Nakabayashi Collectionにある“混合列車”

作品を公開するに当たって作者名をどうするかで悩んだ。通称「大阪通信員」として洒脱な名文を投稿されている方の本名を出していいものかと言うことである。ご覧の通り、作品は詩情豊かに鉄道の青年期から壮年期への曲がり角を克明に切り取っている。ユーモアあふれる投稿とはひと味違う写真集なので、ここは本名を書かせて頂き、ご本人のお人柄をご理解頂こうと考えた。ご本人は21時を廻ったので、すでに眠っておられる。早朝に起きられて激怒されても、今度はこちらが眠っているのでいいと決断した。

中林英信氏は全国をくまなく撮影している。その作風は元祖青信号特派員氏や、故・天野克正氏に通じるものがある。氏が撮られた中から「混合列車」の数点をご覧いただきたい。なお、コメントは主にご本人が写真の裏に記入されたものを使用し、一部を編集した。

肥薩線大畑ループを登る人吉発吉松行き混合871レ 1964年3月20日

豪雪の飯山線に一瞬、太陽が顔をのぞかせた。しかし、窓は息で曇り、屋根からはつららが下がり極寒に変わりはない。C56+貨車+オハユニ61+・・

下り普通415レ C11232(盛)橋場線 大釜ー小岩井 1965年9月30日

下り混合 高森行き117レ 高森線 阿蘇白川ー高森 1964年3月25日

上り普通716レ 68686(能)五能線 風合瀬-大戸瀬 1965年8月27日

下り普通717レ 8620 五能線 風合瀬ー大戸瀬 1965年8月27日

これは作品の中にある「混合列車」の一部である。

 

Nakabayashi Collectionにある“混合列車”」への5件のフィードバック

  1. 橋場線という聞いたこともないような線名が説明文であったので、不思議に思って例によってネット検索してみました。今の田沢湖線であることがわかりました。田沢湖線に名称変更されたのは1966年(昭和39年)9月10日ということのようです。そうすると橋場線から田沢湖線に変わるほぼ1年前の大変貴重な写真ということになります。すごいです。おかげで橋場線のことも知りました。ありがとうございました。

    • どですかでん さま
       橋場線、お調べいただきありがとうございます。鰤のような出世路線で、混合列車から新幹線まで成長しました。優秀な介護士さまのお陰で50数年まえの画像がよみがえることができました。好奇心を持ち続けることは健康の素と経験から思いますので、勉強をお続けください。

  2. 米手作市(マイテ391) さま
     介護まことにありがとうございます。前説ならびにコメントにもご苦労をお掛けしました。
     半世紀前、まだ混合列車が各地に残っていました。多くの混合列車の客車には荷物室や郵便室を併設した合造車が連結されて、窓配置や大きく落ち込んだ荷室扉で変化のある好ましい客車でした。手荷物小荷物は郵便小包で送れない大きな荷物を個人が送れる重要な手段でした。駅には出札口と共に手荷物小荷物窓口が必ずありました。
     大畑ループは同好会I波氏とO西氏と同行三人で九州を訪ねました。当時の日記には「3月19日。今朝早く熊本に着き立野のスイッチバックを見に行った。豊肥線も明日からディーゼルカーになるそうでC58・9600の姿も少なくなる。天気は快晴で蒸機時代の立野をカメラにおさめるには絶好だった。夕方には大畑に着き、駅のホームで夕食の後、今夜は駅で泊まった」とある。リュックをかたわらに駅のホームで炊事している写真や吉松機関区へ寄ったときC51270によじ登り煙突と前照灯の間に座る記念写真が残っているがスキャンできません。大畑駅で迎えた朝は雨。そこで撮った一枚です。雨なので日南線と古江線を乗りに行くことに。古江線終点の海潟駅は木造のバラックで駅員さんは一人。駅近くのうどん屋で安宿を紹介してもらったが、そこの宿の娘さんが「ものすごく美しい人であった」と
    日記にある。残念ながら写真はありません。翌日は噴煙あがる桜島を眺め西鹿児島より指宿線で枕崎駅へ。夕食後は南薩鉄道に揺られて伊集院へ、上伊集院へに着いたのは23時とある。
     飯山線は狂化合宿。大雪で鹿渡館が一階建てにしか見えず雪の階段を降りて玄関に入ったのは初経験。駅前旅館で、誰が見つけて誰が同好会指定旅館と決めたのでしょう。
     高森線。形式入りナンバープレートを備えたC1293がいた日之影線日之影駅から宮崎交通バスで峠と県境を越えて高森駅へ。阿蘇下田駅で降りひなびた地獄温泉で泊まり翌日は外輪山を越えて阿蘇山頂まで登る。当時の撮影旅行は薄茶色の帆布製の横長の登山リュックを背負ってキャラヴァンの登山靴というのが正装だったので山登りに変身しても違和感はありません。今思えば無謀なことしたと思います。ロープウェイ食堂の親子丼は100円でした。当時一日の食事宿泊費は千円が目安でした。
     五能線も狂化合宿。海岸段丘を走る線路横に露営。近くには牛が放牧され、風上で放尿されると水しぶきとなって飛んできて、得も言えぬ香水をふってもらうことになります。

  3. 解説ありがとうございます。
    当時を忍ぶ行程の数々、同じ時期に体験したことも多くありました。海潟の駅はまだ出来て間もないようで、一本ぶち込み線の車止めの向こうに白木の駅舎があり、石炭ストーブの上に大きなアルミのやかんがのっていて、盛んに湯気を噴いていたことを覚えています。
    飯山線の狂化合宿には私も参加していました。証拠に鹿渡館二階から撮った同じカットがあります。
    鹿児島交通の話題が出たことがあります。もし写真があればお貸しください。
    それにしても妙な看板があるのですね。ピースの箱と比べてもその大きさが分かります。どこから「と」ってきたのですか?

  4. ナカバヤシ・コレクションの至宝の数々、楽しませてもらっています。橋場線で撮られたものがあるとは、ほんとに驚きでした。どですかさんが、橋場線の名称すら知らなかったとお書きでしたが、私も経験があります。昭和40年前後のピクの鉄道写真コンクールに、橋場線の名を冠したタイトルがあり、はて、橋場線? 私には全く未知の線区でした。
    昭和40年の撮影とあり、当時の時刻表を見ました。蒸機列車5往復、気動車2往復ありました。撮影された415レは、15時過ぎの撮影ですね。こんな盲腸線へよくぞ行かれたものと感心します。

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