京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その3

3. 全線開業までの運行形態
先に開通した三井寺-螢谷間はカーブの多い路線で大正末期には開業時に作られた大津電軌1型(京阪合併後の旧80型)とその後増備された大津電軌11型(京阪合併後の90型)という路面電車タイプの車両によって運行されていた。これに対し、三井寺-坂本間はカーブの少ない直線の線路を主体に、当時の高速高規格電車での運行が計画された。開業時に新製された琵琶湖鉄道汽船100型(京阪合併後の旧800型)は15m級ではあったが片側ロマンスシート、片側ロングシートの当時としては先端を行く車両であった。螢谷-坂本間で線路がつながったと言っても三井寺を境に坂本側は高規格の高床式、螢谷側は路面タイプの低床式と全く異なり乗客は三井寺で乗り換えを強いられ、この状態は昭和6年まで続いた。ところで部分開業の時はどのような運転形態であったのだろうか。開業時に作られた仮停留場の図面を見ると、三井寺停留場と兵営前停留場は路面タイプの低いプラットホームで、これに対して山上停留場、松ノ馬場停留場は高床用のプラットホームであった。

資料6:三井寺仮停留場平面図(県政史料室歴史史料、大と1より作図)昭和2年5月15日三井寺-兵営前間が部分開通した時設置された三井寺假停留場。レールと枕木状のもので作られた路面タイプの停留場。

県政史料室歴史史料昭和2年4月29日付三井寺停留場「假停留場設置御届」にも「追って右停留場用地買収完了のうえ並びに練兵場の区間完成の上前後貫通致し新車両を三井寺停留場まで運転使用する際には右假設備を廃止し,前記申請の通り三井寺本停留場を設置可致候間豫御了承願上候」と記述があり、全通までの間三井寺-兵営前間は路面電車タイプで運行していたことがわかる。
昭和2年7月29日付「假停留場撤廃御届」では松ノ馬場の仮停留場が廃止され、昭和2年9月10日付「假停留場撤廃御届」では兵営前及び山上の仮停留場が廃止され本来の停留場の使用が開始された。残る坂本、三井寺の仮停留場は三井寺-坂本間完成の後も仮停留場のままで残り、三井寺停留場は新型車が入れるようになったものの、当初の仮停留場をさらに変更して6か月の期限付きの仮停留場が作られた。その仮停留場は何度か使用期限を延長し、本停留場となったのは、石山-坂本間の直通運転が可能となった昭和6年であった。

資料7:全通後三井寺仮停留場平面図(県政史料室歴史史料昭と6より作図)三井寺―坂本間が全通した時に作られた三井寺仮停留場。坂本行と螢谷行が分離されたため線路は分断され、ホームも低床式、高床式が別に作られた。

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