25年前の新春鉄道写真三昧

【6240】で総本家青信号特派員さんが阪堺電車の初詣風景の素晴らしい画像と書き込みを拝見して、25年前の昭和61年の元旦、ほぼ同じ場所で撮影したことを思い出し、当時の画像を引っ張り出してみた。

昭和58年のゴールデンウィーク期間中に生活の拠点を東京都内東部の亀有に移し、急激な生活環境の変化と旧形国電、旧形客車が姿を消したこともあって、鉄道に対する情熱はすっかり冷え切っていた時期であったが、正月休みに帰省した時に何故か阪堺線の「改々電車」(205形)と元京都市電(251形)が見たくなって出掛けたものと思われる。「改々電車」と元京都市電が営業運転に就くのは、ラッシュ時と初詣輸送時くらいのため、関西在住の頃にまともな写真が撮れておらず、チャンスと思ったのかもしれない。そのため車両中心の画像であるが、満員の乗客で当時を偲んでいただければと思う。

モ205形

旧阪堺電気軌道が開業時に新製した木製車を昭和12年から22年にかけて鋼体化した車両で、205~250の46両在籍した。最後はワンマン化されなかった平野線で使用されていたが、昭和55年11月27日、地下鉄谷町線が八尾南まで延長に伴い、平野線が廃止された時に246~248の3両が中扉を新設してワンマン化され生き残り、主にラッシュ時と正月に使用された。改造を重ねているため「改々電車」と言われた。(怪々電車と言う人もいた)

モ251形

元京都市電の1800形(ワンマン改造前は800形)で251~256の6両が在籍した。京都市電時代の旧番は車号順に1844、1866~1870である。複雑な改番を行った600形→1600形と違い、800形時代の車号に単純に1000をプラスしただけである。転入当初は日常的に使用されたが、パワー不足でスピードが出ないため多客時以外は使用されなかった。廃車後は256(元1870←870)が京都時代の塗装で我孫子道車庫に保存され、一般公開時に見ることができる。また、255(1869→869)はアメリカアリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され、869時代の前後扉に復元の上動態保存されている。

251/元1844←844で、251形の内この車のみ昭和25年近畿車輛製である。844時代は九条車庫の配置にされ、伏見線でよく乗った思い出深い車である。窓枠は昭和30年代後半にアルミサッシに取替えられていた。

 

252/元1866←866で、昭和28年愛知富士産業製、このグループが5両全車転入した。ツーマン時代は間接自動制御で烏丸車庫に配置され、通学時によく乗った車両である。車体は半鋼製であったが、内装は木目プリントの軽金属板が使用されていた。866は、600形を1600形への改造にあたりテストカーとして、ヘッドライトのシールドビーム化(但し1灯)自動昇降式ビューゲルの取付け、車内外スピーカーの取付け、直接制御化が行われた。

 

254/元1868←868で、昭和28年愛知富士産業製。867~870はワンマン改造時に直接制御となった。

 

255/元1869←869で、昭和28年愛知富士産業製。廃車後アリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され動態保存されている。869時代の前後扉に復元されているが、ヘッドライトが窓下に移動、集電装置が阪堺時代のパンタのままと原形とは多少異なるがよく残ったと思う。

 

256/元1870←870で、昭和28年愛知富士産業製。現役時代は「タマノ井酢」の広告車であった。廃車後、京都時代の塗装に戻され動態保存されており、一般公開時に見ることができる。

モ121形

昭和42年に元大阪市電の1601形を譲受け、木製車モ101形の足回りを組合せて竣工した。121~130の10両在籍したが平成12年までに廃車となり、ラストナンバーの130が浜寺公園に保存されている。

 

モ151形

昭和2年川崎造船所兵庫工場製で電4形として10両作られた。モ161形、モ301形への改造により、最終的には151~154の4両となった。当初は直接制御であったが昭和35年に多段式間接制御に改造、昭和54年にワンマン化されたが平成13年までに廃車された。

 

モ161形

昭和3年161~170か川崎車輌で、昭和6年171~176が田中車輌と大阪鉄工所で作られた。当初から総括制御が可能な間接非自動制御で連結器を持ち、昭和26年まで平野線で連結運転を行っていた。現在も10両が健在で多客時を中心に使用されている。

 モ301形

モ151形とモ161形の戦災復旧車で301~307の7両在籍した。制御器は多段式間接制御で301形同士の連結運転は可能であったが、161形とは制御器の相違から不可能であった。

 

モ351形

木製車モ101形の主電動機を流用して昭和37年(351・352)と38年(353~355)に帝国車両で作られた。車体は昭和32年に新製されたモ501形とほぼ同じであるが車掌台の窓が異なる。主電動機を流用しているため釣掛式であるが、台車は空気バネの新品、主電動機も間接自動式の新品である。昭和61年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

モ501形

昭和32年帝国車両で当時の最新鋭技術によって作られた高性能車で501~505の5両在籍した。昭和60年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

 

 

この時点では505は未だ冷房化はされていない。

 

 

 

 

 

 

25年前の新春鉄道写真三昧」への1件のフィードバック

  1. 老人は貴君が住吉さんへお参りしたころの阪堺電車の実態は知りません。1988年に路面電車同好会に入会した時、阪堺電車にこだわりを持つ青年2人と仲良くなりました。例会2次会(飲み会)で2人が正月3が日、住吉交差点の停留所でアルバイト係員をしていると知り、敬意を表する意味で若者たちに「2日夕方、住吉交差点に全員集合!」と声掛けしました。5、6人集まったかな、18時に勤務を終えた2人と共に屋台の長椅子で宴会となりました。寒くてたまりません。翌年は居酒屋の2階6畳、4年目に店主が交差点北詰南行電停前に移転、ここが2日18:30からの「住吉出張例会」の場となりました。同好会でも評判になり、正月に住吉に行けば電車と仲間に会えると、北海道から鹿児島からの仲間の集合点となり情報交換の場となりました。多い時は20人を超え立ち飲みが出るやら、賑やかな正月を迎えました。ここ4年、参加していません。孫のため禁足令が出たからです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください