旧東海道本線逢坂山隧道

京都-大津間の旧東海道本線は明治12年8月にまず大谷-京都間が開業、翌13年6月28日の逢坂山トンネルの開通を待って、7月14日に明治天皇の試乗があり、7月15日より営業運転が開始されました。これは新橋―横浜間に遅れること8年、神戸-京都間に次ぐ、日本でも三番目の路線となりました。当時のルートは名神高速道路の蝉丸トンネル西口の手前に大谷駅が作られ、駅を出てすぐにトンネルとなります。逢坂山を貫くこのトンネルは日本最初の山岳トンネルで、さらにお雇い外国人の手を借りることなく作られたトンネルでした。当時は機械もなく、生野銀山の労働者がノミやつるはしを主体とした手掘りで掘りぬいたとされています。トンネルの西側入り口は名神高速道路の下になってしまい、トンネル坑口の上部につけられた井上勝の銘文は京都鉄道博物館に保管され、現在は昭和37年に建てられた石碑だけがその場所に立っています。

↑ 全長664.8mのトンネルを抜けた東側出口は当時のままの姿で残されていて、坑口上部には竣工を記念して当時の太政大臣三条実美の揮毫による「楽成頼功」扁額がかけられています。現在の東海道線が開通した大正10年以降は鉄道トンネルとしての使命は終えましたが、現在は1970年に地震予知研究を目的として設立された京都大学地震予知研究センターの逢坂山観測所として使われています。公開されているのは入口から10m程だけで、その先は閉鎖されて扉の向こうは立ち入ることができませんが、側壁にはイギリス積みの煉瓦が見られ天井部分は煤煙が付着しているのが見られ、昭和35年の鉄道記念日に鉄道記念物として指定されました。出口の広場には特に隧道を紹介する施設はなく、紹介する掲示だけが設置されています。↑ 左側が開通当時のトンネルで、右側は明治31年京都ー馬場間が複線化された時に作られた。

このタイミングで旧逢坂山隧道を紹介したのは、昨日のニュースで琵琶湖疎水が国宝に選ばれたのがきっかけでした。琵琶湖疎水は第一から第三の隧道、南禅寺水路閣、インクラインの5か所が国宝に選ばれ、大津閘門・堰門を含む19か所が重要文化財に選ばれました。近代の土木構造物としては初めての国宝となるそうです。↑ 琵琶湖疎水第一隧道:両側の土手は桜の名所で桜の時期には多くの見物客で賑わう↑ 大津閘門・堰門:疎水と琵琶湖湖面の異なる水位間に水位が変化できるようにしたもので2023年からはここを通って疎水通船は浜大津港から蹴上まで運航している。

旧逢坂山隧道は先にも記載したように日本で最初の山岳トンネルで、日本人の手で作られたものです。これ以後の日本の鉄道トンネルの発展に寄与した遺産がそのままの形で残されているとして、旧逢坂山隧道も重要文化財にも値するものではないでしょうか。またこれを広く紹介するような施設も作られないかと思っています。

旧東海道本線逢坂山隧道」への12件のフィードバック

  1. 大津の86さま
    大津近辺の話題を色々ご紹介戴き有難うございます。当初の京都~大津間の東海道線に関しては逢坂山トンネルに限らず、歴史遺産として価値あるものが多いと思いますね。確かに現存している施設や構築物は少ないですが、そのルート跡なども鉄道史に残るものだと思っています。例えば京都~伏見間は一旦貨物線となり、その後奈良電が利用して建設され、伏見から先は名神高速道路用地として利用されているのは周知の事実です。また馬場から浜大津間の貨物線は京阪石坂線用地にもなっています。鉄道黎明期の遺産とその再利用のケースとして貴重な歴史を有していると思っています。仰るような何その意義を顕彰する何らかの施設が欲しいところですね。余談ですが昭和35年にキンカクシいや金閣寺近くに引っ越した際には、敷地の盛土を名神高速の建設現場から持って来ていました。ああこの土の上を列車が走っていたのかと、なんとなく気分が高揚したことを憶えています。
    琵琶湖疎水は小さい頃に蹴上のインクラインに関心を持ち、昭和46年から52年までは実家が山科毘沙門堂近くに住んでいたこともあり、大いに親しむことになりました。当時土曜日は半ドンだったので、よく京津線御陵で降りて疎水傍を歩いて帰宅したり、桜の季節には花見を楽しんだものでした。また現在運航されるようになった観光船の予備調査の段階から琵琶湖汽船が関与していたこともあり、復活するであろう水運にも興味をもちました。実はこの春乗船したくて調べてみましたが、余りにも乗船料が高くて諦めました。桜の季節はいざ知らず、風景が見えるでもなし、護岸を見ても仕方がないと無理やり納得しての判断でした。余談ですがダイヤが京都へ下る方が大津行よりほぼ倍の時間を要しているのです。流れに逆らう方が早いという面白いダイヤになっています。

