「京阪1000型」に便乗

米手氏が国鉄京都駅から近鉄ホームに停車中の京阪1000型を撮られていたし、西村さんがたくさんの1000型をアップされていたのに、ちょっと便乗させてもらいます。
(近鉄京都駅3番線の宇治行き)

(写真の挿入の仕方を失念、大変失礼いたしました)
上の左から3枚目、京都と東寺間を高架工事中で、その区間は単線運転していました。
4枚目は京阪の丹波橋1番線から近鉄線に合流する箇所、その次は近鉄線から京阪丹波橋の4番線への分岐点です。
(1967年頃は、戦時中廃線になっていた近鉄丹波橋(廃線時は奈良電堀ノ内)も再開されていて、近鉄線列車はまっすぐ近鉄丹波橋駅へ行き、京阪から乗り入れていた列車だけが使用する分岐でした)
最後はオマケ、桜の疎水端を走行する1000型。

以前1900生さんが書かれていた運転台上部のベンチレーターは「飾り」であったように思います。(内部の運転台には、外気を取り入れたり止めたりするレバーのようなものはなかったように記憶しています。

河さんご指摘のように時代考証からすれば、夏の運転席は「サウナ」でなく「蒸し風呂」が正解です。

「京阪1000型」に便乗」への7件のフィードバック

  1. 無印不良品 様 京阪ファンの皆 様

    然るべき資料や文献も確認せず質問するのは気が引けますが、甘えさせて下さい。
    此の『京阪流電』ですが、今までに見た写真等ではスカート姿はありません。
    52系流電のようなスカートは無かったのでしょうか?
    それとも52系同様保守点検の合理化で取り外された(?)のでしょうか?

    もし新製時(昭和13年)より無かったとすれば、京阪は先見の明が有ったと言えますね。
    何しろ52系は登場した1936(昭和11)年以降戦時中まで、長い間の不便にヤセガマンしていた訳ですから。

  2. 無印不良品様、
    この写真の並べ方、いいですね!
    写真が多いときはこれにします。ありがとうございます。
    ところで、高架工事中の写真は近鉄東寺から京都方向を見たものですね?前方が新幹線の高架ですね?

  3. 無印不良品様
    珍しいアングルの写真をありがとうございます。京都駅を出る1010は一般人では撮れないアングルだと思います。高架工事中のカットも貴重な記録ですし、京都駅の留置線に客車が停まっているのも懐かしい光景です。直接関係ない話ですが、東福寺駅の国鉄奈良線と京阪線ホームが往き来自由だった頃、国鉄京都・東福寺間をよくロハで乗せて頂きました。もう時効ですが、京阪の定期券利用者でしたから国鉄京都駅に着いたら奈良線のDCキハ17やキハ35に乗って東福寺へと鴨川を渡ったものでした。京都駅のシーンを見ながら半世紀前を思い出しました。

    • 1960年代 学生時代の東福寺駅、京阪と国鉄の間がフリーだったころはよくお世話になりました。
      (こういうところに書くのはかなり憚りますが、もう時効ですし、今は絶対にマネもできないことですからいいでしょう!?)
      東京から京都へ帰るときによく利用したのが夜行の大阪行き鈍行143レ、一番前に名古屋行きが1両、その後位に荷物車が2~3両あり、その後ろから大阪行きが数両の列車でした。
      その頃の東京駅の15番線ホームは前方が右に曲がっていて、ホームに上がってきても荷物車までは見えてもその前の名古屋行きは目に入りませんから、大阪行きがよく混んでいる時でも名古屋行きはガラガラで、たいがい1ボックス1人でゆっくり横になれました。
      名古屋に着くのは朝6時頃でしたから、そこで後ろの大阪行きに移動してももうガラガラで、悠々と帰京したものです。
      名古屋行きの後ろに荷物車がありましたから、まず検札に遇うことは
      なかったので、東京乗車時は有楽町まで10円の切符で入り、「保険」と称して別に京都までの切符も購入していました。(万が一検札に遇った時、入鋏済の有楽町行きの切符と一緒に京都までの切符を出せばノープロブレムですが、その時は京都行の切符に検札印が入るからパーに、それゆえ「保険」!)
      京都からは奈良線で東福寺経由で三条まで行き、京津線各停の到着を待って「蹴上から」と言って出札口で10円で出て、その足で京都駅に行き、東京~京都の切符を払い戻ししてオシマイ!
      この手口は某先輩からの伝承で、以上、オソマツでした。

      • 無印不良品様
        私の京都・東福寺の話はかわいらしいもので、143レの手口とは比べものになりませんね。とは言え50歩100歩であり、市中引き回しの上、ムチ打ち何回というお裁きになるのでしょう。貴重な告白譚をありがとうございました。ここで質問ですが、東京のどこかの駅で買った京都行き切符には発行日付も入っていたでしょう。確かに入鋏されておらず、未使用ですが 京都で払い戻す際に不審に思われなかったのでしょうか?相棒が旅行を中止したためひとり分が余ったというようなストーリーなのでしょうか?

  4. 無印不良品 様

    これは、これは、臨場感たっぷりの実話(?)に『へ~っ、そうやったんや。エライ長距離を股にかけた薩摩の守の話やなぁ。』と、まるで鉄道ミステリー小説を読んでいる様な気分を楽しませていただきました。(笑)
    しかし、緻密な『抜け穴研究』を駆使しての話は、言わば法の欠陥部分を『究明』した研究成果ですね。

    遠い昔の武勇伝?となると小生にも思い出が多々あります。
    例えば、結構遠方の地へ車両撮影に出かけた時、学割定期券で入場したため必然的に結構な長距離区間が無賃となりました。
    話はその後で、駅のホームから留置線に多数居る憧れの車両達をパチパチやっていたのは良いのですが、当時は撮影を咎められる事もなかったため、とうとうホームから線路に降りて構内をウロウロしての撮影に。
    その内、『薄々気付きながら(笑)』も門外の道路に出てしまい・・・結果、犯罪を犯してしまいました。(今では時効成立?)

  5. 西村さん
    ご指摘の通りで、払い戻しの際 必ず質問されました。私の回答は貴兄のご推察通りです。
    ある時、あまり日をおかずに同じ手口で払い戻しに行ったところ、先日と同じ係員で、とっさに「急用ができ飛行機で帰ってきた」と言ったことがありました。(貧相な風袋の貧乏学生が飛行機なんぞに乗れるわけないですわな)
    逆に、京都からやはり「保険」を使って遠くまで行ったときは、着くとすぐに切符だけ入れて在京の某友人宅へ郵送すると、受け取った本人は直ちに京都駅へ払い戻しに行ってくれてました。

    河さま
    お恥ずかしい限りです。
    カネはないけど時間だけはたっぷりあったところから編み出した「知恵」(!?)で、決して誇れるような武勇伝ではありません。
    田舎の駅では河さんの手口も確信犯的に実行していました。
    その頃の行為がトラウマになっていて(今の鉄道はガンジリガラメのシステムになっていますが)いまだに汽車賃を「如何にして安くあげるか」に血道をあげている始末です。(酒代などはダダ洩れですのに・・・)

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