国鉄京都自動車工場について

最近、別件で本棚をさがしていたところ、『国鉄京都自動車工場十五年史』(昭和37年8月1日発行)がでてきましたので、米手作市さんの  2019年1月17日投稿 「【103398】西村さんへの借りを返すの巻」  に関連して、ご参考に供します。

全景

京都自動車工場は、海軍管理工場だった神戸発動機製造所京都工場(京都市下京区吉祥院中島二八)の土地建物一式を買収し昭和22年3月1日京都工機部として創設され、昭和25年4月1日京都自動車工場と改称しました。昭和29年4月4日未明火災があったりしましたが、自動車の修繕量が減少したため昭和37年8月31日閉鎖されました(鉄道公報昭和37年8月1日公示第319号)。
開設式が昭和22年3月1日(土曜日・晴天)午前10時から、閉鎖式が昭和37年7月31日(火曜日・晴天)午前10時から挙行されました。閉鎖式では偉い人の挨拶の他、余興として舞妓さん達の祇園小唄の踊りや万歳三唱、お別れパーティがあったそうです。閉鎖式を開催するのは珍しいようです。
工場略号はKT、その名の通り自動車に特化した工場で、引込線もありませんでした。

俯瞰図

平面図

閉鎖式式場図

国鉄京都自動車工場について」への5件のフィードバック

  1. 井原さん、ありがとうございます。
    全景図と俯瞰図と平面図は少しずつ違うようですが時期の違いでしょうか。
    俯瞰図では左右に走る本線の下が国鉄自動車工場、上が湯浅電池です。
    特徴のある釣り鐘型の工場屋根がいくつもあったのをはじめて知りました。

    • 全景写真と平面図はどちらも昭和37年6月と書いてありますが、相違があるとは困ったことですね。俯瞰写真は湯浅電池のために撮ったものを流用したような感じですね。

  2. この場所は、いま西日本JRバスの京都支店・京都営業所になっていますね。その南側には、いまもJR社宅があります。国鉄時代からアパートが建っていて、町名をとって、中島住宅と呼ばれていました(たしか二年先輩のGさんも、この住所だったと思います)。広大な国鉄用地は、海軍の工場跡だったとは初めて知りました。俯瞰図に興味深いものを見つけました。写真の下部中央から、まっすぐ北へ延びる道(西小路通)があります。線路までは現在でもありますが、線路から北は、湯浅電池(現・GSユアサ)の工場のなかに取り込まれて道路は存在しません。その代わりに左側に湾曲している川を暗渠にして、道路を通しています。写真では道路が完成しているようにも見えますが、線路を潜るところには、開業当時の東海道線の橋台がまだ残っています。

    • 『国鉄京都自動車工場十五年史』に、「京都市西大路在に、昭和8年東洋クロス株式会社の工場が建設され、この工場が昭和18年神戸発動機製造所に譲渡され、海軍管理工場となって船舶用内燃機を製作していたが、終戦と同時に仕事が無くなったため工場を売却したい意思」があったので連合国最高司令部の許可を得て買収したと記されています。金額は土地建物設備合計13,150,905円95銭(3ケ年分割払)、収入印紙代500円でした。東洋クロスは東洋紡の系列会社のようです。
      Gさんはここの国鉄の寮にお住まいでしたね。

      • Gさんは、いまどうしておられるのでしょうか。いまは無き、大阪駅北ビルの書店の責任者としておられた時、よく仕事の行き帰りに寄らせてもらったことを覚えています。

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