経てば、樹木にも盛衰があることが分かる。
八瀬遊園(現・八瀬比叡山口)駅を比較する。全体の美装化は行われているが、建物そのものは、全く変わっていない。当時は自動券売機もない。「八瀬遊園」「かまぶろヘルスセンター」の案内も懐かしい。現在の駅名表示は、何年か前に駅のノスタルジック化があり、開業当時の駅名の「驛瀬八」のままである。


ホームの先端から停車中の電車を見る。ここにも造花の飾りものがあり、ずいぶん華やかな雰囲気になったが、50年前と大きな変化はない。大正14年の開業当時の面影がそのまま残っている。50年前の電車は阪神電鉄から来たデナ500、電制がなく、ほぼ叡山線専用だった。現在の電車は、デオ730形の「ノスタルジック号」、開業当時の緑一色になった。手前2番ホームの幅が倍近くに拡幅されており、イベントスペースとして使われるようだ。

八瀬での滞在時間は10分ほどですぐに引き上げた。撮ったのは以上の3点だけだったが、実はもう一枚、500形の出発を撮っていた。これを「花のトンネル」と題して、当時のP誌の鉄道写真コンクールに送ったところ、佳作に入賞した。規定によってネガを召し上げられたので、写真しか残らず、ネガスキャンもできないが、電車の位置は、黄金比率から逸脱すること甚だしいが、逆にポールが桜バックで浮かび上がったかなと思っている。

さて、現在の叡電の話題は「ひえい」に尽きる。「ひえい」目当てに乗る人も多く、こんな人気があるとは思ってもいなかった。楕円づくしの、奇抜というか、常識外れというか、なんとも形容しがたいスタイルだが、実際見てみると、これはこれでアリかなと思うようになった。正面はさて置いて、「瑞風」と同じ、深いグリーンに金帯、楕円の窓、そして京阪5000系の台車に履き替えた側面は、なかなか良い。

 50年前の撮影地を歩く -25-」への28件のフィードバック

  1. 八瀬比叡山口の駅前電柱が50年変わっていないっぽいのが駅舎よりも凄いのではないかと思います。
    私が産大生の頃はデナ21終焉の頃でしたね。
    デナ500の時は乗れませんでしたが、更新後のデオ600の車体が武庫川車両製で、阪神電鉄7801型に通じる窓の造りに素晴らしい因縁を感じたものです。

    • ほへほへ様
      いつも見ていただき、ありがとうございます。なるほど、電柱は木製のままですね。私も叡電沿線の高校に通っていましたので、電車の変遷は身を持って感じています。それぞれの形式に思い出がありますが、お書きのデオ600は、最後のラストランをみんなで撮影に行ったことも思い出します。デオ300に通じる、いかにも電車と言った、貫通式のスタイルも好きでした。

  2. 総本家青信号特派員様

    潜水艦?と思う『ひえい』ですが、現物を見ていないので・・・(見るのが楽しみ?)
    今年の春は、年中行事にしていた『京都観桜』を止めた事もあって、『ひえい』にはお目にかかれませんでした。

    八瀬駅舎の写真に有る駅名標記が右からなのに一瞬『?』でしたが、どうやら『薄っぺらな観光ブーム』に毒された結果と判り、ため息をついてしまいました。
    手元に2010年4月に撮った写真があり、それには『まともな』書き方となっていますので、わざわざ書き換える意味が判らん!!と嘆くのは私だけでしょうか?

    八瀬と言えば添付の写真が確か八瀬で撮ったと思うのですが、何しろ国鉄以外は『序撮り』だったので・・・。解説いただければ幸甚です。

    • 米手さま、お気遣いありがとうございます。河さんから私のほうに写真が送られてきましたので、添付しました。電車は木造車、デナ1形です。固定編成化されて、2両ひと組で叡山線で働いていました。バックには、八瀬駅のドームが見えます。1961年10月8日の撮影と河さんに教えていただきました。私もこの頃にデナ1を撮ったことがありますが、この木造車のことを知っている方も少なくなりました。河さまからは、「八瀬比叡山口」の正式な駅名が掲げられた時代の写真など、貴重な写真をお送りいただきました。ありがどうございました。

