「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅲ-

重油で走ったC59

写真展では、山科の大カーブを行く定番の構図だけでなく、変化をつけるため、ロング、俯瞰など、さまざまな写真を並べました。斜め後部、やや俯瞰で撮ったC59も選びました。背後に山科の“里”が入っていて、いまの山科と比較できるのも選んだ理由の一つですが、このC59だけに見られる特徴のある角度なのです。キャプションに触れておきましたが、気づいてもらえるだろうかという思いがありました。ところが、その写真に近づくなり、「これは重油専燃機じゃないですか!」と、ずばり看破された方がおられたのです。その方こそ、“SL好きの国会議員”のMさんでした。C59のテンダー上に見える重油タンクをしっかり見ておられたのです。東山トンネルを出て、山科の“里”を走る週末準急「ゆのくに」を牽くC59127 煙突からは煙が出ていない。“ゴォー”と言うドラフト音だけが響いていた。山科では、「つばめ」「はと」「さくら」「鳥羽快速」、それに「ゆのくに」がいちばん早かったと佐竹さんは述懐されている。

私など、石炭・重油の併燃機は知っているものの、重油だけで走る蒸機があったことなど知りませんでした。これは宮原区のC59127で、石炭の質低下、値上がりを受けて、熱効率の向上、取扱いの簡便、価格面で、重油だけを燃料とした蒸機に改造することになり、昭和

EPSON MFP image

28年12月に鷹取工場で完成しました。翌29年2月、大阪~京都の急行で牽引試験を行い、石炭より20%増の能力が確認されました。本格的な運用として、大阪~米原に週末のみ運転される準急「ゆのくに」で、同一列車、同一乗務員の限定で運転を開始しました。しかし、同区間は昭和31年10月に電化、C59127は、盛岡へ転属して、東北本線の補機として使用されますが、取扱いの困難と重油の値上がりで敬遠され、結局、鷹取工場に戻され、昭和35年3月に廃車されました。    当時の時刻表の「ゆのくに」、京都~米原は60分ちょうど、途中は大津停車で、無停車の「はと」より2分遅いだけ。なお、現在の新快速では57分程度、普通なら75分程度掛かる。

佐竹さんは改造の報を聞き、宮原区で初めて専燃機を撮影され、翌日には、自転車で山科に向かい、上掲の撮影をされています。いっぽうのM議員、来られた日は、衆院選挙後の国会が午前で終了、すく新幹線に飛び乗って、写真展会場に直行されるほどの熱の入れようで、近々、久しぶりに蒸機の撮影に行きますと楽しそうに語っておられました。

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅲ-」への11件のフィードバック

  1. このC59は、重油機では?
    と思ったら、もう書かれていました。
    燃焼効率とカロリー転換の理想形だと思います。

    • いつもコメント、ありがとうございます。本によりますと、C59の牽引定数は、石炭の場合は400tのところ、重油では500tが可能と書かれおり、20%の効率が上がったていました。

      • 単純計算ですが、米原ー京都間67.7kmを60分なら、112.8km/hですから、C59 127がいかに俊足機だったかが理解出来ます。

        「はと」のC62は宮原のエース29号機などを宛てていたから、きっと細心の整備が施されていたでしょう。

        調べてみると「ゆのくに」は大阪仕立てのオハ級8両と名古屋発の客車3両を米原で併結。2等車は3両も繋がった贅沢行楽列車だったようです。
        写真の客車もスハフ42でなく軽いオハフ33なので、これは牽引定数的にも軽く、しばしば127号は120km/h以上を軽く叩き出していたと想像します。

        同機にとっての不運は使用線区の電化で、転出先の雪と勾配の多い東北線で、高速パシフィックの能力を出せずに4年弱で廃車。試作的なロコの悲哀を痛切に感じました。
        まさにスピードを出し過ぎて天に昇った高速馬のような一生だったのだと、改めてこの機関車を振り返りたくなりました。

        • 【訂正】
          単純な計算ミスで67.7kmを60分なので表定速度は67.7km/hでした。
          そんなにSLがスピードを出せる訳は無いだろうと冷静に考えたら、あら恥ずかしい。数学に弱いのがバレてしまいました。ゴメンナサイ。訂正してお詫びいたします。

          • KH生さま
            コメント、ありがとうございます。でもC62が、狭軌での蒸機最高記録129キロを持っていますよ。単機とは言え、記録を出した木曽川鉄橋付近は10パーミル勾配があったそうで、山科と条件は同じです。ちなみに広軌では、イギリスの3シリンダーのパシフィック機で202キロだそうです。

          • 昭和30年7月の時刻表を見ると、まだ大津は無停車で、京都米原間を58分で結び、表定速度は70キロ超え!
            いかにC 59 127が高速だったのかが窺えます。
            山科を100くらいで通過していたのでしょう。

  2. 重油専燃機C59127は、よく知られてはいるが、写真があまり残っていない機関車のひとつと思います。佐竹様の作品は、テンダーをやや上後方から捉えた点、機関車の特徴を理解した上で撮影された、優れた記録と存じます。小生がデジ青で、よく紹介させて頂いているGordon Davis氏も何点か、この機関車を捉えていました。珍しいので、十数年前に刊行した彼の写真集「思い出す日本の鉄道 国鉄編」に全点載せましたが、ここに1点、再掲致しましょう。偶然の撮影と思われ、専燃機らしさは写真からは、あまり感じられません。場所は、山科駅の京都寄りで、昭和31年2月の撮影、列車は「ゆのくに」です。既に電化工事が始まり、ポールの建植が始まっています。

    • 宮崎繁幹さん、めずらしい写真を見せて頂きました。ありがとうございます。
      感想を一つ。
      重油専燃機でも、煙突から煙が出るのだ、ということ。

    • 宮崎様
      米手様
      佐竹さんは、その前日に宮原でC59127を実見されていて、その特徴を撮るには、後部、斜め上からしかないと判断したと述懐されています。Davisさんもよく撮っておられましたね。この年の11月には東北本線に転属していますから、山科では最後の姿ですね。当時の資料を見ますと「無煙運転」の文言が踊っていました。とにかく黒煙を出さないことが大事で、白煙は問題なかったようです。

  3. 珍しい写真を有難うございます。
    韓国でミカサを撮ったことがありますが油だらけで多分重油専燃蒸機と見ました。文献等を確認した訳ではありません。C59が盛岡まで入線していたことは趣味誌で見たことがありますがC59127が専用で入ったのでしょうか。一ノ関までのC59定期運用は確認していますが、盛岡入線に際して軸重は大丈夫だったのでしょうか。併燃機は関西地区のC57や東北、長野などのD51等に多く見られたのですが、これはどの程度の効果があったのでしょうか。勾配区間で有効だったのでしょうか。

    • 準特急さま
      日本では専燃機はC59127だけでしたが、石油の豊富な国では、当たり前のように重油の蒸機が走っていたようです。東北本線のC59は、仙台区が知られていて、一関まで入線していましたが、C59127は、盛岡区へ転属した唯一のC59で、昭和32年3月からわずか3年の在籍でした。しかも使用線区は盛岡~一戸の勾配区間の補機専用でした。盛岡以北は軸重軽減のC60の働き場所で、C59が例外的に補機専用で入線したようです。補機とは言え、奥中山をC59が越えていたとは今回調べて改めて驚きました。

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