2.大津市内線
市内線は大正10年に京都-大津間の線路付け替えが完成し、新しく作られた大津駅と石山線を結ぶ目的で計画され、大正11年5月25日に三井寺-大津間で特許が認められた。この時の申請書は見当たらず、当時毎年発行されていた今の営業報告にあたる軌道表の大正11年版に、計画線特許として申請距離のみが記載されていた。このためルートははっきりしないが、当初の申請距離は1.046哩(1683m)で国道を使う併用軌道部分が0.15哩(241m)県道を使う併用軌道0.858哩(1381m)、新設軌道0.038哩(61m)となっている。
↑ 図4:市内線(大橋堀線ともいわれる)のルート
当初旧東海道から西近江路を通る路線だったが特許変更後、大橋堀停留場を結ぶ赤実線のルートとなった。
これから推測すると当初のルートは大津駅前から寺町通(旧大津駅前通り)を浜大津方面に向かい、京町通で左に折れて旧東海道を西に進み、(大津では当時この旧東海道が唯一の国道であった)札ノ辻から西近江路を通って三井寺に至るものであったと思われる。
↑ 写真5:三井寺駅
坂本線ができるまで終着駅で、当初は大きな駅を計画していたため、他の中間駅とは異なり、改札を出たところには広いスペースがある。
その後、大正14年9月30日に特許変更され、寺町通をそのまま真直ぐに進んで大橋堀停留場に至る経路に変更された。
大正14年5月には京津電軌が札ノ辻から浜大津への延伸を果たしたため、大津電軌が三井寺に接続する意味がなくなり、石山線への最短距離を結ぶようにしたものと思われる。
↑ 写真6:札ノ辻交差点
旧東海道は正面からきて、この交差点で右手の方に曲がり京都に向かった。当初の計画路線は正面の旧東海道からそのまま西近江路に入った。正面の車が停まっているところには京津電軌札ノ辻停留場の待合所があって建物の一部が残っていたが、一昨年取り壊された。
但し、この市内線の計画も大正15年上期営業報告に「市内線は実測完了し調査設計中」と記載されたのを最後に県政史料室歴史史料から姿を消した。
計画の寺町通と京津電軌の通る八町通りは並行してわずか200mあまり、院線大津駅から浜大津までは1㎞足らずで新設するには無理があったように思えるが、大津駅に接続する鉄道がなかったことで、新大津駅は交通の拠点にならず、現在でも大津駅周辺の賑わいが乏しい一因にもなったのではないだろうか。
↑ 写真7:旧大津駅前通り
昭和50年にやや東寄りに現在の大津駅ができ、正面に4車線の駅前通りができたが、以前はこちらが駅前通りで、ここを路面電車が走る予定であった。
↑ 写真8:旧大津駅
大正10年8月1日東海道線の新線ができたときに新設された。線路は駅前広場より少し高いところを通っていたため、跨線橋はなく、改札を抜けると地下通路を通ってホームに上がった。当時の通路は現在も駅の南側への自由通路として使われている。(昭和42年ごろ撮影)
大津電車の路線計画もあった寺町通りは、よく大津駅から浜大津まで歩く時に通りました。古い街並みが所々に残っていて好きな通りでした。とくに中央二丁目の角にある書店が古い洋風建築でした。もう姿を消して跡地には何があるのかと思って、グーグルで調べると、まだそのまま残っていたのには、びっくりしました。大津駅の旧駅舎もちゃんと記録されていたのですね。私も、当時近くにあった京阪バスの車庫へボンネットバスを撮りに行った帰りに撮りました。
総本家青信号特派員様
おっしゃっている本屋は京町通の角の島林書店ですね。最近町家の写真も撮っていますが、もう少し前から撮りだめておけばよかったと後悔しています。旧大津駅の写真は高校時分、模型をかじり始めて大津駅を再現したいと思って撮ったのですが、半世紀たった現在でも完成していません。