      • 2018-4-11 21:02
        総本家青信号特派員様

        御面倒をお掛けしました。
        いつもの通り、騒いだ割には大したインパクトも無く、申し訳ありませんでした。

      • 米手作市 様

        貴殿から『写真アップのヘルプ』に関するメッセージを頂きましたが、それとは入れ違いに、総本家青信号特派員様に宛ててデジ青とは別の一般メールに写真のコピーを添付して送信しておりました。
        その結果貴殿からの折角の御好意に反してしまいました事をお詫び致します。
        毎度お騒がせして申し訳ありませんが、今後共お付き合いのほどをお願い致します。

  3. 総本家青信号特派員様
    10代でこのような桜満開や駅舎の写真を撮るとはつくづく非凡な才能を感じます。自分の10代の頃の列車走行写真はシャッターの早過ぎ、建物や柱などの影も無頓着で下手くそそのものでした。駅舎など撮ったこともありませんでした。それでも50年以上やっているのは鉄道写真が好きなのでしょう。定点新旧対比撮影は興味深いですね。八瀬駅はほとんど変わっていない様に見えますが、今ではこういう駅舎は珍しいと思います。ところで「ひえい」という電車は見ていないのでコメントするのは失礼かと思いますが、こういうのは苦手です。正面貫通型3枚窓帆付きで育った古い人間には駄目ですね。一度は見ておきたいとは思いますが。

      • 米手作市様
        そうなんです。こういう顔が電車らしくて好きなんです。でも、客車はもっと好きで「比叡」をやめて「雲仙」の食堂車で一番安いチキンライスを頼んだことをデジ青にのっけたと思います。

  4. 準特急様
    いつも暖かいコメントをいただき、ありがとうございます。50年前に撮った写真は、何でも無い写真ですが、その写真に付加価値を付けることは出来ると思います。新旧定点対比は、その一例ですね。50年前の一枚の写真だけでは、何らストーリーは生まれませんが、現在と対比することで、価値が出てくると考えました。それに、一人で新旧対比が出来るのは、健康で長く趣味を続けてきた証しでもあり、高齢者の趣味としては最適と考えます。「ひえい」ですね、実は私もこの手の電車は苦手です。ただ、これからの趣味生活を継続させていくうえで、受け容れて行かなければと思っています。

  5. 総本家青信号特派員様
     新しい「ひえい」、これも名前と一緒で、そのうち当たり前になってくるのでしょうが、年寄りには斬新?過ぎます。
     それにしても、京福時代の叡電は沿線風景と車両のデザインが、とても調和して素晴らしく思えます。

    • マルーン様
      いつも暖かいコメント、ありがとうございます。意外なほど「ひえい」の人気は高く、先の土日も「ひえい」デビュー関連のイベントも行われ、賑わいを見せたようです。斬新なスタイルが誘客につながれば、何よりです。お書きのように、京福時代は“京に田舎あり”で、ひなびた沿線でした。今は、人家が増えて、すっかり風情がなくなってしまった気がします。

  6. 河さま
    デナ1形の写真、懐かしいですね。小生も総本家青信号特派員さまと同窓でしたので、3年間の通学のうち前半は毎朝これにお世話になっていました。
    当時の鞍馬行は出町柳駅を毎時2分と32分に出る30分ヘッドで、間に岩倉止りの区間電車が走っていました。通学に便利な(というか、授業に間に合う最終電車)が8:02発でした。しかし皆がこれに集中するためいつも超満員で、そのため時刻表にも出ていない単行(デナ21が多かったがデオ200や300もたまに入った)の臨時が7:59に先行していました。この電車が本来の鞍馬行で先に岩倉駅のホームの前方に停車し、3分後に来るデナ1を岩倉止め扱いにしてお客を移していました。あるとき何故か車輪が真円でないデナ1があって、超満で走る為車体が変な揺れ方をしたのか、窓外を眺めているとガラスの入った「窓」と車体側の「窓枠」の上部が左右にズレて揺れていたことがあり、貴重な体験とああ木造車だなと認識を新たにしたことを想い出しました。
    やはり写真は何でも撮っておかなくてはいけませんね。未だに実行できておりませんが。

