京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その3)

3.南郷線
石山線が運行を開始したすぐ後の大正2年8月4日に石山寺から立木観音までの延長の特許が認められた。当時は神社仏閣への参拝者目当ての鉄道路線がいくつかあり、南郷線も厄除けで有名な立木観音への足として計画された。

↑ 図5:南郷線計画図(滋賀県県政史料室歴史史料 明と90-23に加筆)
延長線の起点は現在の石山寺駅ではなく、石山寺門前になっている。石山線の終点は石山寺門前までで特許認可されていたが、石山寺や付近の住民の反対もありこの区間は完成しなかった。石山寺から南郷までは山が迫っておらず、特許線も川から少し離れたところを専用軌道で作ることになっていた。南郷の先、今年できた瀬田川令和大橋より先は山が迫り、細い里道部分を拡張して併用軌道で計画されていた。

その後、設計が進まず、工事施工認可申請が期日の大正4年11月28日に間に合わなかったため、大正4年11月19日に1年間の延長を願い出た。ところがこれに対する回答がなかったらしく、その間計画も進まなかったので、大正5年11月24日に再延長を願い出た。ところが、鉄道院監督局は大正4年の延長願が期限後に出されたとして特許の失効を通知してきた。慌てた大津電車軌道は大正6年3月20日再度特許申請を出したが同年6月6日不許可となり、その後石山線の三井寺延伸、坂本線の計画に加え、経済不況もあって計画が進むことはなかった。

↑ 写真9:立木観音駐車場から見た瀬田川
両岸とも山が迫っていて立木観音のある西岸だけに道がある

↑ 写真10:立木観音参道入口
特許申請書に添付された図面では、参道の入口が南郷線の終点であった。

大正6年の特許申請書によると、石山線と同じ電車でこちらも運行回数は1日96回、平均乗車人員9人の計算で利益が出ると書かれているが、沿線には人家が少なく、立木観音への参拝客だけでは採算に乗らないものであったのではないだろうか。
但し、現在では石山寺から南郷までは住宅地が広がり、石山駅からのバスは頻発していて利用者も多い。もしこれができておれば、早い時期からの開発が進み、また違った発展をして、ある意味では先見の明があったのかもしれない。

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その3)」への2件のフィードバック

  1. 立木観音の前の道は富山から帰ってくるとき何回か通っています。駐車場にはいつも車が停車していて参拝者が多いようですが、車でしか行けない所なのに今まではバスしかなかったのかと思いましたが、電車線の計画があったのですね。大正2年に申請が認可されたそうですが、奈良でも平城電気軌道というとんでもない電車線が申請されていますが、却下です。終点の春日大社の反対があったようです。このことは隣町の「王寺町史」に書かれています。信貴電も未成線があり、これもとんでもない計画です。当然却下です。実は却下されてよかったのです。完成していたら経営難で倒産、運行停止、そして今の近鉄生駒線もなかったと思います。なにぶんにも計画では亀の瀬地すべり地帯の通っていたのですから。

    • どですかでん様
      富山の帰りに立木山を通られたということは瀬田川沿いに宇治を抜けてその先はどのルートで帰られたのでしょうか?
      この時代、通勤で鉄道を使うよりも参詣客を目当てにしたものが多かったようですが、寺社側の反対も多かったようです。石山寺は反対運動のために門前から1㎞離れたところに石山寺駅を作り、反対側の坂本も日吉大社の反対で工事が遅れました。石山寺の反対理由は参詣客の安全のための他、神聖を保つのに門前に殺風景な電車が走っては困るとのことで、今以上に自社の力があったのですね。
      尚、未成線シリーズの最後は立木山へのケーブルカーの計画です。もしこれができていたら石清水八幡宮のようになっていたでしょうか?

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