    • 1900生様
      思い出も含めコメントを頂きありがとうございます。書きましたように、琵琶湖疎水が国宝になったということで慌てて旧逢坂山隧道のことを書いてみました。旧逢坂山隧道は折角の遺構があるのにそれを紹介する施設もなく、訪れる人もほとんどありません。近くで同時代の琵琶湖疎水が注目を浴びるようになれば旧逢坂山隧道にも少しは目が向くのではと期待しています。
      疎水船は私も一度乗ってみたいのですが、高いのと桜の時期はすぐに埋まってしまうため実現できていません。下り便は疎水の流れに乗ってゆっくりと進みますが、上り便は流れに逆らうため少し速度を上げないと安定しないので逆に時間がかかるそうです。

  2. 大津の86さま
    地元の歴史を丹念に調べておられることに敬意を表します。尾道市立美術館にて「大津絵と浮世絵版画展」という企画展が開催され、その最終日に「大津絵」につられて訪問しました。大津絵のコレクションも立派でしたが、一方の「浮世絵版画」は広重の東海道五十三次の版画と明治時代の古写真を各宿場毎に対比して展示したもので、この53枚も大変興味深く見学しました。その中で、宿場ではないのですが「逢坂」の説明の古写真に目が釘付けになりました。その写真は、左に複線の標準軌の軌道、中央に道路(東海道)、右に蒸機が牽く列車が殆ど高低差無く写っているのです。このような場所は、逢坂山トンネルを抜けて膳所に下り
    始める箇所しかないだろうと推察するものの、よく見ると左手の複線軌道には架線柱や架線が見えず、一体いつの撮影なのかと立ち尽くしていた次第です。家内にせかされてその場を離れましたが、撮影禁止のため写真は撮れず、学芸員さんに聞こうと思いましたがつかまらず、また図録も作られていないため記憶の中だけです。企画展最終日でなければ再訪できたのですがそれも叶わず、同館は改修工事のため9月中旬まで休館となってしまいました。さて、7月には近江今津で江若展が予定されていますので、久しぶりに湖西を訪ねるつもりです。貴君とお会いできるのを楽しみにしています。

    • 西村様
      自宅から歩いて行けるような狭い範囲しか調べられていませんが、いろんなことが出てきて楽しませてもらっています。旧東海道線と京津線が並んでいたのは追分ー大谷間で、この時代は国道の併用軌道でしたので、ご覧になられた写真の場所はこのあたりかと思われますが、京津電車は当然電化されていましたので架線柱がないというのはおかしいですね。また、旧東海道線の大谷駅は逢坂山トンネル西口のすぐ西にあり、この付近は山を掘り下げて駅を作ったので、左手の国道とは高低差があります。また、逢坂山トンネルを抜けた大津側はトンネルを出てすぐに国道と京津電車を立体交差していますので、トンネルの出口側では高低差なく写るところはないと思います。どんな写真だったのか見てみたいところです。

  3. 大津の86様
    記事に刺激を受け、本日現地へ行ってきました。これまでに何度も161号線を通っていながら、気が付かなかったのは間抜けなことです。
    京津線の上栄駅を降り、旧東海道本線逢坂山隧道坑口をはじめ、近くの見どころを回ってきました。平日ですので他に訪問者の姿はありません。新緑には少し遅いかもしれませんが、ちょっとした旅行気分も味わえ、旧東海道をのんびり歩くのも楽しいものです。