    • 1900生さま

      興味有るお話をありがとうございました。
      実は小生の母が修学院で生まれ育った関係で、良く叡電に乗せられて沿線を案内されたものでした。

      この日も家族が三千院に連れて行って貰ったのですが、小生にとっては『時代物』の電車が珍しく、思わず撮影したものです。
      突き出したキャブがとても印象的で、2両が顔を突き合わせた連結部の『見た事も無い風景』に、しばし口を開けて眺めていたものです。

      貴殿が利用されていた頃は結構『高度』なダイヤが組まれていた由、岩倉で先発の電車を3分間足踏みさせて置いて後続の岩倉止まりのお客を合流させる等、今にも通じる技が合理的ですね。

  7. 今日ある会合で、「シーズンになると大原まで車がつながって困る」という声が出ていました。私が「叡電を八瀬から大原まで延長すればいいのにね」というと「それはいいアイデアだ!」と大受けしました。いかがでしょうか?

    • それ、よろしおすなぁ!?
      大原三千院直通、京阪さん よろしゅうに!
      さすが、米手はん。

    • 米手作市さま マルーンさま
      実は京阪にその構想(計画ではありません)があったのです。とはいっても会社として正式に決定したものではなく、輸送力増強や新線計画を考える部署のある種妄想の一つでした。とはいえ外部にも出回ったミニ社史の将来構想としてポンチ絵が載ったこともありましたから、あながち妄想ばかりでもなかったかもしれません。
      きっかけは出町柳延長と堅田における住宅地開発でした。鴨東線はまだ免許申請もしていない頃のことですが、もし鴨東線が完成し(当初は京阪の延長線という計画で、鴨東線「お」の字もありませんでした)京福(当時)と相互乗り入れをした暁には、八瀬~大原~堅田と延長するというものでした。大原まではまだ何とか高野川のヘリに沿って延長できますが、大原から堅田へは長大トンネルで抜けるというもので、ラフな絵ではありましたが一応図面まで描かれていました。当時は湖西線の開通が目前でしたが、宅地開発しても最寄地点に駅が無い(後日小野駅として実現)ことや、輸送計画が旧国鉄頼みになることなどから、自社線の延長が構想されたわけです。
      何事もそうだと思いますが、鉄道計画も実はこの頃が模型並みに一番夢があって面白く楽しいものなのです。一旦計画が決定してしまうと、後は社命を実現するためにストレスだけが担当者に覆い被さってくるからです。
      堅田まではともかく、大原延長が実現しておれば3000系による淀屋橋発鞍馬・大原行特急が実現していたかもしれません。3000系が3+3連で計画されたのはこれらを視野に入れてのこと、というのは冗談ですが。
      他に寝屋川車庫までの複々線計画が固まった段階で、更に交野~樟葉東部~八幡町又は淀へと新線を
      延長する構想もありました。半世紀前のことですからもう時効でしょう。

      • 大原の住人の話では、数年前と今では観光客の増加がハンパないとのことです。以前は冬になれば売り上げゼロの日があったが、現在は遜色ないと言っていました。大原延伸は今こそ実現可能では?

        • 米手作市さま
          いえいえもう現在では無理だと思いますね。というと出来ない言い訳ととられても困るので、思いつく理由を少し述べます。
          まず採算性です。なるほど今はインバウンド効果で、あの寒く閑古鳥の鳴いていた冬でさえフルシーズン化したのはご同慶の至りですが、この効果が未来永劫に続く保証はどこにもありません。だからこそ京阪の構想も堅田の需要で輸送量の底上げ=採算の確保を狙っていたわけです。鉄道計画というのは富国強兵でイケイケの明治時代ならともかく、今は少なくとも半世紀先まで見据えたうえで進めなくてはなりません。大原の観光需要だけでは到底採算が確保されないと思われます。
          次に風致行政の厳しい京都にあって、八瀬~大原間はいわば洛北風致地区の真っただ中ですから、風致のみならず環境行政からも相当厳しい条件が付くことを想定しなければなりません。地上線では殆ど不可能くらいに考えておくべきかと思います。ということは仮に敷設できたとしても、建設費は莫大なものになろうと思われ、採算性が益々悪くなるでしょうね。
          仮に実現のためには大原地区で大規模住宅地開発でも計画されない限り無理でしょうし、もうこれは絵に描いた餅でしかありませんから。
          というわけでガッテンしていただけましたでしょうか。もし敷設可能なら楽しい計画になりそうなのですがねえ。夢の無い話ですみません。

