今冬の撮影

早いもので今日は立春。昨日は豆まきで鬼の役をやられた方もおられたのではなかろうか。今年は暖冬でスキー場がまいったようであるが、このところ雪不足も解消してきたようである。このような中、老骨に鞭を打って近くなくなる津軽海峡線の主に特急列車等を日帰りで撮影してきたので退屈しのぎに御覧いただければ幸いである。

2016.2.1 蟹田-中小国 4011M函館行き「Super白鳥11号」789系6連 ▼s-16.2.1蟹田1334

2016.1.31同一場所での函館方面に向かう貨物EH800-1[五稜郭]  なおこの撮影には偶然に青森で出会った逗子の旦那ことT氏と行動を共にする  ▼s-16.1.31蟹田EH800-1

 

2016.2.2 山形鉄道今泉-時庭 YR883赤湯行き ▼s-16.2.2今泉1335

16 thoughts on “今冬の撮影

  1. 準特急さま
    久しぶりのご投稿、楽しませてもらいました。それにしても見るからに寒そうな風景ですね。私も、激変する津軽海峡線の現況撮影したいと思い、ひそかに計画だけは立てたのですが、諸般の事情により、コタツ番に変更しました。日帰りと書かれていますが、これは、例の切符で、毎日、行ったり来たり来たりされたのでしょうか。東京なら、こんな芸当も可能なのですね。くれぐれも、鞭を打ち過ぎないように、お願いいたします。

  2. 有難うございます。例の切符です。この切符、昔は函館や福井まで行けましたが徐々に乗れる範囲が狭まったり、料金が上がっているようです。それでも青森まで片道乗るだけで充分元をとれますので利用時期が来ると4日間フルに使います。私も諸般の事情で日帰りの連続ですが、この時期にこの歳では遭難の恐れもありますので、駅から撮影地への道を知っている場所にしか行きません。蟹田ではDRFC-OBの若手のホープにも会ったことがあります。何でも「リバイバル海峡号」を撮られるとのことでした。

  3. 準特急様
    ご無沙汰です。
    お元気で雪原を走り回っている様子、安心しています。
    津軽線の時代に気動車で乗りつぶしに行ったことがあります。
    折り返しの車内でおばあさんから「どこから来たの?」と聞かれたので「京都からです」と答えたら、「蟹田に住んでいるので今日は泊まっていけ」と勧められました。丁重にお断りして目的地の浅虫へ行きました。その頃の寂れたロ-カル線が今や大動脈。地元の変化をじっくりと見たいものです。

  4. 米手作市様
    こちらこそご無沙汰しており、広島詣でができず大変申し訳なく思っております。米手様と言えば人情と客車。よく当時の津軽線に乗られましたね。1964年の時刻表を検索すると津軽線は客車列車はなく全てディーゼルです。竜飛岬にでも行かれたのでしょうか。私も浅虫温泉で泊まりましたが、大型機C60、C61が目的で津軽線、八戸線、大湊・大畑線、五能線等々は行く時間的余裕がありませんでした。蟹田のおばあさんも人を見て話をされたのでしょう。私もあの頃は車内で他人様からみかんをもらったりしたことがありますが「泊まっていけ」と言われたことはありません。今は時代がかわっており車内で下手に喋ると胡散臭い顔をされるので対話が減っています。しかし、こういう時代であるからこそ会話を求める人も結構います。親切な人もいます。「今冬の撮影」の3枚目の山形鉄道の写真ですが、今泉駅から1.5kmほど歩いた踏切近くにある某自動車工業の敷地で撮影したものです。撮影の許可をもらったのですが、たまに雪雲が来て吹雪いてくることがあり、工場の脇で吹雪を避けて列車を待っていました。そこへこの工場に勤める山岳写真の好きな方が山形鉄道のデジカメ写真を見せてくれ温風機をまわし、熱い缶コーヒーをサービスしてくれました。自動車工業はこの地域では大きな会社なのかネットで住所がわかったのでここで撮影した写真でつくった礼状を差出しました。

  5. 準特急様
    蟹田でお会いした者です。津軽線の写真は樋橋踏切でしょうか、ここまで蟹田から20分程度歩くと思いますがこの寒さに歩いたのでしょうか。その執念には脱帽です。こちらは今年に入ってまだ阪堺線にしか出撃していません。地道な活動には頭が下がります。私も諸般の事情で最大3泊までの日程しか出かけられませんので大して撮影できません。お会いした「リバイバル海峡」の時は海峡撮影後はスーパ白鳥で函館まで行き車を借りて翌朝の北斗星を渡島当別→大沼公園→大岸→北広島と追いかけて千歳から帰りました。また、どこかでご一緒させてください。

  6. 893-2様
    若手のホープなど失礼なことを申し上げましたが、考えてみますとDRFC-OB会も老人会の集まりのようになってきております。そして名簿を見ますと私はいつも第1頁に名前が出ており今更ながら余命が短くなったことを痛感している今日この頃です。893-2さんも若い(?)のですから巻頭写真撮影よもやま話などのデジ青投稿や写真展でご活躍ください。蟹田ですが青森よりの俯瞰できる崖は登山禁止となり、何より冬の鉛色の海は撮影する気にならないので仰せの樋橋踏切に行きました。途中の踏切は道路が雪に埋まって危険なので比較的安全なここへ集中しました。超有名撮影地なので他を探したかったのですが、体力、気力がなく無理でした。ここも吹雪いてきた時は近くの建設会社に逃げ込みましたが893-2さんに教えていただいた中央線の坂下の方が距離が長くさらに炎天下できつかったです。