    • 紫の1863様
      コメントを頂いていながら気が付かず失礼いたしました。大津は京都に近く、昔は交通の要所でもあったので早い時期に鉄道が整備されました。旧東海道線の遺構は逢坂山隧道以外に、旧上関寺駅横の煉瓦積みの橋台、国道1号線下のねじりまんぽなどがあります。京津線もいろいろ面白いところがありますので是非ご覧ください。

  4. 琵琶湖疏水が国宝に指定されましたね。先週末のニュースを聞いて、びっくりしましたよ。今までは近代化産業遺産の指定しか受けていない琵琶湖疏水ですが、重文指定も受ず、いきなり飛び級で国宝になるのは、正倉院と赤坂離宮に次いで3例目とか。国宝指定された大津市の大津閘門から、水上船に乗って、蹴上インクラインまで乗船したことがあります。普段はよく見る疏水の風景ですが、水面ギリギリの目線で見るのは新鮮な光景でした。
    蹴上にあるインクラインも国宝指定されました。鉄道の一種であり、これも国宝に指定されたこと、喜ばしいことです。インラインに使われた台車は、中間の南禅寺付近にも置かれ、観光名所として賑わっていますが、もう一機、台車が蹴上の船溜まりに保存されて置かれています。付近には、レンガ造りのポンプ場や、朽ちた建造物が多く、いわくありげな、ちょっと廃線跡の雰囲気です。

    • 蹴上のインクラインは、総本家さまのおっしゃる通り、鉄道の一種なのだが鉄道としての研究は、あまり為されていません。旅客輸送が主ではないとか、疏水の一部区間であるとか、などの理由からかと思います。ご存じの様に在所の京都には明治28(1895)年に日本で最初に開業した電気鉄道(京都電気鉄道)がありました。ここは、その4年前に送電を開始した蹴上発電所から受電しており、蹴上は日本最初の事業用水力発電所です。この発電所は蹴上インクライン昇降用ドラム動力へも電力供給しており、インクラインは京都電気鉄道電車に先行して開業していて、電車ではないが、考えようによっては、蹴上インクラインは、日本最初の電気動力に拠る鉄道だったと云えると思います。両方とも、京都にあり開業ナンバー1の地位はゆるぎませんが! 別の見方でもうひとつ、ナンバー1ではないかと思っているのが、ゲージ(軌間)です。蹴上インクラインの明確な軌間を記述した資料にお目に掛かった記憶がないのですが、公共鉄道としては、明らかに日本最広軌ではないかと思われます。これを機会に、関心が高まって、色々なことが明らかになるのではと、楽しみにしています。

      • 宮崎繁幹さま
        いつもコメント頂戴し、ありがとうございます。そうですね、鉄道の一種とすれば、インクラインの軌間は、異様なまでの広さですね。調べますとインクラインの軌間は2540mmとありました。わが国では標準軌を上回る軌間としては、ここだけではないでしょうか。まさに国宝級です。古写真を添付しましたが、対照的に複線のレール間隔は、異様な狭さで、目分量で700mmぐらいしかありません。またインクラインは、京電よりも早い、日本初の電気動力に依る鉄道論、たしかに! 納得しました。

        • 京都には、伏見にもインクラインがありました。伏見は、規模が蹴上の半分ほどで、稼働期間も蹴上インクラインより短いですが、建設されたのは蹴上の少し後です。写真を見ると、蹴上と同じような線路の造りですので、ゲージも同じだったかもしれません。以下のURLで、写真を見ることができます。

          https://itot.jp/archives/1405

          • 宮崎様
            伏見インクラインの絵葉書サイトを見ました。ご紹介、ありがとうございます。たしかに、蹴上と較べて、期間も短かく、規模も小さかったためか、ほとんど写真が残されていませんね。こんなサイトも初めて知りました。ありがとうございます。

    • 総本家青信号特派員様
      疎水の船に乗られたんですね。私の一度乗りたいと思いながらまだ実現していません。現在は浜大津港からも乗れるようになったので、大津閘門を通過して船が水面に合わせて上下するのを体験できます。撮影した時はちょうど船が閘門から出てくるところで、お互いに手を振りあいました。尚、大津閘門は国宝指定からは外れ、重要文化財となりました。

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