      • 1900生様
         新線構想、計画は夢があって素敵ですね。厳しい現実の前に頓挫してしまうのが残念でなりませんが・・・沢山のお客さんに乗ってもらわなくてはなりませんからね。
         最近、京阪中之島新線計画やなにわ筋線延伸等現実化していきそうな空気になっていることは嬉しいことです。阪急神戸線と神戸市交の相互乗り入れなんかも・・・
         やはり、経済の活性化、人口増等々基盤をきっちりさせていかないことには駄目でしょうね。個人的には北陸新幹線の新大阪乗り入れを一日も早く、私の目の黒いうちにと思います。これをしないと関西が益々沈下しないかと心配です。私の目もだんだん黒くなくなっていくしなぁ。 嗚呼

         

        • マルーンさま
          半世紀前頃までなら伊豆急行のように観光地への足としての鉄道計画もありましたが、今や大都市でないと成り立ちませんね。淡路の立体化も始まったようですが、あんな複雑な駅をどのようにするのか興味深々で完成が待ち遠しいですね。似たような近鉄の西大寺は未だに決めかねているようです。
          中之島線は計画そのものが中途半端です。関空アクセスとして構想されていた「なにわ筋線」にリンクするはずでしたが、同線計画が頓挫して目的地が無くなってしまったからです。ならば西九条まで行って阪神と結ぶという声もありましたが、建設距離が倍になるため実現しませんでした。
          マルーン様の北陸新幹線への想いはよくわかります。あの宮脇俊三さんが著書で青函トンネルと瀬戸大橋線に触れて「開通を待ち望みたいが、それはとりもなおさず自分の寿命が残り少なくなること。そういつまでも待っていられないから早く造ってもらわないと」と。若いうちは「そのうち」と思っていたものが、最近はそのうちが無くなってきたと感じ、さらに流行り文句ではありませんが「今でしょう」と切実に思うことしきりです。お互い70の大台に乗りましたからねえ。

  8. 米手作市さま マル―ンさま 1900生さま

    皆さまの叡電路線延長についての熱い議論、楽しいですネ。
    『デジ青』はこうで無ければ・・・と、一人ウナズキながら読ませて頂いております。

    話を振出した米手作市さまが既に『ガッテン』なのに、蒸し返す(乗り遅れた)ようで申し訳ありませんが、私も一言。

    場所は、同じ叡電でも貴船口に於ける昨夏の体験ですが、米手さんの仰る大原のそれと同等(それ以上?)の車々状態を目の当たりにしました。

    何しろ道路が糞詰り状態でニッチもサッチも行かず、人が歩けない=車と車の隙間をジグザグと、何とか通り抜ける有様でした。
    大原と貴船は同じ道路環境とは言えないかも知れませんが、車公害的な様子は想像がつきます。

    ・・・で、延長談義ですが、昨今の山奥にまで押し寄せる車公害は、仮に鉄道の延長があっても、もはや車から電車への乗り換え誘導が不可能ではないかと考えられ、その観点から見ても『採算性』以前に『実現不可能』が立ちはだかるような気がします。

    今や日本は『一家に2台』状態が迫る勢いで車が普及しており、狭い日本の交通が早晩行き詰まるのが目に見えるような気がしますが、妙案はナシでしょう。
    いや、いや話題のポイントを切り替えて、夢も希望も無くしてしまい(笑)、申し訳ありません。

    • 河さま
      ご感想を戴き有難うございます。最近の貴船はそんな状態なのですか。仕事の関係でその辺りをうろついていた時にはそこまでのことはなかったのですがねえ。ただ大原は毎秋似たような状況になっていて、京都バスの人がダイヤ乱れを最小限にするため整理に追われていました。事情が許せば鉄道路線が欲しいところではありますが。

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