  7. 準特急様
    ♪上野発の夜行列車降りた時から~
    思い出しました。
    この時は山室君達といっしょだったように思います。さらにこの旅行中に京阪電車野江信号所ダルマ落とし事件が発生しました。浅虫温泉の宿で新聞を見た記憶があります。

  8. 米手作市様
    東京から3時間で青森に行ける時代となり、上野から夜行列車がボンボン出ていたのももう遠い過去になりました。石川さゆりの歌も、三橋美智也の歌もピンと来なくなりましたが、我々の時代は夜行列車では窮屈な座席で弁当を何回か食べ、垂れ流しのトイレに入り、不便な旅でしたが何となく遠くに来た感じで楽しかったように思います。ところで専門用語、業界用語には特に弱いのですが、京阪電車のダルマ落とし事件とはどういう事件なのでしょうか。ダルマとは高崎の弁当とばかり思っていましたが、電車などの廃車体で台車など足回りのないものを言う場合もあるようですね。多少痴呆が進み始めています。宜しくお願いします。

    • ダルマ落とし事件の説明です。
      以下、Wikipediaよりの転載です。

      「昭和41年8月3日、大阪市城東区の京阪電気鉄道京阪本線蒲生信号所(現在は廃止)構内の複々線の緩行線(B線、外側線)と急行線(A線、内側線)との合流ポイント付近で、緩行線から急行線側に進行中の下り普通列車の側面に、急行線を併走中の下り急行が信号冒進して衝突。普通列車の先頭車両はその衝撃で上り線側に飛び出し、信号所の建物に突っ込み、上り線路を支障した。乗客など51名が重軽傷を負った。現場には上り区間急行列車が接近していたが、信号所の助役が負傷しながらも下り方向へ走り上り列車に対して列車防護を行った(停止信号を出した)。区間急行の運転士はこれに気付き非常ブレーキを作動させ、現場手前で停車し、二次衝突を避けることができた。原因は急行運転士の過労とされた。この事故を契機に京阪は自動列車停止装置の導入に踏み切った。」

      この時に下り普通電車が信号所の一階部分に突っ込んだため、一階が粉砕されて二階部分が車体の上に乗っかったのを指しました。

      • 京阪の蒲生信号所の事故、昭和41年は私が入社した年の研修期間中で、本務の車掌になって1カ月目でした。
        事故のあった8月3日は小生23歳の誕生日で、その夜は当時はまだカノジョであった今は亡きヨメと晩飯デートの予定でした。
        事故が発生したのは確か14時過ぎだったと思いますが、私は朝6時頃から勤務していましたので、ちょうどその時間くらいが私の終業時間でした。
        勤務終了申告に深草列車区に帰った時に担当助役から「残業してくれ!」と命じられ、イマイチ事情をはっきり把握していない中で、言われるままに三条~守口間の車掌勤務を続けて(守口~淀屋橋間不通)、そのまま延々と何度も往復して守口からの最終急行まで担当し、四条堀川の自宅に帰ったのは午前2時頃だったと記憶しています。
        (守口列車区にいた同期の連中の中には代行バスの車掌を命じられた者もいましたが、まだ入社して4カ月、大阪の地理に全く不案内な者もいて、代行バスがどこを走っているのか全く見当もつかず、お客さんから散々こつかれたと聞いたこともあります)
        当然、バースディデートはすっ飛んだ、思い出に残る一日でした。

  9. 準特急様、
    貴兄ほどの博識がご存じないのもごもっとも!
    この名前は私が考えたものです。当時、この事件を揶揄して室町ボックスで使っておりました。貴兄の仰るように「昭和は遠くなりにけり」ですが、たぶん1900生さんならご存じだと思いますので今しばらく書き込みを待ってみます。
    1900生さ~ん!野江の事件を教えて下さーい。

  10. 準特急 様
    私の年齢で若手というのは問題です。お託けの件はぶんしゅう様からも仰せつかりましたが会社ではまだまだこき使われており多忙のため撮影を優先すると投稿などに割ける時間が捻出できません。リタイアしてまだ余力がありましたら考えたいと思います。また現状はトップページでも精一杯で写真展まで手が廻りません。ご指名頂きながらお答えできず申し訳ありません。海峡線はこの時期夜行列車を撮影するには日の出が遅く昨年のうちに撮り納めしましたが、3月に機会があれば最後に行ってみたいと思います。

  11. 893-2様
    年金退屈男と違い現役就労者は大変だと思います。仕事をせずに趣味だけに走るのはいけませんが、どうぞ仕事と息抜きをうまく調整して健康に留意してご活躍ください。

  12. 湖畔のヒマ人様、
    そんなことがあったのですか!
    私はちょうど浅虫温泉のYHで朝刊の一面に載った記事で知りました。
    定かで無い記憶では、当時、複線と複々線の分岐点で、蒲生信号所はその管理業務をしていたと思いますが、あっているのでしょうか?
    感激したのは、当直助役が負傷しながら列車防護をしたことです。現代の鉄道マンもこうであってほしいものです。

    • 米手作市さん
      蒲生信号所についてはその通り、京橋~野江間の国鉄の城東貨物線をくぐった京都方にあって、ここから京都方へ守口までが複々線でした。
      その頃は今のようなハイテクな装置は何もありませんでしたから、信号所の助役が大阪方から来る列車を止めなかったら、三河島事故の再現であったかもしれません。

      • 湖畔のヒマ人様、
        ありがとうございます。
        蟹田の思い出話から蒲生の事故まで話が飛んでしまいましたが、これがこのHPの楽しいところです。
        もし覚えておられたら、信号所へ飛び込んだ車両の形式を教えて頂けませんか?

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